本と云ふものは例外なしに著者によつて書かれるのであり、全ての文章は筆者の價値觀を通して思想が發現したものだと言へる。
これが何を意味するかと言ふと、昨今流行りの「書かれた事実」を探求するために読むという近代的読書
なるものをする時においても、常に筆者の存在を措定しておかないと危ないと云ふ事だ。單純に事實だけが書かれた文章、完全に客觀的な文章と云ふものはあり得ない。
全ての文章の意味は、文脈に基づいて決定される。この「文脈」の中に、「筆者」の存在もまた位置附けられて良い。當然の事ながら、この「筆者」の「姿」だけを追ひ求める讀書なるものが主張されるとしたら、それはそれで××な主張だが、しかし、筆者の存在を忘れて、書かれた事だけを讀取らうとするのは、一種の「文脈」無視とも言ひ得る事だ。
そもそも、事實を述べるにしても、或事實を述べると云ふ事は、他の或事實を述べない事である。當り前の話で今更野嵜に指摘されるまでもないと言はれるかも知れないが、案外多くの人が見過ごしてゐる事實でないか。コピー&ペーストであつても、或文章をコピーして持つて來ようと考へるのは人である。引用にしても結局のところ或文章を選択してピックアップしようと考へるのは人である。オリジナリティの缺如を目指すと云ふ意圖自體、思想に基くものである。全ての文章は、この世に現れる際、筆者であらうが轉載者であらうが引用者であらうが、さう云つた立場は關係なく、全て人の價値觀に基いて撰擇されてゐる。
書かれた「事實」だけを讀取らうと言ふのは、讀者の價値觀に基いた積極的な「讀み」である。筆者の存在をひたすら閑却すると言ふのは、實は結構主觀的な讀み方なのだ。勿論、筆者の姿を文章から見出さうと言ひつゝ、同時に、文章の意味を筆者の思想から決定しようと言ふのは、變な話であるやうに思はれる。意味がわからないのに筆者の姿が見出せるのか、筆者の姿が見出せないのに筆者の意圖が判るのか。不可能な事が主張されてゐるやうに思はれよう。
ところが、この邊の「機微」と云ふものは、現實社會で我々は案外ちやんと知つてゐるものだ。人と話をして、人を解りながら、同時に言葉の意味を理解する、と云ふのは、或程度可能である。勿論誤解も多々發生する。我々がそれでも社會を構成してゐられるとしたら、我々が言葉と云ふ使ひ辛い「道具」を使ひながら、辛抱強くやつてゐる御蔭で何とかなつてゐると云ふ事を意味する。
ところで、さうした言葉によるコミュニケーションで要求される辛抱強さが、昨今のウェブでは消滅しつゝあるやうなのだ。それは「近代的読書」的な發想が當り前のやうに考へられてしまつてゐる事と密接な關係があるやうに思はれる。