著作權の保護期間を延長するしないで揉めてゐるけれども、延長反對なんてしないで、「著作權の觀念そのものがそもそも前近代的である」として著作權自體を否定してかかるべきだ。著作權は、copyrightであり、原語の語義から言つて複製權であり、コピーする權利である。が、「コピー・複製は困難である」と云ふ時代に著作權は作られた。利益を上げなければ複製出來ない時代の權利なのである。今のやうなデジタル時代には、複製は容易に出來る。だから本質的に複製權である著作權は時代錯誤的なのだが、なぜそんなものが未だに生きてゐるのかと言ふと、必要とする人がゐるからである。なぜ必要かと言ふと、複製によつて利益を上げる事が、その種の人の生業となつてゐるからである。複製に據つてコンテンツを賣る産業が、現在、存在するからである。が、その種の産業は、活字に據る出版が實現して、初めて成立したものである。メディアの容れ物が出來て、メディア産業は成立した。その容器としての書籍の複製を行ひ、それに據つて利益を上げる權利を守る爲に、著作權は成立させられた。が、その後、レコードのやうな音樂・音聲のコンテンツや映像のコンテンツの複製を行ふ權利をも、著作權は守るやうになつた。複製する權利を守るのが著作權の考へ方である。が、容易に複製出來ない時代のアナログなメディア――書籍やCDやヴィデオテープに加へて、現在は容易に複製出來るデジタルのメディア――インターネットが出現した。そこで、アナログ對デジタルのメディアが對峙してゐると言ふ訣だが、グーテンベルク以來の大革命と言はれるインターネットの出現――實はデジタル革命なのだが――に據つても、我々は發想の轉換を出來てゐないのである。
問題はインターネットが半ば商業的に運營されてゐる事にある。インターネットが、假に完全に善意的で良い意味で共産主義的な政府なり人類補完機構なりに據つて運營され、利用者に公正な態度で對價を要求するやうなものであつたならば、「革命」は極めてスムーズに行はれたに違ひない。が、さう云ふ「假に」の話は、現實みがない、單なる想像である。とは言へ、さう云ふ非現實的な方法でしか本質的な解決がないのであれば、我々は矛盾を抱へて取敢ず場當り的に何でもやつて行くしかなからう。が、いつまでもそれで問題を凌いでゐては困るのである。