制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成二十一年六月十一日
公開
2009-12-06

「ブログ」の何が嫌ひか

「完成された記事」??????

「ブログ」の何が嫌ひかつて、記事が「完成されたもの」として提出された事になるのが嫌ひ。

提出されたものを元に、何うにかしてより良い「知」を作り上げて行かう、と云ふ方向には絶對に行かず、大抵は即座に・感情的に「賛成」「反對」の意見がぶつけられるだけの結果になる。閲覽者が記事の意見に「反對」の場合、その人は足を引張るコメントを書込むだけで、建設的な意見を述べて話を發展させようとは絶對にしない。「ブログ」はその性質上、本質的に「炎上する」ものであると言つて良い。

私はもともと、ウェブに公開される文章は、「完成されたもの」ではなく、幾らでも書直しが出來るものだと思つてゐた。そして、そのやうな柔軟な考へ方だからこそ、「知の集積」が實現するものだと思つてゐた。ところが、案外多くの人が、ウェブで公開された文章(實は、文章に限らない、繪でも何でも)は「完成形」である筈だと確信し――「完成形の文章」に對しては一方的に非難を浴びせる事が可能であるし、浴びせるべきであるとすら、信じてゐる。

斯う言ふと、「甘えるな」式の非難が浴びせられる訣だし、「お前だつて他人を攻撃してゐるだらうに」と批判が出て來る筈だが――けれども、私は人の意見を批判しても、それがより良い認識・より良い輿論の形成に寄與するならば、世の爲人の爲になるべき事を信じてゐる。ところが、多くの人が、唯自分の樂しみだけの爲に他人の惡口を言ひ、他人の足を引張つてゐる。

他者を攻撃して快を貪る「アンチ」と呼ばれる人々

何でさう云ふ事が言へるかと言ふと、私は(自分でさう言ふから憎まれるのだが)割と柔軟に考へてゐるのに対し、その手の人々は意味もなく「嚴格」だからだ。私の場合は、自分がドグマ的にならないやうに、何を言ふにも一々考へてゐるから結構意見がふらついてゐるけれども、ドグマに基づいて他人を罵つてゐるその手の人々は、何かを考へる必要すらも意識せず、氣樂に人を嘲る事が出來てしまつてゐる。私の事を「信者」と非難する人がゐるけれども、私が「信者」なら、その手の「アンチ」の人々は私の考へが何時もふらついてゐる所を何うしてつつけるのだらう。逆に、私を非難する「アンチ」の人々が、考へをふらつかせた事は一度もない――彼等は確信を・「信仰」を持つてゐるからだ。そして、「信仰」を持ち、ドグマ的に物事を解釋して、「敵」をばつさり斬るのは、寧ろその方こそ信者的ではないか。

少くとも、ドグマの域に留まつてゐては「知識の集積」の動きに參集する事は出來ない。が、ドグマにはまつてゐる・本當の意味で信者である人々は、自分の信ずるドグマこそが「眞の知」であると確信し、自分の信ずる價値觀と相反する價値觀を「痴」と呼んで嘲るのを當り前の事と思つてゐる。彼等が、頑迷固陋な發想に陷ると同時に、傲岸不遜の態度に陷る所以である。

「ブログ」は、さうした「信者としてのアンチ」が活動するのに、ひたすら便利な「ツール」である。が、同時に、『信者としてのアンチ」には「ブログ」を書く「ブロガー」がゐなければならない。足を引張るべき對象が存在してゐなければ、「アンチ」は何も出來ない。寄生蟲には寄生主が必要である。何時の時代にも、寄生される人間は生延びてをり、寄生蟲には「餌」が常に存在した。が、現實の世界で、我々は寄生蟲を驅逐しつゝある。

もちろん、斯うした譬喩で語る事に危險は多い。けれども、斯うした寄生蟲的「信者としてのアンチ」の活動を考慮しない、現状の「ブログ」なるシステムには、問題が「ない」と言ふ事は出來ない。そして、我々は常套句・紋切型で物事を考へてはならないのであつて、頭から「清潔」を否定し、「世の中には汚い側面も必要」等と云ふ、それこそ「甘い」發想を許してはならない。寄生蟲の存在にも「一理はある」としても、盜人にも三分の利があると云ふのと同じ程度の意味をしか見出すべきでない。

精神的な柔軟性のなさと自由社會

逆に言ふならば、社會的な利益を志向する立場からの發言には、周邊の人間はそれなりに柔軟に對應すべき理由があるのであつて、さうでもしなければありとあらゆる異見が、今のウェブのシステムでは、封殺される事になる。實際のところ、戰術的に・感情的に、大多數の側から、意見が否定されたとしても、それは社會的に受容れられなかつたと云ふ客觀的な事實としての意味を持たない――その意見の正しさそれ自體が否定された事にはならない訣である。が、だからと言つて人々が安直に言論を封殺する態度に出るならば、我々は社會において「物を言ふ」意義を喪失する事になる。そこで人々が皆、默る方向に行つてしまふならば、世の中は甚だ風通しの惡いものになつてしまふ。我々はさうした「風通しの惡さ」をこそ拒否すべきなのであつて、その爲には「言論の自由」を惡用した「アンチ」的な主張を「多數」の側から否定する努力が缺かせない、と云ふ事になる。

福田恆存が指摘する通り、自由主義には「自由を否定する自由」を容認せざるを得ない「理論的な穴」がある――が、さうした「穴」がある事實を認めつゝ、我々は自由主義で「やつて行かなければならない」のであつて、ならば我々は精々自由を肯定する側の人間が多數になるやう、社會的な「工作」を續けて行くしかない。となると、從來の「ブログ」のコメント欄のやうに、「破壊的要素」の存在を助長するシステムは反省される必要があると云ふ事になる。殘念な事に、我々の社會では、「アンチ」による「破壞的要素」の發言が大變目立つのであり、多くの人が持つてゐる筈の「創造的要素」を含む發言は案外目立たない。一般の人々が事なかれ主義に流れ、無害な發言ばかりを繰返してゐる事が、大きな要因である。

「創造的要素」と云ふものが「力」を持ち得るとしたら、それは積極的な發言に據るしかない。建設的な意見が表明されて、「痴の集積」でなく「知の集積」が行はれる現實が出現しなければ、「創造的要素」が社會的に「力」を發揮する事はあり得ない。結局のところ、人々の發想が根本的に變革されねばならない訣だが、「ブログ」のシステムはさうした變格を拒否し、惡い意味で人々を「保守化」させるのに「役立つてしまつてゐる」としか言ひやうがない。實際、「ネット言論」が「保守化」してゐると言はれるが、何うも惡い意味での「保守化」が目立つやうに思はれる。

今のウェブには「風通しの惡さ」許りが目立つし、それは「ブログ」の記事の「完全性」――と言ふより、ウェブで公開される發言の「完全性」を誤つて確信した多くの「保守的なネット言論」の側の人々によつて惹起されてゐると同時に、さう云つた誤つた確信を惹起する「ブログ」なるシステムそれ自體にも問題がある。「ガハハ」と嘲笑つたりするやうな人々にも大變な問題があるけれども、さうした人々の氣樂な「言論活動」を許すシステムを構築してしまつた「理系の人々」の極樂蜻蛉ぶりにも問題があつたのでないか。人間の「明」の側面ばかりを見て「知の集積」を「容易に實現出來るもの」と考へた「開かれたインターネット」を作つた人々は、人間の「闇」の側面がある事實を忘れてゐたし、今も忘れたまゝ相變らず「アンチ」種族の人々の活動を容易にする「ツール」を提供し續けてゐる。

インターネットと云ふ發言の爲のシステム

要するに、普通の人々には一々反省や自重を迫る割に、惡意の人々にはまるでうしろめたさを感じさせない、さう云ふ「惡意の人々が一方的に有利なシステム」を作り上げてしまつた事について、我々は反省すべきだ、と云ふ事。

人は放つておけば惡い事をする存在だから、「知の集積」を目指すにしてもインターネットはその邊の事を最うちよつと考へて作られてゐるべきであつた。もちろんそれは歴史的に無理な話ではあつた訣だが……もともと「閉ざされた環境」であつたインターネットだからこそ「理想的」なシステムとして作られた訣で、それをそのまゝ「商業目的での利用」に開放した爲に「現實的」な問題が生じてしまつてゐる。しかし好い加減、惡意の人々にも幾らかのリスクを背負つて貰ふやうにしなければ、公正さは保たれないくらゐに、ウェブは非道い状態になつてしまつてゐるのでないか。

嫌なものは「ブログ」だけではない

Twitterやはてなのブックマークのコメントを私が嫌ひなのは、結局あれらもあんな短文でありながら「完成形」でなければならないから。何うして其處までしてさつさと完全な結論を出してしまはなければならないんだらうか。

――實際、そんな無茶な要求が受容れられはしないから、だからこそ、多くの人が感情論で簡單に極附けたり、單純な知識で簡單に判定したりして、話を適當に濟ませてしまふんだ。

もつとちやんと長く纏まつた文章を書ける事が必要なのだし、さう云ふ長文は簡單に完成され得ないから、相當長期間に亙つて、公開されてゐても「未完成」として扱つてもらはなければならない筈なのだが、短かからうが長からうがお構ひなしに「完成された記事」として等し並みに扱はれる傾向がウェブにはある。

これだから皆、長い文章を敬遠して、その結果、何も考へないで短い文章を書き毆り、單純明快な割切り方をして斬つて捨てるパフォーマンスに走る事になるんだよ。そして、さう云ふ「わかりやすさ」が「もとめられてゐる」とか云ふ話になつてしまふ。けれども「わかりやすい」事は「正しい」事とは必ずしも一致しない。寧ろ、屡々、より不正確になつてしまつてゐる。その種の危險を誰も言立てない。「ブログ」で「マスコミは○○についてなぜ黙っているのか」なんて尤もらしい事を言つて見せる某氏も、「ネット言論はなぜ自分逹が安直かつ不正確である事について默つてゐるのか」なんて事は絶對に論じようとしない。それあさうだらう、自分が馬鹿である事を自覺してゐないのなら、なぜ自分は馬鹿なのか、なんて事は書き得ない。