植物學者・牧野富太郎が學歴を持たない「素人學者」であつた事は事實である。さうした「素人學者」は、悲しいかな、常に或種の專門知識を缺き、偏狹の誹りを免れない。今、ここに非難を浴びてゐるのはその爲である。が、その非難を浴びせてゐる側もまた「素人」である事實を我々は看て取らねばならない。
「素人學者」は常に偏狹の缺點を持つ――それは私自身、體驗から言ふ事が出來るのである。が、我々はその缺點を衝いて非難する事が出來る。が、さうした缺點を見るだけで我々が評價を終はらせて良いか何うかは、實は檢討し、反省する必要がある。缺點のみを見、その缺點ゆゑにありとあらゆる美點を無視・默殺するならば、それは公正を缺いた見方である。
「素人學者」の偏狹を非難するのはた易い。或種の「絶對の正しさ」を以て、人は「素人學者」の無知を斬る事が出來る。けれども、さうした偏狹さは、ただ無知のみに基づくものでない事は言ふまでもない。上に示したサイトでは、「素人學者」を非難する「素人」が、「絶對の正しさ」たる知識を振りかざして「素人學者」に切りかかつてゐる。が、切りかかつてゐる「素人」の物の見方は、公正を缺いてゐるのである。知識ではなく、物の見方に問題がある訣である。
この「物の見方」のレヴェルで公正を缺いてゐる事こそが、實は大變な問題であつて、專門教育の目的はさうした「公正を缺いた物の見方」を排除する事にある――が、案外、日本の專門教育では、「物の見方」に關する教育が行はれず、單なる知識の傳授のみが依然として續いてゐる。ただ、建前として「專門家」は知識を持つのみならず、物を見る正しい見方を身に附けてゐる事になつてゐる。が、それが案外當てにならない。「專門家」にこそ、案外偏狹な物の見方をする人がゐるのである――それは「知識を持つた素人」の偏狹と同樣(と言ふより、兩者は全く同じである)、大變な問題となる。
無知を自覺するならば、「素人學者」である事の方がまだしも増し、と云ふ事になり兼ねない。事實、英國においては、さうした「素人學者」の趣味的な活動が、常識的なものとして認められ、評價される事がある。ところが、日本では、素人の活動がさうさう評價される事はないやうに思はれる――少くとも、一般人からは。
「道化的」な、或は非道く陰濕な、他人の足を引張る「批判」だけが、日本では受容れられる。相手を侮蔑し切つた上で、自己の優位を自覺して、「優しさ」を發揮する人はゐるが、さう云ふ「お情け」が非道い侮辱である事は、福田恆存の言葉を援用しなくても、誰でも知つてゐる事だらう。が、さう云ふ侮辱の爲だけの侮辱行爲を、日本人は屡々「面白い」「面白い」と言つて、「いい批判だ」と持囃す。その時、人はその「批判」の内容を見ない。人をただ嘲るだけで、人の言つてゐる事を何ら見てゐない「批判」が、日本では批判として通用する。が、そこには、我々が本當に憎惡しなければならない偏狹と云ふものが存在する。
公正と云ふ事が、日本人には常識として全く理解されてゐないのである。「自分に有利だから相手に優しくしてやる」と云ふのは、侮辱であつて、公正さの發露ではない。「自分に不利になるかも知れないが、相手の發言を出來る限り優しく見て、甘く判斷しようとする」事が公正な態度である。そして、さう云ふ公正な態度をとりながら、それでも、何うしても相手の言つてゐる事が明かにをかしいと判斷せざるを得ない時がある。そこで文句を言ふならば、それは公正な批判と云ふものになり得る、と云ふ訣だ。何處までも相手の發言を好意的に見て、それでも誤を見出さざるを得ない――しかし、さうした態度をとればこそ、相手に對して隙のない、強力な批判として作用するのでないか。最初から惡意で解釋してゐれば、「見解の相違」と云ふだけの話で終つてしまふ。ところが日本人にはそれが解らない。「私が惡意を持つたからには、一般の人が全員、私と同じやうに惡意を持つに決つてゐるのだ」――さう云ふ思ひ込みを持つてゐれば、主觀的な攻撃をしながら、自分は客觀的だと勘違ひする事は容易である。さうした勘違ひをして、ただただ惡意で相手の言つてゐる事を惡く解釋して――歪曲して、それで非難を浴びせても、「惡意で歪曲するな」と云ふ反論が待つてゐるだけである。
――が、日本では、そこで「惡意」を覆ひ隱す爲に、「知識」が持出されるのである。
大變重要な事だが、他人の發言の一部を取出し、知識に照らして、そこだけを判斷材料にして、その發言全體、そして發言者全體の價値判斷をしようとしたら、それは大變偏狹な態度である。知識に照らして「正しい」「正しくない」と言ふ事は構はないが、それが「全體」についてなのか、「一部」についてなのか、を無視するならば、それは公正を缺く態度である。日本人は、さうした意味で公正さを屡々缺き、偏狹な非難を屡々やらかす。かかる偏狹な非難は、矢張り一つの誤であり、我々は誤は一般に避けなければならない。
賛否の兩方があり得る人に對して、その長所を見る事を、「長所のみを見る」事と歪曲し、「信者」のやらかす典型的な誤だと極附けて、「アンチ」は「信者」攻撃に走る。が、私にしてみれば、長所を見出して褒めてゐるのはまだしも良い事であるやうに思はれる。
牧野氏の隨筆をちよつと讀んだ事があつて、些か感心しない書き方がされてゐた記憶はあるが、その人格を全否定するやうなまでの攻撃をしなければならないものとは思はなかつた。けれども、「アンチ牧野」の人なのだらう、何うしても牧野氏の人格それ自體から否定してかからねばならないと云ふ確信を持つてしまつたらしいのだ。それはただ、その人を偏狹にし、公正さを失はせるだけで、何の益もないのだが――矢張り「日本人」なのである。
「松原信者」を非難する人もゐるやうだが、松原氏が激しく人を批判する時の批判の仕方に、相手の人格を全否定するやうな仕方はない。「信者」は松原氏の仕方を模倣する。だから、人格否定のやうなやり方は「教祖」の教へに反するものとして、自ら封じてゐるのである。私の見る限り、「松原信者」の批判の仕方を「人格攻撃」と見る「アンチ」こそ、本當の意味での人格攻撃を、驚くほど安易にやつてゐるもので――「人格攻撃」と云ふ概念それ自體が彼我で正反對の意味を持つてゐるやうに思はれる。斯うなると、「見解の相違」が大變重要な概念となつて來るのであり、「松原信者」を「アンチ」の人々は「見解の相違」を理由に叩いてゐるゐるものと言はざるを得なくなるのであるが、それは「アンチ」の人々にとつて大變不名譽な事である筈だ。
そもそも、「一つの觀點」から、他人を判斷し、その「一つ觀點」に拘つて、相手の發言を解釋し、歪曲して、非難・攻撃し續けるなら、それは大變稚拙なやり方と言へるだらう。小説でも、ワンアイデアストーリーは、素人が書くものでしかない。さうした小説は、下手な小説であり、評價され得ない。が、それが下手である事、評價されないものである事を自覺出來ないからこそ、素人だと言へるのである。多少の反省は何時でも必要だらう。