制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成二十一年十一月十四日
公開
2009-12-05

プレゼンテーション目的のHTML

平成二十一年十一月十四日
CSS NiteでHTML5の講演を行いました | Web標準Blog | ミツエーリンクス
HTML5, きちんと。
HTML4やXHTML1は「文書」の作成が目的だった。HTML5では新たに「アプリケーション」が加わる。
HTML 4なんかの仕樣は、全てサイト制作者の守るべき仕樣として公開されたものではなかつた。全てユーザエージェントの制作者の守るべき仕樣として公開されたものだつた。
HTML 4なんかでは、ウェブブラウザが處理するのは文書それ自體――文書以外のものは全てプラグインに任せる、と云ふ方針だつた。
HTML 5では、從來プラグインに任せてゐた事を、ウェブブラウザが自前でやるやうにする。さう云ふわけで、そのブラウザのヴェンダが「やるべき事」を定めてゐる、と云ふ理窟だ。
――が、さう云ふ單純明快な切り分けが、HTML 4と5との間で、實は、なされてゐない。なぜなら、XHTML 2.0の仕樣策定の過程で主張されたやうに、「文書構造の明示」が「可能」となる事が、今の時代は必須とされ、HTML 5にも文書の處理に關する規定が盛込まれるからだ。從來(HTML 4では)、文書構造の明示については全く規定がなかつたが(divは、文書構造を明示する爲ではなく、スタイルを適用するなどの目的で利用する爲に設けられた要素)、今度は何うせだからと云ふ事でセクション構造の明示を規定しておかうと云ふ話になつてゐる。
それが俺には大變氣に入らない。なぜなら、理想的な單純な文書構造を明示する爲の規定とともに、利便性の爲の「簡單な書き方」の規定が、同時に決められてゐるからだ。sectionはいい。が、header/footer/navはいやだ。文書構造に關する記述と、見た目を制御する爲の記述とが混在してゐる。さう云ふごちやごちやなのを、世間の多くの人が「とてもいい!」と思つてゐるらしいのだが、私は嫌だと思ふ。
便利なのの何處が行けないのかと言はれれば、便利か何うかは關係ない――少くとも、理解できないのは私には「不便」だとしか答へやうがない。
結局のところ、昔、NetscapeがNavigatorに、MicrosoftがInternet Explorerに、勝手な實裝をやつたのが「惡かつた」だけだと云ふ事。今、ウェブブラウザのヴェンダが、協議して、仕樣を標準化してゐるから「良い」とされてゐるだけだ。要は、仕樣の「標準化」の作業がされてゐるかゐないかだけが問題なのであつて、仕樣の中身は何でもいいと云ふ事。HTML 5は「標準化の作業が行はれた」から「良い仕樣」だと云ふ訣。内容については、「協議で斯うと決つたのだから、みんな默つて從ひなさい」と、頭ごなしの命令で押附けるものであるわけだから、從ひたい奴はみんな、納得も何もしないで、默つて從へばいいだけだ、もつともらしく説明なんかされても俺は納得しない。理論的に一貫しないものを「決つた事なのだから勝手に理窟を附けて納得しろ」と言はれても納得出來るものではない。
平成二十一年十一月十四日
「ウェブアプリケーション作成專用」のHTMLと、「ウェブ文書記述專用」のHTMLとを、別々に新しく作る、と云ふのなら、納得は行く。さらに「ウェブ文書記述專用」のHTMLが、「純然たる文書構造を明示するためだけのもの」と「プレゼンテーション目的で見た目を制御するためだけのもの」とに分離されるなら、それはそれで歡迎だ。が、それらの要求を一つの仕樣に全部ぶちこんでごつた煮にする事は、好ましくない。私はHTML 5が、ただのカオス・渾沌であるやうにしか思はれない。
平成二十一年十一月十四日
が、要はtext/htmlな文書しか扱はない「風習」がウェブに出來てしまつた所爲で、ブラウザのヴェンダも標準仕樣を作る側も身動きがとれなくなつてしまつたと云ふ事。斯うなつたら最う理想とか言つてゐる餘裕は無くて、徹底的に場當り的に・現實的になるしかないと、さう云ふ事だ。ならば最う、HTML 5は視覺的なプレゼンテーションが目的の言語だと、そのくらゐはつきり言つてしまつて良いのでないか。互換性の事を言つても始まらないだらう。それで不便になるか便利になるか、やつてみればいいんだ。