花散らし丸長皿

石川県の驚異の名産「ふぐのこ糠漬け」

   あらなんともなや昨日もすぎてふくと汁   芭蕉

江戸時代にはご法度も禁令もでた、おいしいけれどもあたると怖い河豚。なかでも猛毒の卵巣を糠漬けにして食べてやろうといったい誰が考えたのか。その人物の勇気というべきか食い意地というべきか、おそれいりますね。二年もかけて丹精込めて漬け込むのだそうです。

 恐る恐る口に運ぶと、意外にも臭みもそんなに強くなく、辛いといってもむしろ上品なあじわいです。しかしほろほろと口に溶けてゆく卵一粒一粒に凝縮された旨味成分は口中に縦横無尽。一粒の中に宇宙がある!と大げさなことを言いたくなるくらい遥か彼方まで広がってゆきます。

 さっぱりした小蕪の柚子風味酢の物と大葉の緑を添えてみました。それにしても発酵食品はさまざまありますが、猛毒を旨味にかえるレアさは譬えてみれば神無月の白桔梗というところでしょうか。たまたま庭にさきました。

   河豚の子をふと食べもして返り花   おるか

 


文様あれこれ(おるか) 「花散らし」

 折口信夫によると「花」という言葉はもともとは先ぶれの意味であったとか。「はなから○○」というときのはなでしょうね。桜の花がその年の稲のみのりの予兆と考えられていたということは、よく知られています。

 また、白川静は咲くという字と笑という字はもともと同じで、それは巫女が両手を挙げ身をくねらせて微笑み踊る形だと書いています。花が咲くとはこの世界を踊る神の微笑みなのですね。

 散華というと仏教的な供花の意味あいがつよくなってきます。予兆から供華へ、現代の私たちにとっても花は眺めてうつくしい色とかたちというだけではありません。命の姿であり癒しでもあります。一輪の花を眺めるにも時代の空気を通さずにはいられないのが、時間の内にいきる人間というものでしょう。だからこそ花との出会いがうれしい。

写真のお皿は須田菁華さんのところから独立してすぐの時分から作ってきました。何の花ともいえない五弁の花を五つ散らした単純な文様ですが、今も作り続けて厭きません。
 花模様は当たり前だけれど飽きの来ない、誰にでも好かれる不思議な文様ですね。


  

 

続きは後ほど