唐子遊び

 ようやく秋めいてきました。ひたすら涼をもとめた夏の器をそろそろしまって、赤絵に手が伸びるようになってきます。新酒も出ますね。赤い袖を翻して元気な唐子の盃と馬上盃。唐子ペンダント・トップを友達にちょっと一杯。

 馬上盃の中身はなめことおくらのとんぶり和えです。とんぶりは箒草の実。さいきんはスーパーで売っています。「畑のキャビア」とキャッチ・フレーズがついていますが、たしかにプリプリプチプチした食感がそんな感じです。

 箒草、箒木も色付いてきました。片側からほんのり頬を染めるようにモーヴ色を深めていく姿がかわいい。古歌によく詠まれた伝説の植物で古今集にも、もちろん源氏物語にもいろいろでてきますね。

   その原や伏屋におふる」箒木のありとて行けどあはぬ君かな

などとうたわれて、そこにあるようでない、不思議な存在のイメージがあるのですが、こんな美味しい実がなるのだったとは。昔の人は知らなかったのかな。

   箒木の実食べてみんなゐなくなりぬ  おるか

 

 色付いた枯れ葉箸置きの上のお箸は熊川宿に葛粉を買いに行ったとき、おまけにもらったものです。鯖街道の風情を残す古い町並みが今も目に浮かびます。栃餅を買いに入ったお店でも酒屋さんでも、おばあちゃんが、お元気に応待してくださいました。お箸に書かれた宿場の名前が秋風に少しばかり旅情を添えてくれます。

ヴェルレーヌにも枯れ葉の詩がありました。

秋の日のヴィオロンの
ひたぶるにうら哀し

(中略)
げに我は秋風に
そこかしこ
吹かれ惑う
落ち葉かな

 ヴェルレーヌの詩ってちょっと臭いなと感じたこともありましたが、やはり泣かせどころを心得てるなと思いますね。

 

 

  

2007年10月1日


文様あれこれ(おるか) 「唐子遊び」


  

あそびをせんとやうまれけん
たわぶれせんとやうまれけん
遊ぶ子供の声聞けば
わが身さへこそゆるがるれ

梁塵秘抄でおそらくもっとも人口に膾炙したうたのひとつでしょうね。この「遊び」にはいろいろ意味があるようですが、ともあれひたすらに遊ぶ子供達の声や姿はかわいいものです。

 うつわに唐子遊びを描くのは楽しい。季節の彩を添えたり昔ながらの玩具を持たせたり、描きながらついつい顔が笑ってしまいます。唐子というくらいですから中国の焼き物、古染付にも赤絵にも唐子遊びの図はたくさんあります。なかには腹かけ一枚だったり真っ裸だったりする元気な唐子もいます。

 この季節菊の花と唐子の図像もみかけます。菊慈童ですね。中国の周の時代、菊の露を飲んで不老不死になったという童子の物語です。姿は幼童でも、何千年もの年月を生きているのですから自ずから表情はちょっとひねてます。菊慈童だけでなく、唐子にはどこか、たんに子供というだけではない気配があります。時間の彼岸に遊んでいるのですから。

 李白の「太山に遊ぶ」の六篇の詩の中に、山深く分け入って子供の仙人に出会うところがあります。

  

偶然 青童に値(あ)う

緑髪 双雲かん(髷の意味の字です)

笑う我が晩く仙を学び

蹉たとして朱顔凋むを

 詩人は子供の仙人に、晩年になって仙術を学ぼうとするのを笑われます。

しかし、この山中の仙童は、実は李白自身の、内なる永遠の少年の像だったのではないでしょうか。

 器の中で永遠に遊ぶ唐子の姿を愛でるのも、そんな風に、自分の心の奥に、遊び続けている子供が住んでいるからかもしれません。

   

 

続きは後ほど