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鳥兜  三つ筋花入れ

 山道に鳥兜をみつけました。冴えた青紫が紅葉の気配の中でひときわ鮮やかです。空の青よりもこの地上の青はシンと静まってみえます。根はもちろん全草に毒性がありますが、手折ると秘めやかに香ります。面白い花の形を昔の人は兜にみたてたのでしょうが、私はいつも上田秋成の雨月物語のなかの「青頭巾」をおもいだします。どなたもご存知でしょうが、かいつまんで話しますとこんな話です。

 ある山寺に高徳の僧がいました。が、愛していた稚児が死んでその亡骸を抱いて嘆くうちに肉を吸い骨をしゃぶって、とうとう人食い鬼になってしまいます。里の人がそれで困っているところへ通りがかった上人がその寺を訪ねると鬼になった僧が宿を断ります。それでも一夜明けて上人の法力に感じた鬼になった僧は、救済してくれるよう上人に頼みます。上人は自分の青い頭巾を僧にかむらせ、「江月照らし松風ふく詠夜清祥なんの所以ぞ」の詩のを与え、その意が分かれば人間の心が取り戻せるとさとします。一年後その山寺をたずねた上人は石の上でおぼろな影のようなものが幽かな声で詩を吟じているのをみます。「どうだ、なんの所以か!」と上人が杖を振り下ろすと、そおには青頭巾と朽ち果てた骸骨が残っているばかりでした。

 うろおぼえで申し訳ないのですが、子供のころに読んだ時も、青頭巾の僧が悟れたのか気になってしょうがありませんでした。秋成の物語は、みな妄執の物語といえるでしょう。戦国時代なのに、菊の日に必ず逢おうと約束して死ぬことになる「菊花の契り」待ち続けて幽霊になっても待つ「浅茅が宿」、みな妄執のあまり、ダンス・マカブレを踊る人間の姿です。青頭巾の僧も執着の深い人物です。一筋に修行を積み、愛すれば狂うほどに愛し、課題を与えられれば死んでもそれを口ずさむ。どうも、まだまだ救済されてはいないようですね。ただ執着を人食いから詩へと転化させたところが上人様のセラピストとしての腕なのでしょうか。鬼になった僧が、宿を乞われていったん断るあたりに自身を恥じる心が覗いて、あさましいとわかっていながら狂わずにいられなかった孤独の深さがちょっと哀れです。狂うほどに一途に思う心情には一種の悲愴美もあります。おぞましいものもどこか美しい。美しいものにもどこか怖ろしいところがある。鳥兜の青紫は猛毒を秘めているゆえに一層深いのかもしれません。

   一茎の紺翔つごとし鳥兜   おるか

 秋の季語に「草の花」があります。草草の花は秋に咲くばかりではありませんが、枯れてゆく中で可憐な花をそれぞれにつけているのは、印象深いものですね。

   草の花いっしょに土に溶けやうね   おるか

2005年10月10日

●…画像をクリックして大きな写真をどうぞ。   2005年4月25日

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