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手仕事つれづれ  「牡丹灰釉の器」


 長谷寺から室生へと廻ったのは、残花の頃であった。長谷では登廊の牡丹も綻びかけていたというのに、室生寺の石段は霜に濡れていた。

 岡本弘方さんの「花のその」からも堂塔を抱いて鎮まる室生の山々がみえた。畑を全て花園に変えると聞けば、楽しそうにも響くが、なまなかなことではなかったにちがいない。秋に手入れした牡丹の、それこそ万朶の古枝を、お母様のご供養と、花々の鎮魂のために、その日、焚き上げたのである。

 牡丹は悪食の花であるという。地中深く恐ろしいものをたっぷりと食べて、あれほどの花をつける。一つの花に地獄と極楽が咲いているようだ。牡丹を描くとき難しいのはこの闇の深さだ。ふしくれた枝は燐酸分が多いらしく時に青くも燃え上がる。榾を這う炎の舌はなまめかしかった。

   行く春の牡丹灰となるままに    おるか

   牡丹を灰にあまやかなるこころ   同

 その灰を袋に詰めて送ってくださった岡本さんも既に泉下の人となられて久しい。「花のその」の牡丹は今も咲いているだろうか。牡丹の灰の釉薬はやや蒼味を帯びてほのかに濁る。濁り酒の白さと混じって、懐かしく美しくおもえるのは、私の心の澱でもあろうか。(おるか)

   懐かしきその木の灰や神渡   おるか

 釉薬とは素地(きじ)の表面に掛けるガラス質のもの。器の実用性と装飾のためです。灰釉とは釉薬に灰が含ませるもので、鉱物によるガラス質に味わいを持たせることが出来ます。植物が大地から吸い上げたいろんな鉱物、金属の働きです。

 長い焼物の歴史のなかで、それぞれに適した植物の灰がありますが、牡丹というのは実は一般的ではありません。手に入れにくく、特に美しいわけでもないからです。ここでは、そんなことより「牡丹を釉薬に閉じ込めた、という気持ちで酒を一杯楽しみたい。(オットセイ)

2004年11月8日

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essay-009