目次に戻る

なくてもかまわぬ

 懐中枕というも のあがある。 折りたためばなるほど小さい。立てれば子供のてのひらほどの鞍部は、おもったよりしっかり頭をささえてくれる。 とはいってもこれは昼寝用だろう。そんなものを懐中にしようという発想におそれいる。

 時間がゆったり流れていた時代。そんな、なくてもかまわぬようなものを身近にした暮らしは涼しげだ。ともあれ、うたたねに不思議を見る話は多い。大切な小道具として、枕に凝るのもわからないでもない。

 そんな趣味の枕といえば陶枕だろう。宋代の磁州窯系の陶枕の、マシマロのように柔らかくくぼんだ具合はいかにも頭を待ち受ける風情。手馴れた線刻の蓮の花や魚が緑釉や黒化粧の掻き落しに映えて瀟洒だ。ただ顔に跡がつきそうな・・・。
 昔々のとある午後、来客をやや待たせて出てきた主人の「いや、つい書見に夢中になっておりまして。」と言う頬に、くっきりと連弁が浮いている・・・というシーンが目に浮かぶ。

 仙人や唐子の眠る姿の陶枕は、夢にも眠る誰かを見そうな入れ子的イメージが面白い。どんなに綺麗な枕でも必ず楽しい夢が見られるわけもないのに。美しければ欲しくなるのは業というものだろうか。

 良く解らないのは、芭蕉が福井で市井の隠者等栽を訪ねた時の話だ。清貧の家には枕も無く、木の端をもらって枕にしたという。なぜ木なのだろう。布のきれっぱしでも草子でも良さそうなのに。昔の人は髷を結っていたから小さい枕を首の付け根に当てたといわれるが、芭蕉は僧形である。一晩中頭を乗せたら痛くならないだろうか。
 それでも、木の肌触りは陶と違って暖かい。なにより、シンとした木の香は悪い夢を払ってくれそうな気がする。

 近江の俳人丈草に   木枕の垢や伊吹に残る雪

 の句がある。まだ冷たい風に、伊吹山と一つになって吹かれるすがすがしさ。丈草の句にはいつもこのさわやかな風が吹いている。これも括り枕などつけない簡素な木だけの枕だろう。伊吹山の山容もすっかり変わってしまった。それでも風はかわらず簾を揺らして昼寝をさそう。
ごろりと横になるにも自分流のスタイルを持っている、そんなこと本当になくてもかまわぬことのようだが、どうもその辺に今ここに在ることを楽しむコツがあるのかもしれない。

おるか  2001/5/5

目次に戻る

essay-003