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筆あれこれ

 ガラスの穂先を竹の軸につけたペンをもらった。定価三百八十円。いまどきめずらしい品物だ。

上の写真は、竹のコンパス、竹鉛筆などなど。竹と文具はきっても切れない。筆はいうに及ばず。その筆だが、書道用や絵筆に、珍しいもの、綺麗なものと凝っていたこともあった。
今は、ちびたまま使いつぶしているが。

 ただ、仕事の磁器の絵付け用の筆は、ほとんど京都の筆屋さんに注文する。初めてその店をたずねたのは夏だった。京都らしい一見ではそれとわからない、間口のせまい土間の脇の六畳ほどの部屋で御主人に応対していただいたのも、随分昔の事になる。家の奥は暗く、ものやわらかな御主人は暑そうな様子で、細かな毛先をそろえるのはさぞ大変だろうと思われた。

 以来、筆が磨り減って無くなる毎に、その店に十本、二十本とお願いしては、そのとおりの筆がとどくのを当然のことと思っていた。が、ある年、これも夏だった。電話があって職人が変わったとのこと。ためしに十本ほど送ってもらったが、驚いた。穂先の太さ長さ、毛の形状、見たところ何一つ変わらないのに、線が引けない。自分で言うのも変だが、私はスーっと伸びの良い線を楽々と引くことに自信があった。その線がでない。自分の腕だと思っていたのは実はふでのおかげだったと知らされた。

 別の職人さんにしてもらって、漸く同じ書き味の筆を手にすることができたが、さきゆきを思えば不安である。

 日本鼬の毛が入手困難なことはかなり前から聞いていた。神様といわれたような職人さんには亡くなられた方も多い。が、最高級の筆作りはまだのこっている。しかし。あまり高価ではこちらは手が出ない。なんと言っても、硬い磁器の面やざらざらの素焼きの上に描くのだ。穂先はあっというまに磨り減る。そっと使って一年がいいところ。そのあともいろいろ使いまわして、最後は命毛だけが数えられるほどのこっているまでになる。それでも丹精して作ってもらったと思えば捨てられない。筆塚というと大げさだが竹やぶのすみの日当たりのいいところにでもうめてやりたいと思う。焼き物、ことに磁器作りは他の様々な手仕事に支えられていることをしみじみ感じる。

 ガラスの筆は落として割らない限りつかえるだろう。遊びのための筆ぐらいなら自分で作ってみたい。萩の筆というのを聞いたことがある。枝先を叩いて穂にするのだとか。冬の初めに萩を刈る時やってみよう。三椏ではどうだろう。手慰みという言葉があるが、こういうささやかな作業に癒されて日々を送る、ありのすさびというのだろうか

橋本薫  2001/4/12

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