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桜の器をつくる さくらの器の轆轤をひきはじめるのは、雪の中である。花の時節に先駆けて店頭に並べるには、西行の歌にいう「そのきさらぎの望月のころ」には出来上がっていなければならないからだ。多少気ぜわしいが、花を思うと胸の中に灯が点るような気持ちがする。 それにしても、いつから桜にこれほど心が騒ぐようになったのだろう。若い頃は、伝統に重く絡まって、鬱陶しくも思われたのだが。 日本中に溢れた染井吉野が苦手なせいもある。幕末の、歌舞伎もおどろおどろしいものへ傾く頃うまれたこの桜は、その後もたっぷり血を吸って、廃村の忠魂碑などたいがいこの花。これは今でも好きといいにくい。しかし、そろそろ樹齢の終わるのも多いと聞く。花にも時代があるのだろう。 では好きな花は、と言えば難しい。なかなか花だけ切り離せない。東大寺の裏で奈良八重桜を見れば、あ、これが、と思う。「書紀」で花にたとえられた衣通郎姫は、こんな瀟洒な女性だったのか、額には梅花粧ならぬ桜花粧をしていたかも、など思えば一入である。 いまだ会えずに憬れているのは、黒田杏子先生に伺った、常照皇寺の桜である。「御車返し」ではなく、枝垂れ桜のほう、一重大輪だそうである。 その寺で光厳法皇の崩御されたのは、世阿弥の誕生の翌年になる。お能に着いては素人だが、「花」というとき、「風姿花伝」の条々は、否応なく心に辷り込んでくる。 イヅレノ花カ散ラデ残ルベキ、散ルユエニヨリテ咲クコロアレバ珍シキナリ こういう透徹の言葉を読むと、桜を器になど空恐ろしい気もしてくるが、見事な工芸品もまた数多い。これも選ぶに難しいが、例えば、高台寺霊屋の花筏蒔絵、木目の古びがなんともいえずいい。古染付の桜川水指、明月椀の螺鈿のおおどかさ・・・古いものはなんと美しいのだろう。古色というのか、上手に使い込まれた物には不思議な艶があって、それも私は密かに花とよんでいる。咲くに時間のかかる花である。 そうでなくとも、気に入った器を自身も齢を重ねながら育てていくのは楽しい。磁器でも四、五年も使うと随分違ってくる。窯を出たばかりのときは、なにかキラキラしているが、次第にしっかりして、水のほとりの光がその上に漂っているような具合になる。 いつだったか博物館のガラスの向うの、明時代のちいさな染付の椀に、たまらなく惹かれて立ちつくしてしまったことがあった。それは使い込まれて優しくなり、しかも清らかで、古い東洋のくらしの懐かしさに包まれていた。人の手から離れて淋しそうにも見えた。私の作る器でも上手に使い込んでもらえば、いつかこういう風合いがでるかもしれない、と希望を抱いた。 年月が咲かせてくれる花がある、そう思うと年々に染付の花を釉薬の下に封じながら、心のどこかがほっとするのである。 今年は、上絵でも青い桜を描いてみた。なぜ青なのかと聞かれると困るが、定家の歌にある、 春は往ぬ青葉のさくらおそき日にとまるかたみの夕ぐれの花 と歌われた、この世のほかのひかりに揺れているような花がつくりたかったから。 次には、瑠璃釉に金銀彩で枝垂れ桜を描いてみたいが、それは例の常照皇寺の桜を見てからにしようとおもっている。 さくらは見つくせないものだ。せめて庭に若木を植えて、憬れ出てしまうこころのよりどころにしたいと思う。 さまざまの事思ひ出す桜かな 芭蕉
藍生 1997年4月号より 橋本薫 |
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ラピュタ の ■旧ホームページ 橋本俊和 橋本薫 「さくらの器」展 2000年 3月18日(土)から3月26日(日) |