松柏造園研究会25周年記念『東京の庭園見学』

2015年4月18日〜19日に1泊2日の東京の庭園見学を参加者8名で実施しました。2015年は 研究会設立25周年に当たりますので、その記念事業です。)

4/18 大阪空港(7.10発JAL102便)→羽田空港(8.15着)→東京駅(皇居東庭園)→清澄白河(清澄庭園)→

汐留(浜離宮庭園)→(旧芝離宮庭園)→大井町・・・・宿泊、アワーズイン阪急

4/19 大井町→恵比寿経由→六本木(毛利庭園)→千石(六義園)→飯田橋(小石川後楽園)→早稲田(甘泉園) (新江戸川公園)→羽田空港(18.30発JAL133便)→大阪空港(19.40着)

各園の説明はホームページおよびパンフレットから抜粋。

4月18日(土)午前6時45分に大阪空港JAL受付カウンターに集合、早い時間にも拘らず全員時間通り集合。

  満席、早い時間なのに!

羽田空港(8.15着)、いよいよ東京での2日間の始まりです。京急、都営地下鉄と乗換、東京大手町に到着

皇居東御苑
大手門から入って入場票を受け取り、マップを貰いに休憩所に!

旧江戸城の本丸、二の丸、三の丸の一部を皇居付属庭園として公開、天守閣は徳川家3代家光の時の火災で焼失以後再建されなかったので有りませんが、

天守台から望むと広大な敷地に大奥や松の廊下などの屋敷群が立ち並んでいたのかと思うと、その規模の壮大なことに驚き またすべて失われたことを残念な気がします。

二の丸庭園は泉水を中心にどの季節にも花があるようにつくられた庭園です、周囲の樹木林を含めると広大ですが日本庭園としてみると意外と小規模なものです。

天守台 百人番所 汐見坂 二の丸庭園(日本庭園)

大手町から清澄白河に移動、

清澄庭園

ここは紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています、その後享保年間(1716〜1736)に下総の藩主・久世大和守の下屋敷となり そのころ庭園は造られたようです。 明治11年岩崎弥太郎が荒廃していた

この邸地を買い取り社員の慰労や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、弥太郎亡き後も続けられ隅田川の水を引いた大泉水を作り明治の庭園を代表する回遊式林泉庭園を完成させた。

        八重桜が見ごろ

清澄白河で食事後に汐留に移動、交差点が工事中のため大回りをさせられましたが到着

浜離宮恩賜庭園

海水を引き入れた潮入りの池と二つの鴨場を伝え江戸時代には江戸城の出城としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園です。家宜が六代将軍になったのを契機に、

この屋敷は将軍家の別邸となり「浜御殿」と呼ばれるようになりました。明治維新からは皇室の離宮となり名称を『浜離宮』に変えました、関東大震災や戦災によってお茶屋などの建造物や樹木が損傷し、

往時の面影はなくなりましたが昭和20年に東京都に下賜され整備ののちに公開、昭和27年には(旧浜離宮庭園)として国の特別名勝・特別史跡に指定されました。

300年の松 松のお茶屋を左手に! 中島のお茶屋を望む   海水の取り入れ口

徒歩にて移動

旧芝離宮庭園

小石川後楽園と共に今も残る最も古い大名庭園の1つです。典型的な池泉回遊式庭園でその地割と石組みは秀逸です。延宝6(1678)年に老中・大久保忠朝の邸地となり、上屋敷を建てるときに

小田原から庭師を呼び寄せて作庭し『楽壽園』と命名、その後数氏を経て幕末には紀州徳川家の芝御屋敷となり有栖川宮家を経て明治8年に宮内庁が買上げ翌年に芝離宮となりましたが、

大正12年の関東大震災によって建物や樹木のほとんどを消失、翌13年東京都に下賜され庭園の復旧と整備を施し公開され、昭和54年に国の名勝に指定されました。

玄関   八ッ橋と中島 西湖堤を望む 大山からの

今日の予定は終了、JRで大井町まで乗り、駅前のホテル「アワーズイン阪急」にて宿泊。

夕食は海鮮居酒屋で大いに飲んだもので この写真しかありません。

4月19日(日)

大井町からりんかい・JR・メトロと乗継六本木へ

毛利庭園

慶安3年(1650年)、毛利元就の孫、秀元が甲斐守となり、麻布日ヶ窪の地(現在の六本木六丁目他)に上屋敷を設け、その大名屋敷の庭園として誕生します。その後

元治2年(1865年)堀田相模守がこの日ヶ窪屋敷を拝領します。時代は変わり、明治20年(1887年)、中央大学の創始者であり、弁護士、法学者、法学博士でもあった

増島六一郎氏(18571948年)が自邸として当地を取得し、その庭園を「芳暉園」と名付けました。昭和183月、「毛利甲斐守邸跡」として旧跡指定(現東京都旧跡)を受けます。

昭和273月にはニッカウヰスキーの東京工場となり、昭和52年には、テレビ朝日が当地を取得。池はニッカ池と通称されていました。

平成154月に「六本木ヒルズ」がオープンし、現在の「毛利庭園」として誕生しました。

六本木ヒルズの緑地帯として再生

後ろのビルが六本木ヒルズ

六本木からメトロと都営を乗継千石へ

六義園

元禄8年(1695)、五代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、柳沢吉保自ら設計・指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、

7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造り上げました。六義園は吉保の文学的造詣の深さを反映した繊細で温和な日本庭園です。

庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来します。

庭園は中の島を有する大泉水を樹林が取り囲み、紀州(現在の和歌山県)和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として映し出されています。

明治時代に入り、岩崎弥太郎氏(三菱創設者)の所有となった当園は、昭和13年に東京市に寄付されて一般公開されることになり、昭和28331日に国の特別名勝に指定されました。

回遊式築山泉水庭園 茶室、心泉亭

駒込からメトロで飯田橋へ

小石川後楽園

江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園です。

光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。

庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。

また、当園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。この地は小石川台地の先端にあり、神田上水を引入れ築庭されました。

また光圀の儒学思想の影響の下に築園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしています。なお、当園は昭和273月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。

蓬莱島を中心とした大泉水 後園(内庭) 円月橋 大堰川と渡月橋

昼食後飯田橋からメトロで早稲田へ

甘泉園

江戸時代からある古い庭園で、現在の水稲荷神社境内も含む広いものでした。甘泉園の名は、庭園の中央に湧き水があり、その清水がお茶に合うところに由来します。

かつてはその湧き口に、文化8(1811)に建てられた「甘泉銘並序」という石碑がありましたが、現在は水稲荷神社社務所前に移されています。

古くは徳川御三卿の清水家の下屋敷であったといわれ、明治になって相馬侯爵邸となり、昭和13年に早稲田大学が譲り受けて付属施設としました。

現在の広さは1万4000平方メートルあまり。「山吹の井戸」というひょうたん型の池を中心に、池の南に三島山があり、樹木も多い回遊式の庭園です。

中門を思わせる玄関 起伏を利用した滝と沢渡 下の池との段差を利用 「山吹の井戸」という瓢箪型の池

少し時間があるので近くの公園へ

新江戸川公園

細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした回遊式泉水庭園です。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、変化に富んだ景観をつくり出しています。

湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。池はこの庭園の中心に位置し、

広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立てています。その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が、

秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。

庭園の入り口   山の上からの景観