休憩室 【善神山〜うなめご考】 
 
 小生、2010年に帰郷後、近隣の山ー≪皿ヶ嶺の界隈≫を歩く内に古い標識から新しい標識に置き換えられ、旧川内町の『さくら山行会』の命名による『東温アルプス』の登山道の整備が進んでいた。そんな中、山の呼び名が変更となっていた山があり、改めて、ここに稿を起こそうと考えたのでした。

 先日、世界的にも知れている『マッキンリー』を『デナリ』に言い換える・・と、ホワイトハウスが発表するというニュースにも出会ったのでした。これは文明人が地元の人達が古えより呼んでいる山名をわざわざ言い換える(同じ山を違う麓から呼ぶ場合は、違った呼び名になることは自明。これはまた、上流域と下流域で川の呼び名が変わるのと同様)との報に接した。また、現地で呼ぶサガルマータよりチョモランマやエベレストと呼ぶ方が通じるのも残念でもある。

 そんな事もあり、今回、取り上げたのは、皿ヶ嶺山系の『奥善神山』である。同種の名前騒動で有名なのは北アルプス山系の『奥穂高岳』であろう。穂高山系には穂高岳という山は無くて、それぞれ北、西、前、奥と呼んでいる。これらの山を結ぶ稜線上にも3000m級のピークがあり、魅力的な山域となっている。一方、我が『善神山』界隈はというと、下記にも記すように、松山平野から間近に聳える山なのである。尤も、こちらは前と奥を善神山に付けるだけである。

 以下に取り上げた古い資料から、考察を・・・。尚、知人のサイト(うなめ越考)からの引用も参考にした。
 
 
 
 故郷の山々―思い出―(注:昭和八年五月十四日)≪以下は、北川淳一郎氏(続川内町誌)から引用≫
 
 
 
 
 さて、ここで、以下の山行記がある。あらためて取り上げるのは、その山名である。著者でもある北川先生がわざわざ『前司ヶ森』と案内しているのは、当時の≪五萬分 一地形図≫か、あるいは古地図にそう載っているからであろう事は容易に察せられる。しかし、その後、十年も経ないうちに、同氏の叙述が前述の如く、山名を変えてしまっていたのである。

 文中にあるとおり、同氏は井内集落で生まれ育っているので、村の人たちが呼んでいた山名などは上記が正確と考える。しかし、ここで新たな難題が・・・。いろんなサイトを覗いてみると、『遅越三角点』とか『遅越山』とかの呼び名もあるという。これは、上林峠を越えた山向こうの集落『上畑の川』の遅越集落と関連した呼び名であろうことは容易に察しが付く。別称・遅越山という名は、小生も口を挟むものでは無い。しかし、三角点名は山の名前では無い、山名が付いている(無名峯じゃ〜無い)のでわざわざ三角点名を案内板で案内することはないものと小生は考える。

 しかし、うなめ越えで結んでいた集落は井内と直瀬であって、直瀬と畑の川・遅越集落とはまたまた山を挟んでいるのである。何故、遅越山と呼ぶのかは判らないが、今は道は無くなっているが上述の記録からも遅越集落からの道が通じていて、現在の“井内峠”とを結ぶ道じゃ〜なくて、“うなめ越え”は井内と遅越集落とを結んでいた道だったとしたら話は繋がる。

≪後日談(2015年10月)≫ 井内の翁(40年程前には営林署の手伝いをしていたそうだ)からの話
 縦走路にある“お地蔵さん”がある場所が昔の道じゃないか・・との小生の疑問に『営林署が入らなくなって今は道は無くなってしまったが、峠の道は今とは違っていた。その道は永子に抜けていた』また、『遅越山からは遅越へも道はあったが、今は通れんじゃろ』との話だった。そして『善陣山の横掛け道は、黒岩まで道は通じていた』との話だった。つまり、北川先生の記した道は今となっては殆ど廃道となってしまったようだ。


 この“東温アルプス”縦走路上の1253mピークに一時期、前前司の標識が付けられていたが現在は取り除かれているようだ。また、前述の山向こうの古い記録では“前司ヶ森山”という記述があるようだ。”何故『前司ヶ森山』が“東温アルプス”から無くなったのかは、判らない。しかし、冒頭に述べた≪穂高≫の一件と同様に考えるならば、北川先生が前司ヶ森山と呼んだのも頷けてくる。上浮穴郡側からは井内の人達が呼んでいた『善神山』やその山塊を垣間見る事は出来ない。現在の峠道が出来る以前、『うなめ越え』を利用して、お互いに行き来していた事から『前司ヶ森』とか『うなめご』とか呼んだのだろう。

 山頂へと登る趣味登山が無かった時代、『うなめごえの山』とか呼んでいた(隣の皿ヶ嶺も『上林峠の山』と呼んでいた)のは容易に推測されるのである。また、峠にある『首なし地蔵』には“天保”の年号(1830〜1843)が彫られているようだ。この地蔵さん、一時期首が無かったと記憶しているが、現在は付けられている。
 
 四国アルプス 北川淳一郎著(大正十四年六月一日)【復刻版より複製】
 ≪前司ヶ森山≫
 
 
 
 
 
≪うなめご≫
 “うなめご”とは、「幼くして嫁ぐ初(うぶ)な女子(めご)」と呼ぶ預け牛のことを指しているとの事。また、愛媛県史『伊予温故録』から引用すると

『預け牛』
 
  農家では、田植後は麦作の整理まで耕牛の必要がない。しかも、この間は暑気、蚊および飼料の夏草入手など、いろいろ飼育管理上面倒が多いところから、牛を山間部の農家に預けて飼育してもらう制度である。それをアズケウシ、アゲウシといっている。この制度は道後平野の農村でとくに盛んであった。

 しかし、預け牛制度はそんなにいくらも古いことではなさそうである。中山町誌によれば、「当地の副業的畜産として行われたもので、平担部の牛を年間または季節的に預って飼育し、その手間賃を受取るしくみである。大部分は七月上旬から十月中旬までの夏草期のもので、有力な問屋がこの間に介在している。そして、この問屋を経て牛主と預り手が契約し、さらに預り期間中の生育、肉付きの度合を評価して、手間賃(預り手数料)を定めていた。この制度は、明治、大正時代からのものらしく、問屋には泉町の島田鎌三郎(後、重松鎌九郎が引継ぐ)犬寄の飛田熊吉、それと大平にもう一人いたらしい。

 昭和二八年頃山間農家の手持牛の急増、人件費の高騰などにより自然消滅の形となった。多い年には、中山だけでも五百頭に上る牛が犬寄峠を越えたと考えられる。松山街道は季節ともなれば、牛の行列が続いたといわれる。

(略)

 温泉郡重信町あたりの農家では、面河村や久万町畑野川へ預け牛をしていた。預けるときは割符を渡した。割符は竹の節部をはすかい(斜め)に切ったものを、両方が分けて所持した。


との記述がある。


 ≪前司ヶ森山≫
 一時期、岳人は“ぜんじがもりやま”と呼んでいたようだが、今や“ぜんじんやま”への路が造られ、その後は現在の“おくぜんじんやま”の呼び名のほうが“云いえて妙”と考える。しかし、麓から名付けて云う“いしずちさん”に弥山や天狗岳や南尖峰や、はたまた西冠や北岳をも含む“お山”があると同様、“ぜんじがもりやま”に前善神や善陣山や奥善神があってもちっとも可笑しくは無いのである。否、その方が自然なのかも・・・。