縄文文化を巡る!(番外編)  
 「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(四国・愛媛編)・・東温市歴史民俗資料館
 2017年7月28日(金)
 今まで、近郊の各地の資料館などの紹介をしているのですが、我が街の資料館の紹介もしなければ・・。と、市役所の近くにある図書館と併設されている≪東温市歴史民俗資料館≫を訪ねました。そして、そこで戴いたパンフレットの“向井古墳”へは、後日、出向いたのでした。
 
≪向井古墳(市指定史跡)≫

 東温市樋口北側の兵陵上には10余基の古墳が築かれ、群集墳が形成されています。向井古墳はこの群集墳の1基で、古墳時代後期(約1300年前)に築かれた古墳です。平成19年度(2007)の発掘調査によって、横穴式石室を持つ円墳であることが明らかとなりました。また、石室の上半部は失われていたものの、石室内部からは多数の須恵器や馬具、鉄器などの遺物が検出されました。
 その後、向井古墳は周辺の整備を経て、平成27年(2015)の5月16日、史跡公園として開園しました。園内では、築造当時の形を再現した円墳とともに、説明看板を設けて発掘当時の様子を紹介しています。なお出土した遺物の一部は、歴史民俗資料館で見ることができます。


      東温市歴史民俗資料館編(ふるさと歴史ウォーキングマップより)

市指定史跡 向井古墳 説明版

 「東温の歴史展」にさいして

 東温市は、平成16年9月21日に重信町と川内町が合併して誕生したまちです。
 松山平野の東部に位置し、人口約34,700人の愛媛県で一番小さな市です。
 市の中央には、北部に源を発する重信川が流れ、南部には皿ヶ峰連邦が博がる、豊かな自然にあふれています。
 東温市に人が住み始めたのは、約2,000年前で、松瀬川地区や北型地区では、弥生時代の集落跡が確認されています。
 古墳時代になると、志津川地区、樋口地区、北型地区に古墳が造られ、奈良時代には、下林地区の登り窯で、沙羅や硯などの須恵器や軒丸瓦などが焼かれました。
 また、讃岐街道(金毘羅街道)が市の東西を通り、古くから交通の要衝として栄えました。
 この展示では、資料を通じて東温市の歴史を深めてもらえば幸いです。

         東温市立歴史民俗資料館


 
 図書館と併設されている歴史民俗資料館の入口の脇には、上掲の墳墓が置かれていました。案内板には“西岡2号墳(約1,350年前)”の案内板が建てられていました。現地からこの場所に移設したとの事です。

 3階の資料館の上記案内には『東温市に人が住み始めたのは、約2,000年前』云々が書かれていましたが、正確には『東温市内で発掘されている人跡は、約2,000年前が最古・・』と言い表すのが正しいものと考えます。ここ道後平野の近郊からの発掘では、砥部町・土壇原の発掘のように縄文時代の遺跡も存在しているのです。愛媛県下の弥生以降の遺跡については、現在の住居とはさほど違わない地域で生活痕が発掘されていますが、弥生時代以前となると、少々、その痕跡は現在の住まいとはその住処を異にしているようです。

 そのことは、住居を持たない“狩猟・採集”からやがて“定住”することとなるのが縄文時代だったというが根底にあると考えなくてはなりません。さて、道後平野東端に位置するここ東温市では、現在までは弥生時代以降の遺跡の発掘に留まっています。ずっと昔、祖先が瀬戸内で狩りをしていた頃から、時期を経て温暖な気候となり植生が変わり、そこに住む生態系も変化してきた中、森の中で生きる術を見出した祖先の住まいは、どのあたりに痕跡を見出せるのかは、判り得ません。四国では、高度経済成長期以降の高速道路工事や空港の新設などの際に、またそれ以前には公共の建物の新設工事の際などで遺物が発掘される場合が多いようです。

 小生が興味を持つ縄文時代の遺跡は、道後平野に於いては山裾の地域で多く発掘されていると認識しています。道後平野の中心部を流れる重信川とその支流の石手川の平野部からは、弥生時代以降の遺跡が数多く発掘されています。

 そんな事情にはお構いなく、とりあえず以下に展示品を紹介することとします。
 
北吉井樋口遺跡(きたよしいひのくちいせき)

北吉井樋口遺跡は、弥生時代中期頃(約2,000年前)の遺跡です。
発掘調査が断片的で、調査面積もちいさなものであったことから、遺跡全体の様子や範囲を
把握することはできませんでした。
しかし、調査の中で、弥生土器の破片や石庖丁などといった、弥生時代の人達が生活に
使っていた道具がみつかりました。
今後の調査により、住居跡など、当時の人たちが生活していた跡が見つかるかもしれません。

 

向井古墳(むかいこふん)

向井古墳は、直径約15mの横穴式石室を持つ円墳で、
6世紀後半(古墳時代後期)に作られた古墳です。
石室の羨道部からは、須恵器や馬具などの副葬品がまとまった状態で見つかり、追葬や、
それに伴うカタヅケの跡の可能性も考えられています。
また、樋口地区には、向井古墳の他にも10基の古墳が確認されており、
古墳群が形成されています。
向井古墳は、大きさや、副葬品の内容から、群集墳の中でも重要な古墳ではないかと
考えられています。


 

 
 
 
 展示は古墳から出土された須恵器を始め、志津川古墳群などからの遺物等が紹介されています。そして、市内にある城址などの紹介パネルの展示がされています。
 

「愛媛新聞ONLINE」より
 

東温で分銅形土製品を発掘、祭事用か

2012年11月09日(金)

 

 愛媛県東温市教育委員会はこのほど、同市北方にある弥生時代中後期の大規模集落跡「揚り畑(あがりはた)遺跡」で、祭事などに使われたとされる人をかたどった分銅形土製品を発掘した。顔部分と下部が見つかり、二つは接合できる。市歴史民俗資料館は「一体になる形での出土は珍しい。当時の暮らしぶりを把握するための貴重な資料」としている。

 見つかった分銅形土製品は、二つ合わせた長さが約10センチ、幅約6センチ。同館によると、分銅形土製品は瀬戸内沿岸での発見が多く、角張った顔が特徴。松山、西条、今治の3市でも出土している。

【写真】東温市の揚り畑遺跡で見つかった分銅型土製品

 

東温に弥生大規模集落 竪穴住居跡確認

2012年12月22日(土)

 

 愛媛県東温市教育委員会は21日、同市北方の「揚り畑(あがりはた)遺跡」から、弥生時代中期―後期(約2000〜1700年前)の大規模集落跡が見つかったと発表した。松山平野の東端にあり、市教委は「弥生時代の松山平野のあり方を考える上で貴重な発見だ」と話している。

 同遺跡は、開発に伴い1996年以降、6回発掘を実施。大量の土器が出土するなどしたため、大規模集落の可能性が指摘されていた。7回目の今回、幅約5メートル、長さ約220メートルの調査区域から9棟分の竪穴住居の一部が密集して見つかり、大規模な集落が営まれていたことが裏付けられた。

【写真】揚り畑遺跡の中心的な建物だった思われる直径約9.5メートルの竪穴住居=21日午後、東温市北方


以下に、遺跡の紹介が載っている広報誌をリンクします。  
 

 
 

 右の出土品の展示には、以下の説明がありました。



 銭壺について

 これは昭和31年に下林地区の通称「古大寺」と呼ばれる田から偶然発見されたものです。同じ田から2つの甕が出土しましたが、残念なことに散逸してしまい、今では2番目に出た甕とわずかな古銭が残るのみです。この2つの甕には推定17万から18万の小銭が納まっていただろうといわれています。
 小銭は、中国からの輸入銭で一番古いのは開元通寶(621年)、逆に新しいのは威淳元宝(1265年)です。甕は室町時代初期(14世紀半ば)の備前焼です。



 上記の説明には、思わず笑わざるを得ませんでした。