縄文文化を巡る!(番外編)  
 「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅・・徳島県立埋蔵文化財総合センター
 2017年12月9日(土)
  ここへと寄ることとなったのは、『加茂谷川岩陰遺跡』を調べている中、当センターがネットでヒットしたからで、前もっての知識を持ち合わせていたわけではありません。

 さて、12月の第一週は、ここ十数年、義兄夫婦と“温泉で一泊”の慰安会があります。今年の宿泊場所にpm3時の集合時間に間に合うように、高速道路を回り道をして立ち寄ったのでした。
 他県のこのような施設の例を詳しく知っている訳ではありませんが、県立の施設でも歴史博物館とは別に埋蔵文化財センターと呼ぶ施設があります。前者は、県営の文化施設ですが、後者は同じ県営でも教育委員会の持ち物です。埋蔵文化物の発掘を担当する部署が文化庁・各級教育委員会だからなのでしょう。

 愛媛県の場合も同様なのですが、埋蔵物が発掘された場合に展示に際し、それぞれの展示施設が遺物を取り合っている感がするのは、いかがなものでしょう。
 徳島自動車道を藍住ICで降りるのは、現役時代に大阪転勤で吹田に住んでいた際にはしばしば利用していたのですが、最近は年何度かしか利用していませんでした。
 施設がある板野町へは、高校卒業後の初任地での仕事の関係で社用車で訪れていました。しかし、今から60年近く前の事、向かう道々、移動する車から見える景色には面影もありません。

 埋蔵文化財センターへ寄ってみようと思ったのは、徳島県の『加茂谷川岩陰遺跡』からの出土遺物などがみられるかも? との淡い期待などもありました。玄関を入ると、徳島新聞の切り抜きが張り出されていて、『吉野川と旧石器・縄文人』との氏家氏のインタビュー記事もありました。以下に、要旨を書き出します。



徳島新聞(2016年3月3日)より抜粋

 
県内では旧石器の遺跡は約60カ所が確認されている。そのうち吉野川流域の遺跡は57カ所で、大半が集中している。分布の特徴は、吉野川の北側に遺跡が残されているということ、もう1点は下流では板野町より東からは遺跡が見つかっていないことが指摘できる。当時は氷河期であり海水面が100b近くも下がっていたため、下流の遺跡は多くが地表下深くや海底に沈んでいると考えられる。
 また遺跡の発見される場所の平たんな河岸段丘の上であり、狩猟用の石器製作を行った生活痕が発掘調査によって見つかっている。一方で山間部から石器が発見される場合は槍先が単独で出土することが多く、狩り場であった可能性も考えられる。
 続く縄文時代の遺跡は県内で100カ所が確認されている。分布は旧石器時代と同様に吉野川流域に半数以上が集中している。
 草創期、早期など縄文時代開始期では、旧石器時代の頃と同じく段丘上を中心に存在している。遺跡から出土している遺物は少なく、居住の実態は不明である。また加茂谷川岩陰遺跡(東みいし町)のように、新たに山間部の岩陰などが生活拠点に利用されていることが特徴といえる。
(以下略)
 




右図≪国府型ナイフ形石器≫

 

≪国府型ナイフ形石器の製作≫

国府型ナイフ形石器は原石の分割、剥片剥離
という2つの行程を経て作り出された横長剥
片(翼状剥片)に調整加工を施したもので、
近畿・瀬戸内地域の旧石器時代後半期(約2
万年前以降)を代表する狩猟具であった。 


 


≪徳島の旧石器≫

県内の旧石器時代の遺跡では、サヌカイ
トと県南地域産のチャートの2種類の石材
を多用した石器製作が行われている。  




以下≪縄文時代≫

 

≪石の生活用具≫

縄文人は多様な石器を使用した。石鏃や石錘
は狩猟漁撈具として、磨製石斧などは加工具
に、磨石・凹石・石匙・スクレイバーは食品
加工具に用いられた。さらには収穫用のスク
レイバー、土器用の打製石斧も登場する。
 


 




以下≪弥生時代≫ 右図は分銅形土製品(阿波市・西長峰)


 

≪新しい道具と技術≫

水稲農耕の開始とともに、両刃の伐採斧、片
刃の加工斧など、大陸系の磨製石斧が出現す
る。さらに徳島では刃部だけを磨いた地域色
の強い加工斧も生み出された。紡織技術もま
た、弥生時代に加わった技術のひとつである。



 

≪思想を伝える文様≫

具象的・抽象的表現にかかわらず、絵画も記
号も農耕祭祀に関する弥生人の思想伝達のし
るしである。X帯文は古墳時代に成立するX
X文の源流とみられ、一定の法則性と連続展
開する構図を備えている。
           


  

 

 

≪吉野川上流の玉作り≫          ≪吉野川下流の玉作り≫

稲持遺跡は蛇紋岩を用いた勾玉専用の玉作遺 矢野、郡頭、若杉山遺跡には蛇紋岩製C字形
跡である。原石を打割し、石核を作り出した 勾玉がみられる。このタイプの勾玉は香川・
のち、研磨と打割を繰り返す製作技法がみら 岡山の遺跡にも拡散しており、徳島から運び
れる。特に石核研磨で作られたXXを最大限 出された品目のひとつである。矢野遺跡では
に利用する技法は、大きな特徴である。   政策を示す石核が出土している。
   

注:吉野川の上流といっても、徳島県での話であろう。(源流域は高知県)

 

 

 

 

 


≪聖なる赤−朱の精製−≫

古代の赤色顔料には水銀朱・ベンガラ・鉛丹があ
る。赤は復活と再生の意味をもち、銅鏡と同様に権
力の象徴として好まれた。朱は山地が限定される貴
重品で、阿南市若杉山遺跡が採掘地として知られて
いる。朱は辰砂鉱石のすりつぶしと、水ごしによる
不純物の取り除き行程の繰り返しによって精製され
る。最終段階ではベンガラを混合する場合もあった。
徳島では弥生時代中期末以降、鮎喰川流域の集落や
板野町黒谷川郡頭遺跡で精製された。        

 

  
 

以下は古墳時代以降