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「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(四国・愛媛編)・・久万高原町発掘50年の足跡 |
愛媛県
歴史文化博物館 テーマ展
「久万高原町発掘50年の足跡」
展示構成
第1章:上黒岩岩陰遺跡50年史
第2章:当館保管の上黒岩岩陰遺跡出土遺物―[平成28年度]資料整理の成果報告―
第3章;久万高原町の遺跡ー採集品から最新の資料までー
関連展示@:上黒岩岩陰遺跡の前夜ーえひめの旧石器時代ー
関連展示A;縄文文化成立期の遺跡紹介ーえひめの縄文時代草創期・早期ー |
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2017年6月9日(金) |
表記のテーマ博が開催されている事を知り、歴史博物館を訪れました。展示会の会場の歴史文化博物館には、レストランの名が付いた場所があるのですが、軽食程度しか無かった記憶でした。そんなこともあり、pm2時半頃に「コーヒータイムにしようか?」と、注文すると「3時までですが・・」と、オネーサンに言われたのでした。「えっ、三時までって。閉館は5時だったのにねぇ〜」と、呟いていました。駐車場には一杯の車が停まっていたのに、館内は静まりかえっていました。
今回の主目的は「テーマ展:久万高原町発掘50年の足跡」なので、すっ飛ばして、考古展示室へと急いで向かったのでした。
≪テーマ展開催にあたって≫
このたび、「久万高原町発掘50年の足跡」と題したテーマ展を開催いたします。
上浮穴郡久万高原町は、県の中南部に位置し、いにしえより、豊かな自然の恵みを生活の基盤としてきた高原地帯の町であります。同町には、全国的にも著名な“国史跡・上黒岩岩陰遺跡”が存在し、現在もその調査・研究が進められています。近年では、それ以外の遺跡でも学術調査が行われており、多くの成果が蓄積されつつあります。
そこで本展では、この“久万高原町”にスポットを当て、上黒岩岩陰遺跡の発見から50余年、これまで久万高原町で発見されてきた埋蔵文化財を、関連写真や文献資料等とともに展示することで、その足跡を振り返りたいと思います。また合わせて、当館において、平成28年度に県内外の研究者・研究機関と共同で行った、上黒岩岩陰遺跡出土遺物の資料整理の成果(『愛媛県歴史文化博物館資料目録第25集』)についても紹介いたします。こうした観点から、久万高原町の埋蔵文化財にご理解いただき、その魅力についても再発見していただければ幸いです。
最後になりましたが、久万高原町教育委員会をはじめとする関係者の皆さまには、本テーマ展の主旨にご賛同いただき、貴重な資料の出品や写真の提供等に、惜しみないご協力を承りました。こうした関係各位のご厚情に心より深く感謝申し上げます。
平成29(2017)年3月
愛媛県歴史文化博物館 |
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以下のパネル展示は、遺跡の発見から5次の発掘調査を経て、国の史跡指定→上黒岩遺跡考古館オープン→久万高原町の町村合併→報告書作成→特別展開催など、貴重な資料が展示されています。 |
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≪各種土器≫ |
≪竹口氏収集資料≫ 個人蔵
遺跡を発見した竹口家が、大切に保管している上黒岩岩陰
遺跡出土の一式。本資料群は、一部の資料を除き、そ
の多くが、平成21年に刊行された『愛媛県上黒岩遺跡の研
究』にて資料化されている。
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縄文土器
当館保管の縄文土器も総点数は132点である。既報告(春成・小林編 2009)の土器分類に従った結果、1群土器:隆起線文土器22点、2群土器:無文土器1点、3群土器:押型文土器20点、4群土器:条痕文土器・無文土器68点、6群土器:縄文時代前期以降の土器21点となり、5群土器については認められなかった。なかでも縄文時代早期に属する条痕文土器や無文土器(4群土器)が多く、こうした資料の中には押型文土器以前の可能性も考えられる資料も存在しており、その位置づけに関しては今後の課題といえる。
また、少量ではあるが、九州を主とする分布域を持つ轟B式や、瀬戸内の羽島下層式・船元式、そして晩期後半の刻目突帯文土器も確認できる。
こうした岩陰前庭部のFトレンチから出土した縄文土器は、岩陰内部とも共通する土器組成を呈している。(兵頭勲) |
各種土器など
≪左 石鏃≫ ≪右 有茎尖頭器≫
≪左 スクレイバー・石錘≫ ≪右 石鏃(木村剛朗氏収集資料≫
≪左 石鏃・石錘≫ ≪右 慶應義塾大学民族考古学研究室蔵≫
≪左 貝器・装身具など≫ ≪右 年代測定を行った動物遺存体≫
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石器
当館保管の石器は、総点数42点を数え、このうち27点が愛媛県教育委員会資料、残り15点が木村剛朗収容資料(寄贈資料)である。その内訳は、有茎尖頭器(未完成品含む)4点、石鏃25点、石錐1点、石錘2点、スクレイバー1点、扁平礫1点、剥片8点となる。これらの石器は、出土した土器の層位と種類に照らし合わせると、縄文時代草創期・早期・前期に属すると考えられる。
木村剛朗収容資料については、すべて石鏃であり、これらは最大で1.23cmまでの科型品であった。こうした小型石鏃が、上黒岩岩陰遺跡3・4次調査のA区・A拡張区4層で出土していることから、本資料群は、縄文時代早期、なかでも無文土器段階に帰属するものとして推定したい。
石器石材については、在地で採取できる石材を利用しつつ、数は少ないものの、大阪府・奈良県の二上山、広島県冠高原、大分県姫島、香川県金山等で産する遠隔地の石材も認められる。
(大分県教育庁埋蔵文化財センター・綿貫俊一) |
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≪上黒岩岩陰遺跡出土の主な動物遺存体(貝殻や動物の骨、歯、骨など)≫ 当館蔵 |
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資料整理を終えて
≪成果と今後の課題≫
今回の資料整理の大半は、昭和44(1969)年に行われた4次調査のFトレンチの出土遺物であった。本トレンチは、岩陰の前庭部に設定され、その調査面積はわずか9u、F4と称する調査区を合わせても12.45uとなる狭い範囲での調査であったが、縄文時代草創期・早期を中心に、多様な遺物が出土している。弥生時代終末〜古墳時代初頭や近世の資料も含めると、断続的ながらも、極めて長期間にわたって岩陰前庭部が利用されていたことがうかがえ、これまで十分に把握し得なかったFトレンチの実態、つまりは岩陰前庭部の一端を明らかにすることができた。
また、上浮穴郡久万高原町は、“四国山間部”という閉鎖的な文化圏を形成する小地域として捉えられがちだが、こうした出土遺物のなかには、九州的要素を含んだ資料のほか、瀬戸内海や太平洋側との関係性を証する資料も多く認められ、縄文時代に関していえば、各方面にわたる、活発的な人やモノの動きを想定することができる。
発見からすでに50年が経過した上黒岩岩陰遺跡は、縄文時代黎明期の社会や、縄文文化の成立を理解する上で極めて重要な役割を果たしており、そうした過程の中で、岩陰部分に接するA・B・C区やA拡張区等での華々しく多様な出土遺物が注目されてきた。しかし、各時代における本遺跡の実態、例えば岩陰の利用形態(ランドマーク・キャンプ地・定住地・祭祀地・休憩地等)を追求していく上で、今後、「岩陰前庭部」の様相を広く把握していくことは必要不可欠n作業であり、その結果いかんでは、史跡範囲の正否の再検討も必要になってくる。そうした観点からも、今回の当館資料の再整理は、その必要性を再認識させるものとなり、大変意義のあるものになったと考えている。 |
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以下は各種出土品 |
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以下は、上黒岩第2岩陰遺跡資料 |
上記、上黒岩第2岩陰遺跡の発掘については |
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以下は、愛媛県下の遺跡資料 |
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上記資料の中に、≪国立歴史博物館 研究報告 第154集(平成21年9月)≫
【愛媛県上黒岩遺跡の研究】 (春成秀爾・小林謙一編)より引用
第3部 研究の成果と課題
(前略) 確かに押型文土器の時期にも、九州には熊本市瀬田裏遺跡や大分県日出町早水台遺跡のような、大規模な遺跡も存在し、前者には大規模な配石遺構を伴っている。しかし、それらは例外的であって、本州・四国ではこの時期は、上黒岩遺跡の状況が示しているように、基本的に小規模なおそらく10人内外からなる小集団が広大な領域内で遊動生活をおくっていたと考えるべきであろう。
以上のような状況をふまえ、ここでは、ヨーロッパ・西アジアと対比するさいの、とりあえずの互換表を示しておきたい。
旧石器後期 (38,000〜16,000年前):後期旧石器時代
縄文草創期 (16,000〜11,700年前):晩期旧石器時代
縄文草期 (11,700〜7,000年前) :早期新旧石器時代(中石器時代)
縄文前期 (7,000〜5,500年前) :前期新石器時代
縄文中・後期 (5,500〜4,000年前) :中期新石器時代
縄文後・晩期 (4,000〜2,800年前) :後期新石器時代
弥生前・中期 (2,800〜2,200年前) :晩期新石器時代
1962年にはじまり1970年に終了した上黒岩遺跡の研究成果の報告を以上で終える。調査後38年たってから、調査に参加しなかった者たちがあつまって精一杯作成し刊行する報告書である。本書で提示した縄文草創期・早期の豊富な資料と考察が新たな出発点となって、上黒岩遺跡そして晩期旧石器時代から縄文時代の始まる時期の研究がさらに前進することを関係者一同願ってやまない。
(春成秀爾)
上記資料は分厚い報告書で、中には非常に専門的な言葉などで記されていたりしています。しかし、私が「どうして、日本列島に縄文人が現れたのか?」との、基本的な命題に出合える報告となっています。もちろん、文字も録音機器なども無い時代のこと、掘り出された石器や遺物だけで一つの結論に辿り着く事は適いません。
だからこそ、私の興味は尽きません。
云える事は、大陸の端っこの日本列島上に取り残された祖先が、他の地域と違う過酷な自然条件と共生しながら生き延びるには、縄文土器を手に入れ、狩猟・採集の流浪の生活から時を経て、後に“縄文文化”と呼ばれる文化を手に入れることとなるのが必然だったのでしょう。
そして、上記縄文の進化の文化は日本列島の隅々で同時期に進んで行ったとは考えられません。TVも新聞も無かった時代です。しかし、どこかから発信した文化は、時を経ず、列島の隅々まで広がり浸透していったのも歴史的事実です。この進取の精神は、列島の過酷な自然から自らを守る為に必要だと感じていたからだといえます。初期の小集団での生活は、厳しい自然(四季があり、狭い土地にも拘わらず海から高い山が迫っている環境。また、緯度の違いで気候が変わる条件下でもある)と共存しなくてはなりませんでした。
その厳しい条件下で共存し生き延びて来た祖先たちは、採集から栽培へと向かう事になるのは必然でした。その栽培される植物は、地域により時期により年代により違っているのは当然のことでしょう。現代でも、りんごやサクランボやじゃがいもやレンコンや穀物やいろんな豆類など、栽培に適した地域(緯度の違い、高度の違い、雨量などの違い、季節の条件など)の選択が必要な事は当然でしょう。
一括りで『縄文時代は・・』とか『縄文人は・・』とか論じる輩は信用できません。『どこそこの地域では、何時の時代に・・XXだった』との推論こそ考えに値するものと思います。
さて、次はどこの遺跡を尋ねることが出来るのでしょうか?
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