縄文文化を巡る!
縄文遺跡を巡る旅(四国・愛媛編)
中津川洞遺跡
上の写真は洞穴内部です
 


 中津川洞穴は、穴神洞穴と同様に昨年も訪れていましたが、こちらの洞穴には入る事は適いません。中津川集会所の奥に恵比寿神社があります。立派な鳥居の奥には古めかしい拝殿があり、その右手に目指す洞穴がありました。洞穴には、人が立ち入れないようにフェンスが設置されています。扉に掛けられている鍵は、もう何年もあけられていないように、錆びついています。
 その洞穴の前には≪西予市教育委員会≫設置の『中津川洞穴遺跡』の案内板が建てられていました。




     愛媛県指定 記念物(史跡)
   ≪中津川洞穴遺跡≫
                           所 在 地  愛媛県西予市城川町古市3273番地
                           指定年月日 平成23年3月31日
 縄文時代の石器製作所

 中津川洞穴遺跡は、中津川の右岸に形成された小規模な河岸段丘と山麓にせり出した岩場の境に立地しています(標高191m)。南面する岩場に開口部高2.1m、奥行き5.0mをはかる洞穴があります。
 1996年(昭和41年)、地元の中学生が洞穴内で縄文土器片を採集したことから遺跡であることがわかり、1969年(昭和44年)城川町史跡に指定されました。1971年(昭和46年)からの3回の発掘調査で、縄文時代早期・前期・後期の生活の痕跡が確認されました。
縄文時代前期の粘土と玉砂利による埋葬遺構(女性人骨)は、縄文時代前期のものとしては現在県内で唯一の例になります。また地元産のチャートで作った石鏃(石で作ったやじり)もたくさん出土しました、石鏃は、完成品のほか未完成や素材、制作時に生じた剥片などが出土しています。ここで当時の人たちが石器を作り、野山の動物を追っていたのでしょう。2010年(平成22年)の確認調査では、恵比寿神社境内地全体に遺跡が広がっていることがわかりました。
 西予市にはこのほか、穴神洞穴遺跡(県指定、城川町川津南)などの洞穴・岩陰遺跡が13遺跡確認されていて、四国の4割の洞穴・岩陰遺跡が西予市に集中しているとされています。なお、中津川洞穴遺跡から出土した資料は、城川歴史民俗資料館に展示されています。

  岩陰の遺骸は縄文早期の人(城川かるた)
                        西予市教育委員会
 
≪洞穴から出土の石鏃≫

 
≪サヌカイトの石鏃(約8,000年前)≫ ≪姫島黒曜石の石鏃(約8,000年前)≫

 
≪2層出土の石鏃(約8,000年前)≫ ≪姫島黒曜石の石鏃(縄文前期)≫

 
≪4層出土の石鏃など≫ ≪姫島黒曜石の石鏃(縄文後期~約3,500年前)≫
≪洞穴から出土の石器など≫

 
≪楔形・ナイフ形石器(~縄文草創期)≫ ≪掻器・縦長剥片石器(~約12,000年前)≫

 
≪無文土器(~約10,000年前)≫ ≪縦長剥片石器・楔型石器など(~約10,000年前)≫

 
≪無文土器(~約10,000年前)≫ ≪楔形石器など(~約8,000年前)≫

 
≪小型掻器(縄文早期)≫ ≪磨製石斧(約5~6,000年前)≫

 
≪小型楕円押型文土器(~約8,000年前)≫ ≪2層出土の削器(~約8,000年前)≫

 
≪2層出土の叩き石・砥石(約5~6,000年前)≫ ≪炉跡中出土のカワニナ(約5~6,000年前)≫

 
≪尖頭器状石器(~約8,000年前)≫ ≪2層出土の叩き石・砥石(約5~6,000年前)≫

 
≪焼獣骨(約7,000年前)≫ ≪2層出土の刺突文土器(約5~6,000年前)≫
≪屈葬人骨≫
 

埋葬人骨

 熟年、女性人骨で身長は約148cmと推定
される。歯はほとんど歯根近くまですり減って
おり、当時いかに歯が酷使されていたかを
知ることができる。四肢骨は細いが縄文時
代人一般に認められる特徴があきらかであ
る。椎骨には、頭骨や四肢骨に比して加齢的
変化が強くあらわれている。          
(各骨はできるだけ出土状態に近く配列して
あるが、細部は推測による所が多い。)  

城川町大字古市・中津川第4層出土

 上記人骨の鑑定についての報告(百々幸雄氏)は、コチラから  
下記に、≪穴神洞・中津川洞発掘記録抄≫ 長井数秋 編著 平成16年(2004年) 愛媛県城川町教育委員委員会の編集後記からの抜粋します。
≪編集後記≫
 穴神洞と中津川洞の調査に着手してからすでに33年、調査が終了してから24年の歳月が経過した。この間、両遺跡の調査概要を『城川町の遺跡』で紹介したが、十分ではなかった。中略。

 両遺跡の報告書の題名を、『発掘記録抄』としたのは、資料の紛失と、私自身が浅学であり、かつ、十分な検討を加えたとはいい難いからである。ただ、『城川町の遺跡』では両遺跡を十分に紹介したとはいえなく、かつ誤りも多いので、両遺跡については今後はこの発掘記録抄を参考にされたい。本発掘記録抄が多少なりとも四国地方の縄文文化究明の一助となれば、責務の一端を果たしたことにもなろう。
 本記録抄を記すにあたり、発掘当時の増田純一郎町長、梼川一郎教育長はじめ教育委員会の方々、川津南部落の方々には大変お世話になりました。今は亡き西田栄先生にかわりまして、発掘に参加した一同を代表して厚くお礼を申し上げます。また、編集に際し協力して頂いた十亀幸雄、重松佳人両氏と、図番作成、編集、写真、校正を担当してもらった西岡若水氏の労に感謝したい。
 最後になりましたが、本記録の発行の御援助を頂いた、城川町当局ならびに城川町教育委員会に対して心より感謝の意を表したい。      (2003年12月01日)
愛媛考古学研究所 長井数秋 
 
 今回、参考としました上掲の≪穴神洞・中津川洞発掘記録抄≫は、城川町教育委員会が主体となっての発掘調査記録ですが、そのあたりの経緯については“本抄”の序論に記されていますので、以下に引用します。
 
Ⅰ 序論
1 調査目的


 昭和36(1961)年から愛媛県上浮穴郡美川村で上黒岩岩陰遺跡の調査が行われた。調査は昭和45年の第5次調査まで行われ、世界最古といわれている約1万2000年前の土器や女性をモチーフにした線刻礫の出土で、縄文草創期という時期区分を設ける契機ともなった。第一次調査は四国の研究者が中心に行ったが、第二次調査以降は慶應大学教授の江坂輝彌氏を中心とした日本考古学洞穴部会が調査を担当し、愛媛県内からの参加は愛媛大学教授西田栄氏や大山正風氏、それに筆者くらいであった。このような調査であったため、出土した貴重な遺物もその一部が美川村に残っただけで、大半は東京や千葉で保管されており、地元の人々が自由に見学することも、研究の対象とすることも困難であった。
 
 上掲の事情を耳にしたのは「何故、こんな小さな町の教育委員会が主体で“文化遺跡”の保護活動をしているんですか?県とか該当の行政は関わらないんですか?」の小生の疑問に「県に持って行かれてしまいますから・・」との応えでした。その際は「そんなものなんか」と、それ以上に深くは考えは及びませんでした。
 しかし、「行方が判らなかった、上黒岩遺跡から発掘された“埋葬犬骨”が発見」の報に接したのでした。この間、いくつかの遺跡の現地説明会へ参加しましたが、発掘を担当している主体の大学が違っていました。勿論、発掘作業自体はどこの大学からの参加でも良いだろうし、地元のオジサンやオバサンでも良いのでしょうが、発掘を主導する考古学の先生をどのような形で選定して依頼するのかは、小生には判りかねます。

 そんな大人の事情はともかく、上述したようなトラブルの報は好ましいものではないでしょう。