縄文文化を巡る!  
 2018年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅
明治大学博物館 ≪2018年8月4日≫


 昨日、東京国立博物館(平成館)の特別展≪縄文 1万年の美の鼓動≫へ行ってきました。東京で一泊の予定なので適当な博物館無いか?・・と探していると、本年2月に相棒が出展した写真展に出向いた際、宿泊したのがJR御茶ノ水駅側のビジネスホテルでした。その際は、神田よりの聖橋側の改札の利用でしたが、今回は御茶ノ水橋寄りの改札側の傍に、明治大学博物館があるのを発見したのでした。
 地図で確認すると、明治大学は分かりやすい場所でしたが、隣に日大図書館などもあって、若者の行き交う街の様相です。駅から少しで、目の前に巨大なビルが現れました。そこが明治大学でしたが、数名の若者がビルの前で案内していました。どうも『オープンキャンパスの案内』との事でした。それとは別に、入口の前で『同窓会の受け付け』なども案内していました。
 私たちは、そのどちらでもありませんので、正面入り口を入って一階奥のエスカレーターから【博物館】の案内に従って地下へ降りると、【考古部門】は地下2階へと案内がありました。


【関連リンク先】 明治大学博物館(考古部門)



 下は、明治大学博物館のリーフレットです。
 
 
 
  

上記リーフレットから、以下を引用します。



【考古部門】

 考古学は人類の過去を探り、その時の生活や文化を再構成する学問です。そのため考古学者は遺跡を発掘し、過去を復元する証拠を探すのです。明治大学では1950年に文学部考古学専攻ができて以来、旧石器時代から古墳時代にいたる各時代の遺跡を調査研究してきました。その中には現在、出土資料が重要文化財に指定されている群馬県岩宿遺跡・埼玉県砂川遺跡・神奈川県夏島貝塚・栃木県出流原遺跡などが含まれています。考古部門では、50年以上にわたるそうした調査研究の成果を公開しています。いずれも戦後日本の考古学の発展を促した重要資料なのです。



 さすが大学の博物館です。学生らしき若者が次々に訪れてきます。常設館は入口から左に≪商品≫、右へ≪刑事≫などとコーナーが設けられていました。私たちはそれらを横目に≪考古≫のコーナーへと行きました。

 ≪考古≫の案内に従った先には≪後期旧石器時代の狩猟採集民≫とのパネルが掲げられていました。大学の博物館は、京都大学に次いでの訪問なのですが、各自治体などの主管する博物館と違って、直接的に発掘や調査・研究に携わった遺跡の遺物の展示となります。つまり、その範囲は北海道から九州まで及びます。その意味では、双方の特徴や役割も違ってくるものと思われます。


≪後期旧石器時代の狩猟採集民≫

 後期旧石器時代人は、氷期の寒冷気候に適応した狩猟採集民であった。砂川遺跡おける石器接合などの新しい研究方法は、頻繁に移動する誘導生活を明らかにし、その後の研究に大きな影響を与えた。また、関東平野とその周辺では、更新世に堆積したローム層の層序にもとづく編年研究の取り組みが1970年代からはじまり、現在では放射性炭素年代で各時期に年代を与えることができる。月見野遺跡群の発掘は、編年研究の初期に約30,000年前以降の石器群の時間的序列を明らかにした。

 

 

  

≪後期旧石器時代の黒曜石利用≫

 日本列島の更新世堆積物は、骨などの有機質遺物の保存状態が悪く、後期旧石器時代研究の主な研究対象は、石製遺物である。原産地が限られる黒曜石は、中部・関東地方の全域で利用された石器石材であり、理化学的な分析により原産地を同定できる。黒曜石の獲得と消費の研究は、後期旧石器集団の遊動生活の解明に大きく貢献している。鷹山遺跡群が位置する長野県中部高地に算出する黒曜石は、後期旧石器時代の中部・関東地方で最も多用された黒曜石であるが、その利用の頻度は大きく変動する。



 

 

 

≪細石刃を携えた狩猟採集民≫

 細石刃は、1〜2cm前後の長さの細長の石刃で、骨製の槍などに複数埋め込んで使われた狩猟具の部品である。地球上の氷床が最も発達した最終氷期再寒冷期から気候温暖化以前にかけて、日本列島の全域に広がった。北方系の細石刃技術は、当時サハリンと北海道をつないだ陸橋を経由してシベリア方面から北海道に南下した狩猟採集民の影響で成立した可能性が高い。一方、太平洋沿岸に主に分布する稜柱形細石刃石核を代表とする細石刃技術の成立については、中国大陸からの伝播、独自発生、北方系細石刃技術の影響など諸説ある。



  

 
 考古部門は、≪後期旧石器時代≫から始まりました。小生は詳しくは知らないのだが≪旧石器捏造事件(
)≫については詳細を把握していません。ここ日本列島に於いては、4万年を超える時代の人の痕跡が残る遺物の発見には至っていません。そして、気温の上昇→海水面の上昇→大陸との陸橋が分断→気温の上昇による植生の変化→大型獣などの絶滅→日本列島に住む人びとの食生活の変更。との環境の変化が推測されます。それらの変化は、順序がどうあれ否定する人はいないと思われますし、それらの環境変化こそ後の縄文社会の開化へと繋がるのでした。


*日本各地で「〜原人」ブームを巻き起こした日本の前記・中期旧石器時代の遺物や遺跡だとされていたものが、発掘調査に携わっていた考古学研究家の藤村新一自ら事前に埋設した石器を自ら掘り出して発見したとする捏造だったと発覚した事件

 
≪縄文時代≫
≪夏島貝塚と縄文海進≫

 縄文時代人は、世界的な温暖化によって成立した環境から多様な食糧資源を利用した。海産資源もその一つである。夏島貝塚は縄文時代早期前半から貝層が形成されていることから、日本列島の海浜部では最も古い貝塚の一つである。第一貝層が形成された約10,000年前は陸続きであったが、縄文海進による海水面上昇によって縄文時代前期までには海上の島となった。夏島貝塚に残された遺物や豊富な動物依存体は、縄文時代人が森林と海浜の両方の環境に適応した狩猟採集漁労民だったことを物語る。

 




 

 ≪縄文海進極相期の海岸線≫

 約15,000年前からはじまる晩氷期以降のグローバルな気候温暖化によって、地上の氷床が大規模に溶けだした。その結果、地球上の海水量が増加し、日本列島の各所でも海水面の上昇がおこった。約7,000年前には、夏島貝塚周辺でも現在の海岸線よりも内陸に海水が進入していて、これを「縄文海進」と呼んでいる。


 右図に示すとおり、約15万年前から13万年前の急激な気温上昇からは数度の小ピークの昇下降を繰り返しながら、2万年前から始まった大規模な気候の温暖化を経て、現在へと続いています。その気温の上昇が氷床を融かして海水面の上昇へと繋がり、同時に植生相の変化や生態の変化を伴って、食料の調達や食生活の変化に及んだものと考えられます。

 また、日本列島の海岸線は140mも上昇したとも言われていますし、上記の様に最大時には現在よりも数メートルも海岸線が上がっていたと考えられています。

 さて、私たちの直接の先祖である“ホモサビエンス”がアフリカを出て、世界へ拡散して行ったのは5〜6万年前とされていますが、最近では『12万年前頃にも小規模な脱出があったのではないか』との研究発表がありました。それらの大移動は、祖先が何の当てもなく彷徨い出たのではなく、獲物を求めて移動を繰り返したことは自明です。


【関連リンク先】 縄文海進の原因について(日本第四紀学会)

 



 

 

 
≪縄文晩期の世界≫

 亀ヶ岡文化は、縄文時代晩期の東北地方を特色づける縄文時代人最後の文化である。亀ヶ岡文化では、土偶をはじめとする祭祀具や優美な装身具が、先行する後期から引き続き発達した。弥生時代の到来を目前とした縄文人の精神世界の一端を垣間見ることができる。亀ヶ岡式土器と総称される一連の土器型式は、1930年に山内清男によって大洞B→BC→C1→C2→A→A`式に細分され、晩期土器編年の基本的な枠組みとなっている。

 

 

 
 
 

 
上掲の亀ヶ岡文化の象徴ともいえる≪遮光器土偶≫は、『何故こんな顔なの?』と疑問にことかきません。写実的な女性像とは違って、このような土偶が広まったことが不思議なのです。
 また、当館の所蔵である『山形土偶』は、外出中(東京国立博物館の土偶展に貸出中)であり、レプリカの展示でした。しかし、小生は松山市考古館で今春、出会っています。

 尚、重要文化財や国宝指定の土偶などについては、見ることが出来るのかは事前に訪問先の考古館などに問い合わせておくのが賢明です。小生の場合、偶然にも目的の文化財などに巡り合えていた幸運がありますが、少しの用心深さも持って巡っています。例えば、今回の東京国立博物館での縄文展を訪れる時期についても、全部の国宝が揃う7月末まで待っていました。

 
≪弥生時代以降≫

 

 

 

 

 
≪岩宿遺跡の発掘と旧石器時代研究のはじまり≫ 

 1946年に発見された岩宿遺跡は1949年と1950年に発掘され、日本列島に10,000年前を遡る氷期の人類文化が存在したことを証明した。1950年代までに作られた最初の縄文時代以前の石器文化編年では、岩宿遺跡、茂呂遺跡、上ノ平遺跡、矢出川遺跡が変化の枠組みを代表した。また、金木における「偽石器」との最初の遭遇は、石器の人工品判定にかかわる問題を今日に投げかけている。この時代は現在、主に後期旧石器時代と呼ばれ、日本列島では2010年代までに約15,000ヶ所の遺跡が確認されている。


 前掲の『埴輪』の展示で『古代部門』の展示が終わったものと、通路を引き返していくと、右手に陳列されている遺物が目に留まりました。それが、岩宿遺跡の紹介でした。すると、中国語らしき言葉の紳士と熱心に耳を傾けている女子がこのコーナーを見学して行きました。『さすが、大学の博物館』と、感心しながら見守りました。

 また、『埴輪女子』だとか『縄文女子』だとか呼ばれる若い女性も目立ちます。勿論、昨日の東京国立博物館のように、老若男女、家族連れなどの見物客が来る博物館は特別でしょうね。『XXを展示してるからXXへ行こう』とかの目的意識がある方が好ましいよね。





 

 


 

 
 
 小生が縄文遺跡を辿り始めて以降、さまざまな博物館などでの説明資料を拝見しています。冒頭にも書き出しました“歴史年表”については、現在では多数の方の共通認識だと考えます。しかし小生は『この遺跡の該当の遺物の年代測定がXXXX年だから、XX時代の遺物だ』との言い回しには同意しかねます。例えば、石器についていえば、その石器が鉄器などに取って変わる製品が使われるまでは、ずっと継続して利用していた筈です。
 つまり、後期旧石器時代から縄文時代との分かれ目は縄文土器の使用の有無でしょう。そして、縄文時代と弥生時代の分かれ目は水田稲作の有無という事となります。しかし、関東以北などの寒冷な地で水田稲作が可能となるのは、西日本で水田稲作が普及するよりずっと後の時代となるのは当然です。つまり、西日本と東日本、太平洋側と日本海側や瀬戸内地方。平野部と山間部といった地理的環境などに左右されるでしょう。

 それにしても、狭い日本列島に取り残された先人は、数百kmにも及ぶ地域との交流をしていたのです。15,000年前に始まった縄文時代以降はもちろんの事、それより以前の旧石器時代にも地域間の交流があった事を示す遺物が沢山、それも九州から北海道まで痕跡が残っています。