縄文文化を巡る!(番外編)  
 「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(四国・愛媛編)・・女神の里帰りプロジェクト
女神の里帰りプロジェクト2016

 「世界の女神像(講師 春成秀爾)」講演会の案内が届いた。講師はなんと、国立歴史民俗博物館の名誉教授で、上黒岩遺跡の研究報告という、分厚い報告書の編集者でもうひと方は小林謙一先生です。小林先生は「縄紋文化のはじまり」として、上黒岩岩陰遺跡の発掘と出土遺物から、その成果をわかりやすく解説しています。

 そもそも“女神の里帰り”ってどういうこと〜?

 講演の主題は、そのことについての究明が目的では無かったので、表記の件についての詳細については別に触れることとします。
  


 
 
 春成先生の講義は≪世界の女神像≫の表題で、プロジェクターを使っての講演で、元大学の教授の博士の講義を聞く機会などそうそうはありません。以下にレジメの1ページを引用します。



≪世界の女神像≫

 分布と年代

 旧石器時代の女性小像は、ユーラシアではマンモスの牙や泥灰岩などを打ち欠いて粗加工したあと細かく彫刻しながら研磨して仕上げている。粘土で形作り、焼成した例もある。それは、更新世の最終氷期の後期旧石器時代前半(約42,000〜26,000年前)、間をおいて後期旧石器時代末(約18,000〜14,000年前)の氷期に発達した。日本では愛媛県久万高原町上黒岩岩陰第9層(約14,500年前)から石製品、三重県菊見井尻(約14,000〜13,000年前)、滋賀県相谷熊原(約13,000年前)から土偶が出土している。縄文草創期は土器を持っているけれども、その年代はヨーロッパの後期旧石器時代松と併行する。
 ユーラシアでは女性小像は、ロシア平原(マルキナ・ゴラ)で42,000年前、ドイツ(ホーレ・フェルス)で38,000年前、フランス(ブラッサムブーイ)で35,000年前に誕生し、シベリアまで拡散した。その分布は、後期前半には北緯40〜55度の寒冷地に限られ、アフリカ、西アジア、愛美・東南アジアには広がっていない。後期末に再誕した女性小像は、上記の地方だけでなく、レヴァント日本にも現れる。北緯33〜35度に位置する日本の例は、ユーラシア起源とするには、中間地域の例が皆無であるので、疑問がある。


 女性小像の用途

 後期旧石器時代前半の女性小像は、高さは5cmから15cmほどの小型品が普通で、乳房・膨らんだ原・性器を強調しており、妊婦をあらわしているとみてよいだろう。乳房の位置は低く、上下・左右・前後対称形の紡錘体が形態的な特徴となっている。手に握りしめるのに向いた形である。
 その一方、後期旧石器時代松の例は、高さがより低い小型品で、女性の側面形を重視した形態が大きな特徴であって、ヨーロッパでは乳房や性器の表現は必須ではない。ロシア平原では、乳房の表現はないが、性器の表現だけはある。腹の膨らみがない例も多い。編年的にみると、妊婦像が記号化していった過程をたどっている。上黒岩例はここに位置している。
 上黒岩岩陰の4層(約11,000年前)から穿孔した子安貝(たからがい)が出土している。琉球では20世紀まで妊婦は子安貝を握りしめて出産していた。子安貝は女性器すなわち出産口の象徴である。ヨーロッパでも約35,000年前のアルシー・シュル・キュールやグリマルディから子安貝が見つかっている。極寒の土地で人類が生き延びていくには多産が重要な条件である。女性小像は、妊婦が出産時に手に握りしめるものであったと私は推定する。


 女性小像の意義

 旧石器時代の女性小像は、妊婦をあらわしている。マンモス牙、泥灰岩、フリント、緑色片岩などの加工、石器、骨角器の製作、狩猟を男性の仕事とすれば、女性の妊娠・出産・育児のために男性は女性小像を作り産所を作り護って協力したと考える。女性小像の製作と伝播には、狩猟や、石器の材料を得るための長距離活動をおこなう男性の行動が大きな役割をはたしたであろう。
 旧石器時代の女性小像の生成と拡散は、アフリカ起源の新人ホモ・サピエンスが北方の高緯度地方に広がっていった軌跡と一致しており、女性象徴はホモ・サピエンスが寒冷地に適応して生み出した文化的装置である。そして、産育が男女協業の集団行動の一つであったことを示している。
 
 この講義を聞いた後、改めて感心したのは『女神石』の価値でした。“縄文のヴィーナス”などとも呼ばれる女性像として有名ですが、それらの多くが土偶(一部に土板もあり)であり、小石に刻んだ女性像は発掘されていません。
 上黒岩の岩陰を利用した縄文の人たちだけが女性像を刻んだとは考えられません。しかし、先に触れた土偶とは利用目的が違っているように思います。上黒岩の女性小像の場合は、妊婦がお産の際に握りしめるために作られたものだと、推測されていますが、土偶の場合はその殆どが『意図的に壊した後、埋めたもの』がその殆どであり、祭祀などで使われたものと解されています。

 上黒岩と同様の『女神石』がどこかの遺跡から発掘されることを祈るのみです。
女神の里帰りプロジェクト2017 「久万高原の人骨」(新潟医療福祉大学:奈良貴史教授)

レジメには、以下の講師プロフィールが書かれていました。
 人類学博士(ボルドー大学)
 『ネアンデルタール人類のなぞ』『ルーシーの膝』『ヒトはなぜ難産なのか』ほか著作多数。

奈良先生の講義は、まづ、何故?上黒岩第2岩陰遺跡の発掘と関わる事となったのか?
という、事から始まりました。
それは、上黒岩岩陰遺跡から人骨が掘り出されてから半世紀を経て、
第2遺跡からも人骨が掘り出されたのが発端だったのだそうです。


 
上左の写真は、最初に掘り出された屈曲の埋葬人骨で、江戸時代との鑑定で
昨年掘り出された上右には、第2・第3に人骨で、第3人骨についても
江戸時代人との鑑定結果でした。

 
上左の第2号人骨は、『縄文人の特徴がある』との事。
今年の発掘調査に期待?
また、久万高原町の『伝説の人』の
“幽谷さん(畑の川)”と“赤鬼法性院(石墨山)”での伝説の骨も鑑定。
赤鬼法性院は、この翌日には元の場所へ返すとの事でした。