「世界の女神像」(講師 春成秀爾)講演会からの考察
 

≪愛媛のニュース≫より

「上黒岩遺跡」核に町づくり プロジェクト委発足
                      2016年02月29日(月)

 女性の姿を刻んだとされる線刻礫(せんこくれき、通称・女神石)や国内最古の埋葬犬骨が出土した愛媛県久万高原町上黒岩の国史跡「上黒岩岩陰遺跡」の整備活用を検討する実行委員会が28日設立され、美川農村環境改善センター(同町上黒岩)で初会合があった。高野宗城町長は「(遺跡活用は)町にとって重要な問題。前向きに進めていきたい」としている。
 委員会は町議や県内外の研究者ら13人で構成。「女神の里帰りプロジェクト委員会」と名称を決め、会長に高野町長、委員長に高橋末広町議会議長を選出した。
 同プロジェクトでは、同遺跡を中核とした町づくりを目的に、全国に散逸している出土資料の集約や保管体制の整備を進める。出土資料の将来的な国の重要文化財(重文)指定も視野に、教育や観光などにも生かす方針。
 同町によると、同遺跡の出土資料はこれまで重文の候補に挙がっていたが、調査報告書の発刊や学芸員の配置もされておらず指定に至らなかった。2015年までにこの2点はクリアし、現在は空調や湿度管理など資料を安全に保管できる場所の確保が課題となっている。

 上掲の案内チラシが当方に届き、11月3日の講演会に参加しました。会場の≪美川環境改善センター≫は、開演時には会場一杯の参加者で埋められました。以下に講演の要旨を載せます。
 
【世界の女神像】ー(レジメより抜粋)
 分布と年代

 (前略)
 ユーラシアでは女性小像は、ロシア平原(マルキナ・ゴラ)で42,000年前、ドイツ(ホーレ・フェルス)で35,000年前、フランス(ブラッサムブーイ)で35,000年前に誕生し、シベリアまで拡散した。その分布は、後期前半には北緯40〜55度の寒冷地に限られ、アフリカ、西アジア、南・東南アジアには広がっていない。後期末には再誕した女性小像は、上記の地方だけでなく、レブァント、日本にも現れる。北緯33〜35度に位置する日本の例は、ユーラシア起源とするには、中間地域の例が皆無であるので、疑問がある。

≪考察1 女性小像の出土は、何故、上黒岩遺跡だけなのか?≫

 上黒岩遺跡から出土された≪線刻石=女神石≫は、右図のように平らな石に刻まれた“縄文のビーナス”と呼ばれ、マスコミなどでもセンセーショナルに騒がれたのでしたが、何故か、現代日本の縄文遺跡でもさほどの関心を持たれないままに現在に至っているのです。その事は、上記≪プロジェクト委発足≫の主意にも述べられているように、町としての位置づけが少なかったことにも一因があるものと考えます。

 その事はさて置き、小生が疑問とするのは、日本各地から出土される埋葬人骨と共に出土されて当然の、線刻石が出土されていない事に違和感があります。以下に述べる通り、これらの線刻石は旧石器時代から利用されてきた事は前述の出土遺物から云えるからです。つまり、緯度の高い地域から出土されているという事実。そして、日本列島へとホモサビエンスが移動してきた時期は、その線刻石が既に代々利用されてきた経緯も見受けられるという事です。

 小生の疑問は、上記先生が持つ疑問とは違って、日本列島での出土例が無い事に限ります。何故、時代が進んだ後に同じ縄文遺跡から同様の用途である土偶(各地から出土されている“縄文のビーナス”とも呼ばれる)として出現するのだろうか・・・という事。

 ここで小生が(専門家では無いので、“たわごと”である)考え出した推論は以下の稿でも指摘されているとおり、≪土偶は、死者の埋葬の際に一緒に葬られたものであり、本線刻礫は出産時に利用されたお守り≫という利用目的の違いにある・・と考えます。

 つまり、時代が進んで線刻礫の女性小像を必要としなくなった生活様式の変化(進歩?)と、縄文文化へと進んでいった事が云えるのではないだろうか。つまり、意図的に埋葬してきた土器と出産時に利用していた線刻礫との違いが出土例の違いではないのか・・と推測するものです。
 
 
 女性小像の用途

 後期旧石器時代前半の女性小像は、高さは5pから15pほどの小型品が普通で、乳房・膨らんだ腹・性器を強調しており、妊婦をあらわしているとみてよいだろう。乳房の位置は低く、上下・左右・前後対称形の紡錘体が形態的な特徴となっている。手に握りしめるのに向いた形である。

(中略)

 上黒岩岩陰の4層(約11,000年前)から穿孔した子安貝(タカラガイ)が出土している。琉球では20世紀まで妊婦は子安貝を握りしめて出産していた。子安貝は女性器すなわち出産口の象徴である。ヨーロッパでも約35,000年前のアルシー・シュル・キュールやグリマルディから子安貝が見つかっている。酷寒の土地で人類が生き延びていくには多産が重要な条件である。女性小像は、妊婦が出産時に手に握りしめるものであったと私は推定する。
 
≪考察2 人類と生殖≫

 ねずみ算的に爆発的な勢いで増えて来た人類は、他の哺乳類や動物達との差異を生殖活動に認めることが出来るのでしょう。人類以外は、その住環境での許容以上には増殖しないのが自然の摂理なのですが、人類は住環境をも支配してきたのでした。その最初が自由に火を操る事だったのでしょう。サル等の類人猿が熱帯の地域から抜け出せなかったにも関わらず、我々の先祖は極北まで住処を移して繁殖してきたのでした。同時に、人類は環境に適応する術を身に付けながら、自らが安住出来るように自然環境をも支配してきたのでした。つまり、食物を自然から与えられるままとする動物達と違って、自分たちで食物を作り出す事が可能となったのでした。

 このように安定した食料の調達によって、環境に左右されることが少なくなった人類は、家族が増える事によるマイナス要素が無くなりました。殆どの動物たちが自然環境の変化によって生死が左右されるのとは、その差は歴然です。例えば同じ哺乳類の仲間でも、妊娠から出産までの期間に差がありますし、生まれてから独り立ちするまでの期間にも差があります。大草原の中で生まれた草食動物が、もし、人間と同様に歩き始めるのに一年もかかるとしたら、親は大変な苦労を強いられます。彼らが生まれて間もなく、時を経ず、歩き始めるのはそれなりに理に適っているのです。

 集団で生活をして、動物の嫌がる火を自由に操る事が出来る先祖、飛び道具という武器を手に入れた先祖は、やがて動物たちの頂点に君臨したのでした。そして、農耕や牧畜の開始がユーラシアからヨーロッパの地域では“新石器時代”へと進んで行った一方、日本列島では前記地域より一足前に、縄文土器の発明が後に一万年にも及んだ縄文時代へと発展していったのでしょう。見事な環境への同化です。
 
 
 
 女性小像の意義

(前略)
 旧石器時代の女性小像の生成と拡散は、アフリカ起源の新人ホモ・サピエンスが北方の高緯度地方に広がっていった軌跡と一致しており、女性象徴はホモ・サピエンスが寒冷地に適応して生み出した文化的装置である。そして、産育が男女協業の集団行動の一つであったことを示している。


【2016年11月3日、「世界の女神像」(講師 春成秀爾)講演会より
 
 
 

≪四国の夜明けは瀬戸内海から≫
 

 右に掲載したのは、「上黒岩岩陰」周辺の遺跡発掘調査についての新聞記事ですが、ここで横道にそれますが、前回の≪愛媛の古代≫で触れた瀬戸内海へとやって来た我々の祖先について触れることとします。

 既に触れたとおり、我々の祖先がナウマン象を追って瀬戸内湿原(瀬戸内海は、当時広大な盆地であった)で生活していたことは、瀬戸内の島々から発掘された遺跡や、瀬戸内海の海底からナウマン象の骨が猟師の網などによって引き上げられることからも、容易に推測されます。

 しかし、最終氷期を終え“縄文海進”を経て瀬戸内で生活していた痕跡は海の底へと沈んでしまっていることもまた云えます。たまたま現在は島となってしまった山間に、縄文人の痕跡を残す遺跡は非常に貴重なものと考えます。

 また、縄文海進以降の残された遺跡の場所は、現在の私たちの住居とはさほど変わりないものと考えられます。


 小生が改めて『縄文海進』問題を取り上げるのは、四国内の縄文遺跡を巡る謎の大半は、渡って来た旧石器時代の人々が手に入れた文化−縄文文化を手に入れた後に、瀬戸内海を海によって隔たれ、四国や島しょ部に取り残されてしまった事に始まります。

 もっとも、イノシシが海を渡って島々を行き来することに例えるまでもなく、我々の祖先とて向かいの島に渡る事は、苦労はしなかったものと考えられます。つまり、瀬戸内の人々は孤立してなかったし、四国の人々も本土との間で孤立していなかった事は明白です。つまり、縄文文化の発展には地域的交流こそが必須であったという事です。


 さて、瀬戸内に散らばる遺跡から発掘された石器に、打面調整を施した石核から規格性の高い横長の翼状剥片を連続的に剥離する技法は、瀬戸内技法と呼ばれ、この技法で作られたナイフ形石器は、国府(こう)型ナイフ形石器と呼ばれ、瀬戸内・近畿地域で数多く発見されています。

 このナイフ形石器は、後期旧石器時代(約3万5千年前から1万3千年前)を特徴付ける石器で、つまり、この後に縄文文化へと続く事となります。



 ここで小生の疑問は、縄文海進以前に四国山地の奥深くへと進んで行った我々の祖先の事にあります。

  ≪次項につづく≫