【縄文人は何を語るの?】 
 


愛媛新聞(8月28日付け)
 
 今回取り上げるのは、小生が縄文人に興味を持つ切っ掛けとなった上黒岩岩陰遺跡のキャンプ地と云われて発掘調査中の第2岩陰遺跡の説明会へ出掛けたのが契機となった。(上記、現地説明会の様子が載っている記事に相棒も写っている)
今回の発掘調査については、8月28日で一旦終わるとの事だった。

 昨年発掘された人骨については、愛媛新聞(8月24日付け)によると西暦1600年前後という事だったが、今年も新たに3体が発掘されたとの事だった。内一体は出産を経験した成人女性との事だった。まだ発掘作業は終わっていなくて、発掘現場は非常にリアルな状況だった。
 


≪愛媛新聞 8/24≫
 
≪縄文遺跡群の世界遺産登録への取り組みについて≫
 縄文遺跡群が数多く発掘されている北海道・北東北の世界遺産登録を目指して運動している。これは、北海道・青森県・秋田県・岩手県の4道県による取り組みで、文化庁などと連携しての取り組みの模様なども以下にWEBで公開されている。  くわしくは、コチラから 
 何故?北海道と東北3県のみの取り組みなのかは判らないが、以下に小生が問題提起するために引用するのは、文化庁のホームページからである。少々長くなるが以下に“埋蔵文化財”について引用。

埋蔵文化財とは

 埋蔵文化財とは,土地に埋蔵されている文化財(主に遺跡といわれている場所)のことです。埋蔵文化財の存在が知られている土地(周知の埋蔵文化財包蔵地)は全国で約46万カ所あり,毎年9千件程度の発掘調査が行われています。


埋蔵文化財と文化財保護法

 文化財保護法では,周知の埋蔵文化財包蔵地において土木工事などの開発事業を行う場合には,都道府県・政令指定都市等の教育委員会に事前の届出等(文化財保護法93・94条)を,また新たに遺跡を発見した場合にも届出等を行うよう求めています(同法96・97条)。出土した遺物(出土品)は所有者が明らかな場合を除き,発見者が所管の警察署長へ提出することになっています(同法100条)。
 土木工事等の開発事業の届出等があった場合,都道府県・政令指定都市等の教育委員会はその取り扱い方法を決めます。そして協議の結果,やむをえず遺跡を現状のまま保存できない場合には事前に発掘調査を行って遺跡の記録を残し(記録保存),その経費については開発事業者に協力を求めています(事業者負担)。ただし,個人が営利目的ではなく行う住宅建設等,事業者に調査経費の負担を求めることが適当でないと考えられる場合には,国庫補助等,公費により実施される制度があります。


出土品の取り扱い

 出土品については所管の警察署長に提出する必要があり,これが文化財らしいと認められる場合,都道府県・政令指定都市及び中核市の教育委員会が文化財であるかどうかの鑑査を行います。文化財であると認められたもので所有者が判明しないものは,原則として都道府県に帰属されます。


埋蔵文化財の公開

 埋蔵文化財は貴重な国民の共有財産です。大切に保存するとともに,できるだけ公開するなど活用に努める必要があります。現在,埋蔵文化財の発掘調査成果を公開する事業が,全国各地で行われています。文化庁では平成7年度から毎年,全国で話題を集めた発掘調査成果を広く集めて展示し,全国を巡回する「発掘された日本列島―新発見考古速報展―」展を開催しています。


埋蔵文化財を守るために

 近年,社会の変化を受けて埋蔵文化財への期待が高まる一方,開発や宅地化の進行を受け,全国で年間9千件程度の発掘調査が行われています。そのような状況において,適切かつ円滑な発掘調査や,発掘された遺跡や出土品の有効的な保存・活用を行うために,埋蔵文化財全体を守る枠組みが必要です。そこで文化庁では,平成6年に「埋蔵文化財発掘調査体制等の整備充実に関する調査研究委員会」を設置し,埋蔵文化財に関する諸問題を検討し,その結果を報告してきました。これらの成果をもとに,各地方公共団体において,埋蔵文化財を保存・活用していく取り組みを行っています。



 さて、この埋蔵文化物財を取り仕切っているのが文化庁であり、実際に発掘作業を取り仕切っている行政が市町村の教育委員会だという事である。しかし、国の行政機関である文化庁から各種法令や通達が県へ降ろされ、該当の市の調査により実際に発掘を行うのが、各大学などにある考古学研究室などによる発掘調査だという事です。実際、上記、上黒岩第2岩陰遺跡の発掘を担当しているのが、中央大、島根大の合同チームとなっていた。

 この事について「何故?愛媛県などが主導していないのか?」と、シロートの質問を発掘担当者にすると「県の“遺跡博物館”などに発掘物を持って行かれるから・・」との意外な答が返って来た。「なに、それ〜」である。何故、共有の財産にならないのか?


≪行政とは、何をするところなのか?≫
 行政改革などと声高に云われ、問題点を税金の取り方や使い方ばかりに目を向ける傾向が現代日本にはある。一昔前には“第二臨調”という名で、「三公社」の民営化による政府による金儲けが行われ、それに味を占めた政府は、先ごろには、郵政の民営化を強硬した。本当に行政の改革が必要なのは、そんな事だったのだろうか。安直な民営化で潤ったのは国民だったのだろうか?

 税金(国民の血税)で還元されるのは、医療や福祉であり、豊かな文化生活なのではないだろうか?市町村にその任を任せるのなら、県や国の機関は後押しをし、手を差し伸べて当然と考える。勿論、場合によっては財政的支援もされて当然と考えるが、如何か?

 「昨年、久万高原町に着任された学芸員さんが頑張っていますから」と、チームの発掘担当者の大学の研究員の方が云っていたが、そんなお粗末な体制で良いのだろうか?丁度、久万高原町の町長選挙の最中(8月23日〜28日)の現地説明会だった。なんとも前述の“世界遺産登録”を目指している北海道・北東北の取り組みとの差異を感じるのだ。教授は「上黒岩岩陰遺跡は、国宝級ですよ。まぁ〜、あちらを東京と例えるなら、こちらは松山ぐらいの位置付けでしょうか」とも云われた。



 尚、上記に関連する動きとして文化庁は『埋蔵文化財発掘調査体制等の整備充実に関する調査研究委員会』(平成26年10月31日)から、『適正な埋蔵文化財行政を担う体制等の構築について』(報告)、―これからの埋蔵文化財保護行政に求められる体制―という文書が出ています。  くわしくは、コチラから 
 


≪時代区分表と出来事≫
 
 さて、上掲の時代区分表を参考に引用したのは、上黒岩岩陰遺跡の位置がはっきりするものと、掲げました。上黒岩は、右の蘭の縄文遺跡群には記させていませんが、縄文草創期に区分される事は間違いありません。尤も、上黒岩は岩陰遺跡なので、“定住”や“ムラ”という遺跡群には該当しませんし、この区分表は前述の北海道・北東北の縄文遺跡群のサイトより拝借した図ですので仕方ありません。ここで、わざわざ“出来事”を書き出したのは、縄文土器の出現が他の文明(世界四大文明とも云われる)が出現する遥か以前に始まっている事。そして、縄文文化(狩猟採集の生活様式)が続く間に他の地域では稲作などの農耕を始めとした定住生活が、以降の人類の文明の進歩へと繋がってきたものと思われます。

 さて、日本列島に稲作文化が入ってくるのは、ず〜っと後の事となります。しかし、最近の発掘からは、水田による稲作という方法とは違って、陸稲(熱帯ジャポニカ)など穀物の栽培は行われていたものと推測されています。また、貝塚などの出土により、縄文草創期には定住生活が始まっていたと推測されます。


 さて、先に述べた四大文明の出現はBC4000年〜BC2600年と云われています。これらに共通しているのは、大河の河口域の肥沃な土地に栄えたのでした。それまでの石器時代の狩猟生活から定住の生活へと移ることとなりました。その事によって、農耕や牧畜で豊かな生活が可能となったものと思われます。

 しかし我々の祖先の縄文人はこれら四大文明が発祥する遥か以前に、世界最古とも云える土器を日本列島の各地に普及し、四大文明に先んじて文明が花咲く素地が出来ていたのです。が、残念ながら狩猟採集の生活は1万年にも及んだのでした。この日本列島と、四大文明との差は、小生の独断で(何ら根拠は無い)云うと、自然環境の違いであり、何よりも他文化との交流の有無=当時では物々交換が盛んに行われ、ある地方の特産品が他の地方で重宝がられ、その事が文明の進歩及び拡散に繋がったのでは無いかと考えます。ちなみに、縄文の船の最古級は7,500年前と云われ、6,400〜6,800年前には、大陸との交流があったものと推測されています。

 日本列島は大陸の端っこに位置し、火山・地震そして、季節によっては台風の襲来、夏は暑く冬は寒い。そして、春から夏に掛けては雨が多い土地柄でもある。北海道から九州まで陸地の中央には、太平洋や日本海から急激に2000m〜3000mに達する山々が聳える急峻な地形なのです。天変地変から己の身や大切な家族を守らざるを得ないが、その一方で四季を通じて豊富な自然からの恵みを得る事が可能だった。ましてや、すぐ先には豊かな海が広がっていた。そして、海を渡っての交流が可能になると、交易が始まり、当然の事だが青銅器や鉄器を手に入れることとなる。しかしこれは随分と後のこととなるのです。


≪何故私たちの祖先は“縄文人”に成り得たのか?≫
 ≪その1 地球環境の変化≫
 アフリカ大陸で生まれた我々の祖先は、アフリカを出て東へ北へと移動して行った。それは、食料を求めて、又、住みやすい住環境を求めて移動(下図参照)したに違いありません。この大移動の時期(5万年〜1万5000年前)の地球は現代との地理とは大分違っています。日本列島は大陸の端に位置し、アメリカ大陸の北端(現在のアラスカ)もユーラシア大陸と繋がっていたと考えられています。そして、最終氷期が終わる1万年前には大凡、現在の地球の大陸と海の状況となったものと思われます。

 ≪その2 大陸から切り離された日本列島≫
 最終氷期が終わることとなって、日本列島に取り残された先人はユーラシア大陸との交流も閉ざされることとなりました。アメリカ大陸やオーストラリア大陸、また、スマトラやフィリピンやニューギニアの島々とともに、日本列島も例外ではありません。これらの島々では上述の四大文明の恩恵を受けないままに15世紀半ばから始まった“大航海時代”の洗礼を受ける事となったのです。そのあたりの先住民と“文明人”との関わりについては別稿で述べていますので、そちらを参照願います。

 さて、私たちの祖先の縄文人は日本列島という過酷な自然の中での生存を強いられてしまったのでした。一方、文明の進歩については、交易が困難な土地柄だったことが≪一万年に及ぶ縄文時代≫が続く第一の要因として挙げられます。前述の“取り残された人々”の集団は、総じて独自の文化を受け継いできたものの、四大文明の恩恵からは、長い間見放されてしまったのです。勿論、縄文人も例外では無かったのですが、他の島々やアメリカ大陸と違って、大陸から近くで独自の文化の持つ縄文人は大陸からの稲作(温帯ジャポニカ)と後に弥生人と呼ばれる、大陸からの人々との交流で発展を遂げる事となったのです。
 

≪アフリカを出た後の、祖先の足取り≫
 

≪愛媛新聞 8/23≫
 
≪付記:埋葬犬骨の発見≫

 上掲の新聞記事は不定期で掲載されている「上黒岩岩陰遺跡」最新報告として、“活用への道すじ”として、佐藤教授が執筆している記事です。記事の内容は『1962年に久万高原町の上黒岩岩陰から出土した国内最古の埋葬犬骨群である』として、長い間、行方不明となっていた犬骨が見つかった事です。

 これらの犬骨は、7,400〜7,200年前の縄文早期中葉との測定結果だそうです。人間と犬との関係は、ただただ愛玩(ペット)としての猫とは違って、生きていくための食料調達に必需の猟犬として共に家族同様の生活をしていたのでした。この頃には、ナウマン象などは絶滅していて、鹿や猪などの小型の動物の狩猟に活躍していたものと思われます。