【縄文人とDNA】 
 

 国立研究大学院大学発表の【2016.09.01 プレスリリース】からの転載。
 
 
プレスリリース概要

『縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定〜
東ユーラシア人の中で最初に分岐したのは縄文人だった〜』


【研究概要】

 国立遺伝学研究所集団遺伝研究部門および総合研究大学院大学遺伝学専攻の斎藤成也教授らのグループは、福島県北部にある三貫地貝塚から出土した縄文時代人(縄文人)の歯髄からDNAを抽出して、核ゲノムの一部を解読することに成功しました。
 これまで縄文人のDNAについては、ミトコンドリアDNAの情報しか得られていませんでした。今回、ミトコンドリアDNAの数千倍にあたる核ゲノムのDNA配列1億1,500万塩基対を決定しました。このゲノム情報を、現代日本列島人と比較解析したところ、縄文人はアイヌ人にもっとも近く、ついでオキナワ人、そしてヤマト人(アイヌ人とオキナワ人を除く日本列島人)に近縁であることが明らかになりました。さらに、縄文人は、現代人の祖先がアフリカから東ユーラシア(東アジアと東南アジア)に移り住んだ頃、もっとも早く分岐した古い系統であること、そして、現代の本土日本人に伝えられた縄文人ゲノムの割合は15%程度であることが明らかになりました。
 今回、縄文人の核ゲノムの一部が解読されたことによって、縄文人が現代の東アジア人と比べて遺伝的に特異な集団
(考察1)であったことが明らかとなりました。今後、縄文人ゲノムデータを充実させ、それらを比較解析することによって、縄文人のたどった進化史が明らかになり、日本列島人の起源と成立を知ることにつながると期待されます。

この研究成果は、Journal of Human Genetics(Online版)に掲載されます。

【詳細研究内容】
研究背景

 現代に生きる私達は、祖先から伝えられたDNAを持っているので、現代人のDNAを調べても過去の人々についてある程度推測することができます。しかし、過去に生きていた人々のDNAを直接調べることができれば、これはすばらしい証拠になります。このようなDNAを「古代DNA」と呼びます。技術的な制約があるので、これまではもっぱらミトコンドリアDNAの塩基配列を調べることが行なわれてきましたが、現在では、数万年以上前までさかのぼって、いろいろな年代に生きていた人々の骨や歯の中に微量に残っていたDNAから、ミトコンドリアDNAや核ゲノムのDNA配列が、次々に決定されています。

 日本では、1991年に国立遺伝学研究所の宝来聰らが、埼玉県で発見された縄文人の頭骨からミトコンドリアDNAを抽出し、塩基配列の一部分を決定したのがはじめての成果でした。その後、東京大学理学部の植田信太郎らが弥生人のミトコンドリアDNAゲノムの塩基配列を一部分決定しました。縄文人については、国立科学博物館人類研究部の篠田謙一、山梨大学医学部の安達登、北海道大学理学部の増田驤黷轤ェ、関東、東北、北海道の各地で出土した縄文人の骨や歯からDNAを抽出し、ミトコンドリアDNAのハプロタイプを決定しました。斎藤研究室でも、総合研究大学院大学生命科学研究科遺伝学専攻の博士課程の学生だった神澤秀明(現在国立科学博物館人類研究部)が、古代DNAの解析を行ないました。福島県の北部海岸地方にある、約3000年前まで続いた三貫地貝塚から、1950年代に大量の人骨が発見され、それらが東京大学総合研究博物館に保管されています。これら縄文人4名の歯からDNAを抽出し、その微量なDNAからミトコンドリアDNAの系統(ハプロタイプ)を推定しました。その結果、N9bとM7a2という、縄文人に高い頻度で見つかっている系統を、それぞれ2名ずつが持っていました(論文1に既発表)。私達は、福島県三貫地貝塚の縄文人から抽出したDNAを用いて、次に核DNAのゲノム配列の一部分を決定しました。

註:上の文章は『日本列島人の歴史』(斎藤成也著、2015年、岩波ジュニア新書)の一部をもとにした。
研究結果・考察

 福島県三貫地貝塚の縄文人の大臼歯(奥歯)から抽出したDNAの塩基配列を、次世代シークエンサーで大量に決定しました。コンピュータ解析により、その大部分はバクテリアなどヒト以外の配列でしたが、数%はヒト由来のものでした。これらヒト由来の塩基配列だけを以下の解析では用いました。古代DNAなので、200塩基弱と短く、大部分は40-180塩基の長さにおさまっています。また、古代DNA特有の死後の塩基変化や、両端の塩基がプリンである場合なくなることを統計的にチェックして、たしかに大部分の塩基配列が古代DNAであろうと確認しました。一方、現代人のDNAが混入しているかどうかを、ミトコンドリアDNAの配列を大量に決定して調べたところ、サンプルA2の場合、現代人のDNAが11%程度混入している可能性があったのに対して、他の2サンプル(A1とB)では6%以下の混入が予想されただけでした。これら2サンプルは異なる個体からのものですが、同一遺跡の同一時代(3000年前;炭素14年代推定による)から出土し、ミトコンドリアDNAのハプロタイプも同一 (N9b)だったので、これら2サンプルの塩基配列を合体した1億1500万塩基を三貫地縄文人のデータとして、以下の解析に用いました。

 三貫地縄文人のゲノム塩基配列を現代人のゲノムデータと主成分分析法*を用いて比較したところ、大きくアフリカ人、西ユーラシア人、東ユーラシア人にわかれるなかで、三貫地縄文人は東ユーラシア人にもっとも近く位置しました。そこで、三貫地縄文人と東ユーラシア人だけで比較したところ、図1のようになりました。ヤマト人(東京周辺に居住している日本人)が三貫地縄文人と北京周辺の中国人にはさまれた位置にあり、ヤマト人はこれら2集団のあいだの混血(考察2)であることが示唆されます。


図1:三貫地縄文人(赤点)と他の人類集団ゲノムデータとの遺伝的近縁関係を主成分分析(PCA)でしめしたもの
(今回の論文の Figure 1b) クレジット:総研大・国立遺伝学研究所
 つぎに三貫地縄文人のゲノム塩基配列を東ユーラシアのさまざまな人類集団の全ゲノムSNPデータと比較したところ、ここでもヤマト人は、縄文人と東アジア北方の集団との中間に位置していました。さらに、日本列島3集団および北京の中国人と比較した場合、第1主成分(全体の遺伝的多様性をもっとも大きく示す軸)では、三貫地縄文人はアイヌ人ともっと近く、そのあとはオキナワ人、ヤマト人、中国人(北京在住者)の順となります。一方第2主成分(全体の遺伝的多様性を二番目に大きく示す軸であり、第1主成分とは数学的に独立)でみると、三貫地縄文人はむしろオキナワ人やヤマト人に近くなっています。これは、アイヌ人がもっとも縄文人のゲノムを多く持っているが、おそらく北方人類集団との混血を経ており、オキナワ人はアイヌ人より縄文人のゲノムを少なく持っており、ヤマト人はさらに少ない割合だが、縄文人のゲノムがそれなりに伝わっていると推定したわれわれの以前の研究(論文2,論文3)と一致しています。.

 次に、三貫地縄文人と対立遺伝子を共有している割合を、いろいろな集団で比較しました(図2)。第1主成分の結果と同様に、アイヌ人、オキナワ人、ヤマト人、中国人(北京在住)の順で三貫地縄文人との遺伝子の共有度が低くなっています。三貫地縄文人ともっとも遺伝子の共有度が高いのは日本人(ヤマト人)であり、他の東ユーラシア人は、北方でも南方でも同じ程度の共有度をしめしています。興味深いことに、南米先住民も他の東ユーラシア人とほぼ同程度となっていますが、オセアニア人は、もっと低い値です。


(図2:三貫地縄文人と他の人類集団SNPデータとの対立遺伝子共有度をしめしたもの(今回の論文の Figure 3)
クレジット:総研大・国立遺伝学研究所
 三貫地縄文人が現代人の進化的多様性の中でどこに位置するのかを推定するために、系統樹を作成しました(図3)。ここでは、東ユーラシアの現代人5集団、西ユーラシアの現代人5集団、パプアニューギニア人、南米先住民、アフリカの現代人2集団のほかに、シベリアの古代人2個体とデニソワ人も加えました。その結果、東ユーラシアの現代人5集団がひとつのグループにまとまり、それらの共通祖先集団と南米の先住民がまとまったあとに、三貫地縄文人、パプアニューギニア人、シベリアの古代人1がこの順でグループに加わっていました。これらの関係は、いずれも統計的に高い信頼性(ブーツストラップ確率*)が与えられており、三貫地縄文人の祖先集団が、新大陸に人類が渡っていったとされる15000年ほど前よりも以前に分岐した、きわめて古い系統であることを物語っています。また、縄文人の系統からヤマト人(JPT)への混血があったことも推定されました。.(考察4)


図3:三貫地縄文人と他の人類集団との系統樹 赤色数字は系統樹の枝の信頼性をしめすブーツストラップ確率を、
矢印は混血をあらわす(今回の論文の Figure 4) クレジット:総研大・国立遺伝学研究所
 同様の系統関係は、混血を考えない系統樹でも示されました。また、混血の結果もある程度反映される系統ネットワークでも、線Xによって三貫地縄文人とヤマト人(JPT)が多集団と分けられることから、両者のあいだに遺伝的な共通性があること、また線Yによって東ユーラシアの現代人5集団と南米先住民に遺伝的共通性があることが示されています。
 三貫地縄文人と他集団との混血については、別の方法でもっとくわしく解析し、現代日本人だけが混血したという結果を得ました。.


論文1:Kanzawa-Kiriyama H., Saso A., Suwa G., and Saitou N. (2013) Ancient mitochondrial DNA sequences of Jomon teeth samples from Sanganji, Tohoku district, japan. Anthropological Science, vol. 121, no. 2, pp. 89-103.

論文2:Japanese Archipelago Human Population Genetics Consortium. (2012) The history of human populations in the Japanese Archipelago inferred from genome-wide SNP data with a special reference to the Ainu and the Ryukyuan populations. Journal of Human Genetics, Vol. 57, pp. 787?795.

論文3:Jinam A. T., Kanzawa-Kiriyama H., Inoue I., Tokunaga K., Omoto K. & Saitou N. (2015) Unique characteristics of the Ainu population in Northern Japan. J. Hum. Genet. 60, 565?571 (2015).
研究の発展性と波及効果

 今回発表される論文は、日本列島における古代人の核ゲノム塩基配列を決定した最初のものですが、すでに神澤らは他のいくつかの縄文時代の遺跡からの出土人骨からDNAを抽出し、今回の三貫地貝塚縄文人から得られたゲノムDNA配列よりもはるかに多いゲノムDNA配列を得ています。このようなデータをもとにして、縄文人の日本列島における多様性と他の集団との系統関係・混血パターンがさらに明らかになってゆくことが期待されます。古代人は縄文人にはとどまらず、日本列島中央部でいえば、縄文時代より古い旧石器時代、弥生時代、古墳時代、それ以降の歴史時代に相当する時代についても、数多くの人骨が日本列島から発見されています。これら古代人のゲノム配列を決定することによって、日本列島およびその周辺において、人々が移動や混血を繰り返してきた有様が解明できると期待しています。

≪以下略≫
 
 
 

≪考察1 『縄文人が現代の東アジア人と比べて遺伝的に特異な集団』という表現について≫

 まず、今回のニュースリリースは、“三貫地貝塚で発掘された約3千年前の人骨”から得られたDNA結果を基にしている点です。ここで比べるのは、縄文人と直接の子孫であり、唯一DNAを引き継いでいる日本人であり、また、縄文人と同世代の東アジア人では無いのでしょうか?つまり、比較すべきは同年代の集団であり、同集団の異年代での比較とすべきでしょう。
 しかしながら、今回発表の≪核ゲノムDNA≫での比較で、入手困難なDNAでの比較が出来ないのは仕方がないでしょう。前述の“遺伝的に特異”なのは、東アジア人に比して日本人のDNAが縄文人のDNAを受け継いで“特異な集団”として位置している点ではないでしょうか。ちなみに、縄文人の祖先と東アジア人の祖先とは、殆んど違わないDNAだった筈だと考えます。

 そして、縄文人が“遺伝的に特異”な集団と成り得たのは、各地に散らばった旧石器人の中で『唯一、日本列島に取り残された旧石器人が如何にして縄文人へと進化しえたのか?』という命題が解明された際ではないのだろうか。これこそが、旧石器人(人類の共通の祖先であるだろう)が縄文人と成り得たのが唯一、日本列島に住む=我々の先祖のみだった事の謎の解明へと繋がると考えるのです。

 

≪考察2 『混血』からこそ進化が生まれる≫

 アフリカ大陸から出発した我々の祖先は、長い旅の間に様々な場所で様々な気候風土の変遷に遭遇せざるを得ませんでした。その旅の間には、地球規模の環境変化にも対応せざるを得なかったに違いありません。今まで出合ったことも無かったような砂漠地帯や、ジャングルの先に立ちはだかる峰々にも出合っただろうし、前史で辿った恐竜などと同様、人類も狩猟をしながら移動していたに相違ないでしょう。

 やがて、東ユーラシアへと向かう集団とは別れて現在のヨーロッパへと移動する人達は、明らかに猿などとは違って人類と同様の外見を持つ“ネアンデルタール人”に出合って驚いた事は安易に察せられます。近年の研究成果では、現在の人類にもネアンデルタール人のDNAが混入していると発表されています。そんな事実が明らかになると、“白い肌”や“金髪”や“青い瞳”などなどの“白人特有の変異”などの説明が容易に納得できます。勿論、これらの身体的特徴は環境に適応するための変異との見解もあるのですが、それらが“黒”くては環境に適応出来ないのかの納得出来る説明は聞きません。これらの色の違いは『単に色素の違い』だけではないのでしょうか。飼っていた親猫から生まれた子猫が親猫と違って、片方の眼だけがブルーで生まれてきた事に驚くのも、ず〜と先祖のDNA由来だろう事で容易に納得出来るのです。これらの変異は動植物を問わず、全ての生き物に共通しているものでしょう。

 さて、それぞれの環境に適応するように変異を繰り返してきた祖先は、先例の如く、異なる文明間とも交流を繰り返してきた歴史があります。4大文明と呼ばれる文明は特に有名ですが、それらに先んじて独自に発展していた我々の祖先の縄文文明こそ特筆すべきことです。

 

≪考察3 『最古級』と呼ぶことで何が生まれるのか?≫

 近頃のニュースでやたら『世界最古のつり針を発掘』とか、『縄文最古級の埋葬人骨の発見』とか、やたらと“最古”と呼ぶことが何を意味しているのかが判らない論調のマスコミのセンセーショナルな見出しに接します。

 まず“サキタリ洞窟で発見された23,000年前のつり針”について。旧石器人が漁具を造り狩猟をする事となるのは、既に歴史が物語っていることでもあります。“発見されない最古のつり針”は、永遠に発見されることはありません。様々な遺物から推測出来るのは『何時から何時の時代に、何処から何処までの地域で同様の文化様式が採られていた』などの一致性や不一致の発見こそ大切だと考えます。

 次の“居家似岩陰遺跡で発掘された縄文最古級の埋葬人骨”については、似たような時期の埋葬人骨は、既に日本列島でも何ヶ所かで発掘されています。私たちが知りたいのは『埋葬している人骨と、埋葬で無い人骨の違い』・・・そこに決定的に作用したのは何なのか?最期を看取った家族が、死人を埋葬することとなった精神作用を知りたいものです。余談ですが、歴史が進むにつれて宗教らしきものが現れ、古墳という巨大な墓が出現します。時代が下がり、文化的な交流が無かったと思われる世界各地の他の文明も同様に古墳と云われる巨大な墓が出現するのは何故なのでしょう。そして、そのそれぞれの文明に動物で云う“なわばり”という領(国家)が形作られて“王”と呼ばれる絶対領主が現れる事となります。


 
 
 

≪アフリカを出た後の、祖先の足取り≫
 
 
≪考察4 既知の推論は妥当だった≫

 上図は、先にも掲載した“祖先の移動ルート”です。図の中で大陸の移動については、4万年前に移動し終わっていますがユーラシア大陸からアメリカ大陸の移動は少し遅れて1万5,000年前頃と推測されています。これは、最終氷期の時期とも関連するものとも思われます。小生が驚くのは、人類が生まれるずっと前の事、6,500万年前に絶滅した恐竜の事です。2億年に渡り地球上で絶対王者として君臨していた恐竜。その恐竜界に君臨したティラノサウルスも、ユーラシア大陸からアメリカ大陸へと移動して進化して生まれたと推測されています。我々の祖先は1億年前に恐竜の造った足跡を追って、アメリカ大陸へと渡ったのではないでしょうが、この人類の足跡を発見した際には先人はさぞ驚いた事でしょう。

 さて、各大陸間の移動と違って、太平洋上へと移った先人が3,000年前以降となるのは、仕方ありません。大海原へと漕ぎ出すには、頑丈で大きな船の出現を待たざるを得なかったと推測されます。これは、空を飛ぶことも、海を潜る事も出来ない大多数の哺乳類の宿命とも云えます。
 
 
 
≪おまけの猿楽遺跡≫


愛媛新聞(2016年9月14日付け)
 
 今回は、『上黒岩岩陰遺跡』と同じ久万高原町で発掘されている『猿楽遺跡』の現地説明会(9月17日)に参加しました。愛媛大学の柴田准教授らの発掘調査中の遺跡で、高知や徳島からの若者も発掘調査に集まっているようでした。発掘された遺物からは、弥生時代の出土品であるとの推測のようでしたが『この場所がどういう遺跡なのかは未だ不明』とのことで、『幾つかの仮設を立てて発掘調査を行っていく』との説明でした。

 尚、新聞記事の『西日本で最も高い地点に立地する弥生集落』という表現は正確ではなく“この場所が集落跡か、畑を耕作していたのか、はたまた水田を耕作していたのか、物流の交差点(土佐や太平洋とを結ぶ)なのかは未だ確定されない”ので、引き続いて発掘調査を行う必要があるとの説明でした。洞窟や岩陰でもない、山中の(それも1,000mを超える)林間(現在は植林されている)に突如、集落が顕れるのでしょうか?

 一つのヒントとしては、この場所が≪旧土佐街道≫の道脇であり、その街道脇の何か所かからも遺物が発掘されているという点です。このような山越えの旧街道は、磁石や地図を持たない古の先人たちが辿れるのは“いつの時代からか、歩き継がれてきた踏み跡”を辿っていたものが街道として残されていたものと考えられます。そう考えるなら、交易路としての季節宿などとして“人が集まる場所としての跡”の説が最も自然な考えだとも云えます。

≪猿楽考≫

 猿楽という地名は全国各地にあります。また、この地名が付く遺跡もまた全国で発掘されているのは偶然の事なのでしょうか。地名通りにこの石舞台(猿楽石)で猿楽が奉じられていて、小生が訪れた一昔前に、この舞台の片隅に咲いていた“絶滅危惧種”の貴重な花(今は無い)も猿楽を見ていたと考えると、ロマンが拡がります。由緒ある地名は“つづらがわ(現在は黒藤川と呼ぶが、集落を流れる川の名は前川と呼ぶ)”沿いにある集落の“とろめき”や“うつぎょう”や“よらきれ”と云う、漢字では当てはまらない地名とともに謎が深まりますが、この辺りの疑問は国文学者や民族学者に任せるとしましょう。