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前回の縄文遺跡は≪岩陰遺跡 上黒岩遺跡≫を訪問しての考察だったが、これに勢いがついて西予市(旧城川町)の遺跡≪穴神洞穴遺跡≫を巡ったのだ。
ここで、縄文文化が始まる前の時代を考察し、改めて縄文人を見てみることとする。
縄文時代と呼ばれる時代は世界史的には≪石器時代≫と呼ばれていた。その時期が始まる時期、下掲の図は最終氷期が終わる時期の日本列島だが、この後、5千年(学者により数千年の違いがある)を経て日本列島が大陸と隔離されることとなる。氷河期が終わってからも、暫くは瀬戸内海は存在しなかったとも云われているが、縄文遺跡は沖縄などの南西諸島を除いて日本全国で発掘されている。
また、縄文時代の次に来る弥生時代以降の時代についても、北海道や沖縄はその時代区分を本土とは異にしている。それは、江戸時代まで続くのだった。そして沖縄は、琉球と呼ばれていた時代を経て江戸初期に薩摩藩の支配下に置かれたのだった。しかし、北海道との決定的な違いは温暖な沖縄には、大陸や南方の島々から、はたまた、日本本土から木造船で容易に辿り着けたことに比して、北海道へと北方ロシアが北海道まで南下してきたのは、時代が明治と呼ばれるようになる少し前の事(日露和親条約【1855年】)であった。よって後に述べるように、北海道だけ時代の変遷から取り残されることとなった。
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≪縄文の謎 その1 言語について≫
旧石器と呼ばれる時代にナウマン象などを追って、現在の日本列島に到達した先祖は、氷河期の終焉の後、海を覆っていた氷河も融けてしまった事により、後に日本と呼ばれる島々に取り残されてしまった。その頃から言語は話されていたと思われるが、どういう言葉が話されていたかは、今となっては推し量ることも出来ない。しかし、他の動物たちが危険から身を守る為に鳴き声で知らせるだけとは違って、このころから言語を持っていたと推測出来るのは、集団で大型動物を捕獲する為にはお互いに意思を通わせる必要があると考えるからだ。道具を使い、火を扱う事を知った私たちの祖先が言語を使って意思疎通をする事になるのは、石器時代の流浪時代から定住生活を迎えた後であろう事は、世界中の各地域によって異なる言語を持つ事が物語っているのだろう。
文化の発展に伴い言語が発達するのは当然で、電気も原子力も無かった時代には、それを表す言葉など存在しないのは自明の事である。よって、話される言語は現在ほど多くはなかっただろう。そして、その文化の発展の一助である食生活は、狩猟・採集の社会生活と、はたまた大陸とは違うそれらを取り巻く自然環境が挙げられる。少し本題からは逸れるが、“おやじ”は兎も角として≪地震・雷・火事≫を恐れていたのは、日本人の居住環境と大自然との関わりから解る。そのどれもが避ける準備が出来ない。台風銀座の日本で、先の“謂れ”から台風が除かれているのは、雨風を凌いでさえいれば、やがて、過ぎ去る事が出来る事を体験してきたからだろう。また、台風(語源はギリシャ神話、ペルシャ語、中国語などの諸説がある)や津波という言葉が世界の共通語として使用されている事は広く知れ渡っているのである。
さて、本題の言語についてである。日本語ほど他の言語の影響を受けていない言語は無いのではなかろうか。それは、陸路で簡単に近付けなかった島国でありながら、独自に発達した文化を持つ特殊な国であった事、人類が新大陸を発見して地球上を大航海する時代に、日本は群雄割拠の戦国の世から統一され、当時の政府が鎖国政策を採用したこととも関連するのだろう。ヨーロッパの列強が世界進出を始めた後も、それらの国々の支配下に置かれなかった特殊な文明を持った我国は世界中を見渡しても特異な存在だったとも云えるのである。
一時期、出土された際に≪世界で最古の土器≫と騒がれた縄文土器を作り出した先祖は、他の地域との交流など無かった時代であろう。それは、過酷な自然環境から自分たちを守る為にはお互いに協力する必要があったのだ。そして、一万年に及んだ縄文時代は大陸からの渡来人が伝えた新たな文化は九州から北上する事となったが、気候的条件なのか地理的条件なのか、北海道には稲作の水田文化が浸透しなかった。しかし、弥生文化以前の豊かな森での生活から、平野部の肥沃な土地での農耕作業へと移ってきてからの生活は、皮肉にも、新たに抑圧者(リーダーとは違う)と被抑圧者を作り出したのだった。
一方、弥生文化が浸透しないまま時を経た北海道には、独自の文化が残った。そして、言語の統一や発達からも隔絶することとなった。また、次項で述べるが文字の伝達も無かったのだった。その隔絶された時代が、北海道に先住し取り残されたアイヌと呼ばれる独自の文化や生活様式、言語を形成したのだった。
また一方、沖縄では地理的条件から、北海道とは違って、近世になってからは大陸からの影響も受けるのである。長い間本土と隔絶されていた北海道と違って、本土との影響を受けながらも沖縄は独自の琉球文化を発展させていたのである。
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≪縄文の謎 その2 縄文土器≫
さて、縄文の時代の土器には当時の生活様式が残されている。それでは何故、縄文人は土器を作ったのか?
それは主に食料を煮たり、あるいは貯蔵するために用いられたと考えられる。その理由としては、以下の考察が有力とされている。縄文土器が出現した時代は、大型哺乳類が日本列島で絶滅した時期と重なるため、木の実へと変更する事を余儀なくされたと考えられる。森が広がる日本列島の木の実の多くは収穫時期が限られるために、貯蔵する必要が生じた。また食べるためには加熱処理が必要な木の実も多く、獣肉や魚介類のように直火で炙るのは困難であるため、加熱するには調理器具としての土器が必要となった。またドングリやトチノミは食べるためには渋抜きをする必要があり、そのため灰が必要であったと思われる。灰を得るために大量の草木を燃やした事が、土器製法の発見につながった。あるいは土器を製作する際に生まれた灰から、ドングリやトチノミを渋抜きする方法が発見されたと考えられる。土器の製法と渋抜きの方法のどちらが先に発見されたかは不明だが、日本列島において世界的に見て最初期に土器が普及したのは、こうした事情によると推測される。
日本で発掘されている最古の土器は大平山元遺跡や後野遺跡(うしろの)・寺尾遺跡などから出土した文様のない無文土器であり、大平山元I遺跡から発見された土器の年代測定の算定は16,500年前(暦年較正年代法による)とされている。また、上黒岩遺跡の第9層から細隆起線文土器、第6層から薄手の無文土器、第4層から押型文土器と厚手の無文土器が出土している。その中でも細隆起線文土器は約1万2000年前のもので、日本最古級の土器の一つである。
発見された当時、縄文土器は世界最古の土器として発表されたが、その後に、中国で発掘された土器が18,000年前で最古であるとされている。ここで小生が提起する問題は、どの土器が最古か?という種類の問題では無い。この種の土器はどんぐりなどの木の実の調理や食物の保存の為に造られたものとされている。人は既に石器時代に火を起こす事を発明していたが、石を割って道具を使う事から、土をこねることに留まらず、土を焼くことで新たな道具を手に入れたのだった。
縄文のこの時期、大陸との交流も無い時代に同様の土器が世界各地から発掘される事の驚きである。そればかりか、縄文時代に陶器や漆器なども造られていたのである。日本列島に鉄器が入って来たのは、弥生時代と呼ばれるようになった稲作が大陸から入った頃とされている。メソポタミア地方で発見された金属(銅器〜青銅器〜鉄器)が大陸を伝い、日本に伝わるのは大陸との交流が始まるまで待たなくてはならなかったのである。
つまり、土器であれ鉄器であれ、人類が生活の向上を目指して道具を使い始めたのは生活環境が多いに影響した事が、人類の進歩に多いに影響を及ぼしたと云えるだろう。また、それぞれに進化した人類が交流を始めた事により、お互いに影響しあってさらに進化のスピードを速めた事もいわずもがなだ。
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≪縄文の謎 その3 住居について≫
石器時代では、狩猟採集のために定住することもなく(現代のモンゴルの遊牧民のように)、季節により住居を移動して生活をしていたものと思われる。しかし、自然災害の多い日本列島での生活では、雨露の凌げる洞窟や岩陰に住居するのが自然であろう。しかし多くの時を経ずして竪穴式住居に住み、やがて集落を作る事となった。それらの住居跡も日本各地で発掘されているのだ。しかしこれらの多くは時代の変遷により、現代日本の生活圏の中に埋もれている場合が多いのである。
そして、時代が進むに従い集落の大規模化が進むのも自然であろう。古墳遺跡などと違って、意図せずに埋もれた遺跡は、先人が生活していた場所であり、一部の権力者が埋もれている古墳とは違って、庶民の生活が発見出来るのだ。
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≪縄文の謎 その4 残された文様や文字について≫
さて、縄文の時代の土器には当時の生活様式が残されている。しかし、世界中の多くの民族と同様に縄文の時代には文字が生まれていなかった為、その生活の詳細については土器やその生活跡から推測するしか無い。
日本が初めて文字によって残されている最古の記述は、中国の三国志(280年〜297年)に著わされている魏志倭人伝であろう。
縄文時代から数千年の時を経て、古墳や遺跡で発見されている文字は大陸から伝来した漢字である。現代日本に現存する書物の最古の書物は、古事記(712年)や日本書記(720年)とされていが、遡る事180年、仏教の伝来の538年以降には日本語に漢字が当てられて,使用され始められたと推測されている。その後に文字として残された最古の書物が日本書紀である。(日本書記によると552年。元興寺縁起などでは538年)とされている。
外来語である漢字では、それまで使われている日本語では表記しきれないためか、我々の先祖は“ひらがな”“カタカナ”で標記する術を手に入れたのだった。それらは以下の考察が為されている。
≪すでに8世紀末の正倉院文書には、字形や筆順の上で平安時代の平仮名と通じる半ば草体化した借字が記され、これは9世紀中頃の≪藤原有年申文≫【867年)や同時期の『智証大師病中言上艸書』などの文書類、京都市の藤原良相(813〜867)邸遺跡から見つかった土器群にも見られる。また、宮城県の多賀城跡遺跡から発掘された土器や、塔アマ兼射水支の赤田遺跡からも草仮名の書かれた墨書土器が発掘されているため、同時期に地方へ赴任した官人らによって、日本各地で普及し始めたと考えられる。≫
そして、≪線刻礫≫や土偶について以下に記す。
上黒岩遺跡で出土された石器・礫器とともに、“上黒岩のビーナス”とも呼ばれた石片に刻まれた線刻礫には、石にいくつもの線を刻み、長い髪や腰蓑、乳房などを表現しています。この石は女性を表現したものと考えられており「女神石」とも呼ばれています。『原始、女性は実に太陽だった』と云う言葉を思い浮かべるのは小生だけではないだろう。これは、ユーラシア大陸の旧石器時代のビーナスとの比較研究が行われ、関連性を指摘されています。
また時代が下がって縄文中期以降になると、≪仮面の女神≫とも≪縄文のビーナス≫とも呼ばれる土偶なども各地の遺跡から出土されています。当時の人達がどういう意味を持って女性像(多くは女性像で、中にはお腹が大きいものもある)を作り、持っていたのか興味津々でもある。これらは、時代が下がった古墳時代の埴輪とは全く意味が違うと云えます。
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下の画像は穴神洞穴遺跡のパンフレットである。
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≪参考≫
縄文人より前に日本に現存した化石人骨は、以下のように推定されている。
≪山下人(山下町洞人)は今から約3万2,000年前で、いまのところ日本最古の化石人骨である。港川人は、骨の遺存しやすい石灰石の割れ目からほぼ9体分が出土した良好な資料で、中国南部の柳江人に相似する。約1万8,000年前の更新世人類と推定される。また、浜北人は、約1万4,000年前のものと考えられる。ビンザアブ人は、推定年代は約2万6,000年前で、港川人に先行するものと考えられる。≫
尚この稿を調べる際、一部の神道を信ずる人たちが『日本では縄文以前の人骨があまり出土していません』とし、また、世界最古の文字だとして『大陸から漢字が伝来するまで古代日本には文字がなかったとされていますが、日本列島(特に神社などの聖域)では多くの古代のペトログラフ(30000年〜4000年前の岩刻文字)が発見されています』などと、≪絵文字≫と思われる線刻を文字だという説を唱える自称“古代研究家”がいることに驚くのだった。
世界各地の洞窟や岩陰でで発見されている上述の≪絵文字≫から≪象形文字≫へと発展して、言語を残す手段として人類が発明した文字が、多様な言語に対応する形で文字となった事は自明の事である。小生は、前項のような科学的に証明されていない意見とは一線を画するものです。既に述べているように、外来語である≪漢字≫を日本語に当てはめて、日本語に当てはめる≪ひらがな≫や≪カタカナ≫を発明した我々の先祖に敬服せざるを得ない。
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≪縄文から弥生へ≫
縄文の時代が終わるのは、大陸から稲作が入って来たのが契機だと考えられている。紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がったとされている。沖縄や北海道へと普及しなかったのは、何故なのか不明で、生活様式が狩猟採集から稲作へと代わり、大規模な集落を作って食料の備蓄を行われることとなった。また、渡来人と呼ばれる人たちが青銅器や鉄器を持ち込んで生活も一変したのだ。そして、それらの技術を持つ人たちも入って来て人的交流が始まったのだ。縄文時代の閉ざされた1万年余りと違って、他民族との交流が生活様式だけではなくて、DNAの多様化や食生活の多様化が今までとは一味違った弥生人を誕生させたのだろう。
さて、平穏な生活を送って来た縄文人と違って、生活様式の変化に伴って争いが起こる社会になり、主食となった稲昨は、天候に左右される不作の年も当然の如くあるし、作っている場所によって凶作に見舞われることもあっただろう。つまり、狩猟採集の時代なら、豊かに実った森や川や海を探して移動すれば良かったのだが、取り入れ間近となって洪水で流されれば、今までの努力が水の泡である。そんな事もあり、食料を備蓄する術を獲得した事なども争いの新たな火種だったのだろう。
天変地異から身を守ることが家族や子孫を守る事だった当時、予見不能な自然現象から人々の不安を和らげる(守る?)為に預言者を必要としたのでは無いか。そして、新たに青銅器を手に入れた弥生人は、集落間の争いが生まれて勢力を増して行ったものと推測される。その争いを仕切る長や長を守る集団が新たに誕生したと推測される。また、先の預言者は、女性だったと思われる。後に“邪馬台国の王”として記録されている“卑弥呼”もそんな存在だったのだろう。
アメダスなど無かった古代、これらの事を言い当てる者が崇められたであろう事は当然だった。それらの出来事が信仰として受け継がれ、神道や神話へとまた様々な宗教へと受け継がれていったのだと考える。超自然の現象(人々が恐れた死などは第一だろう)から逃れたい願望がそれらを派生させたのだろう。これらの風習は、今も尚、現代の恐山の“イタコ”などの例のように、はたまた、長い間文明から隔絶された辺鄙な場所でも営々と活きている。
兎に角、部族間の争いは、時代時代(弥生〜古代〜安土桃山)にその形態や規模を変えながら続いたのだった。その争いは国が統一された後も、他国との争い(日本では侵略戦争へと続いた)へと昇華させていったのだ。
≪文化の滅亡について≫
前項では、縄文人が新しい文化と融合して弥生文化へと進んでいった(進化とも呼べるのか)祖先の姿を考察したのだが、日本列島にも長い間それらの影響を受けず取り残されていた人たちがいた。それは北海道の地でアイヌと呼ばれた人たちだった。本土では縄文文化〜弥生文化〜古墳文化を経て封建時代へと進む過程を辿りました。これらの進歩は大凡、世界のどこでも同様の過程で進行している。
しかし、アイヌの人たちは各時代で外部の人々との少々の交流はあったものの、江戸末期までの長い間文化の融合がなされないまま種を残していた。その特徴的な事は、日本語の方言とは違うアイヌ語を喋り、文字さえも残さない文化だった。このような例は、世界でも同様な例を見出せる。アラスカのエスキモーを始め、アメリカ大陸の先住民(インディアンやインディオと呼ばれている)なども同様で、形は違っていますが外から来た移民によって駆逐されることとなった。鉄砲など近代化された戦闘能力を持つ侵略者には立ち向かう術もなく、同様に滅亡の過程を辿った文明も各地にある。
15世紀以降、スペイン・ポルトガル両国を先頭に、イギリスなど各国は海外進出を競い世界各地で植民地化して行った。アフリカ大陸はもとより、海路で遠くインドや中国へも遠征し、交易が可能となった。そんな中、種子島へ鉄砲が伝来するのだった。さらに、アメリカ大陸の発見によってアステカ・インカ・マヤ等の文化の滅亡へと歴史は向かうのだった。新大陸の先住民たちは総じて、遠い昔、先祖がベーリング海を越えて南下したまま、新しい文化との交流が無かったのだった。青銅器や鉄器に触れないまま古代の生活を続けて来たこれらの民族は、ヨーロッパの先鋭部隊と対峙した時、ひとたまりもなかった。
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≪世界文化遺産への登録を目指し≫
北海道・北東北の縄文遺跡群の世界文化遺産登録を目指して取り組んでいる。そのサイトを運営している【縄文遺跡群世界遺産登録推進事務局】は、コチラから
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