【縄文人って何?】 
 
 昨年来の≪四国のみち≫歩きの際、上黒岩岩陰遺跡を訪れた。縄文時代と云えば、小生、随分と遠い昔の事としてあまり関心を持っていなかったが、NHKで放映された【縄文 奇跡の大集落 〜1万年 持続の秘密〜】というNHKスペシャルを見て、改めて日本人のルーツである縄文人の生活に興味を持ったのである。

 さて、このサイトは山に関する事について記すのが本来の目的であるのだが、脇道に逸れる≪歴史≫みたいなものを記述することについては、革めてご勘弁を願う。

 ここで驚くのは、大陸から隔絶されてしまった日本列島で縄文人が営々と続けて来た先人の独自の文化が、現代日本に引き継がれたであろうDNAに思いを馳せるのである。


 小生、登山道を辿るうち古の路を辿ることもあり、何処の誰が利用していたのだろうか。とか、何時ころから何時まで利用していたのだろうか。等々、思いを馳せながら歩くことも度々ある。そして、民族としての日本人が他の民族と違う思考回路を持つ事の不思議にも思いを及ぶようになったのは、5年前の東日本大震災で顕著になった日本人の気質に改めて気付いた事だった。

 
≪その1 集団の中での規律≫
 前述の東日本大震災の際、日本だけじゃなくて世界中が驚愕した大地震の後に襲った悪魔の映像≪・・次々に襲う大津波の映像≫を誰もが正視することが出来なかった筈だ。しかし、世界が驚いたのはその後の被災した人々の対応と支援する人々の姿だった。避難所での≪整然と列をなし、略奪なども無く平等に分け与える人々の姿・・≫それは、誰もが秩序を失うことなく復興を目指す姿だった。
 小生はここに縄文人の姿を見たのだった。縄文時代とは、今から1万5000年〜2300年前頃(このあたりは学者によって様々に云われている)とされている。つまり、最終氷期の終わりを迎えた時期から、季節が安定して温暖な気候となって1万年を経た後、渡来人の影響で稲作が広がり始めるまでの時期である。大陸の端っこの島となってしまった先人は、太古から地震や噴火などの自然災害と向き合わなきゃ〜生活出来ない土地だった筈である。狭い日本列島では大陸と違って、危険な環境の場からは逃れて安全な場所へ定住する・・という選択の余地は無かったのである。

 そして最終氷期の終焉とともに、陸続きだった大陸と隔絶された時期、それが1万年に及ぶ縄文時代だった。そして、縄文時代の終焉は大陸から渡り来た(海を航海出来る技術を取得したからか?)人達が稲作を伝えた事に始まるのである。縄文の時代には人々が争うことが少なかった縄文人(同時期の他の人種よりも少ないとの研究発表がある)は、弥生の時代となって新しい時代へと繋がるのであるが、以降の歴史の変遷について述べるのは本題で無いので、ここでは詳しくは触れない。

 1万年に及ぶ縄文時代には人々は互いに助け合って狩猟を主とした生活をせざるを得なかったのである。集団でマンモスをを仕留めたり、そんなに頻繁には縄張りを争わなくてもそこかしこに獲物を取得する豊かな自然があったからなのだろうと推測する。

 
≪その2 争いを好まない人種なのか≫
 集団での生活では人は争いは避けられない。しかし、一部の国のように『自身や家族を守るためには他人を殺してもかまわない』と、拳銃の保持を認め自己防衛のためには他人を殺す事を由とする国さえ今も尚ある。日本でも≪戦国時代≫と云われた戦乱の続く時代があり、鉄砲が大量に作られていた時期があった。しかし、≪鎖国≫という政策を進めて以降は一部(狩猟)の者以外は、鉄砲の保持を禁じたのだった。それは300年も以前の事だった。

 時を経て、江戸から明治へと権力が移り≪廃刀令≫が出されたのだった。そして、世界が植民地競争を競う中で開国した日本も≪徴兵令≫以降、日清戦争から太平洋戦争までの他国への侵略の50年余りの時代は、縄文人の生業を忘れた権力者の“キチガイザタ”の仕業だったのか?
 そして今また70年の時を経た現在、“自身を守る為には、他者を滅ぼす”という理論(国の政策としての自己防衛論)がまかり通ってしまいかねない風潮が一部にあるが、それが私たちの祖先から受け継がれてきたDNAなのだろうか。

 縄文人が物語っているのは・・・


【参考】

 
山口大学国際総合科学部の中尾央助教、岡山大学大学院社会文化科学研究科の松本直子教授らの共同研究グループは、縄文時代の受傷人骨データから暴力による死亡率を算出し、世界各国の先史・民族文化と比較しました。その結果、縄文時代には、暴力による死亡率は極めて低かったことが明らかになりました。これは、人間の本能がそのまま戦争につながるという長年の国際的主張に再考を迫るものです。なお、本研究成果は3月30日、英国の科学雑誌「Biology Letters」に掲載されました。


今回の成果の骨子は次の通りです。
(1)約1万年におよぶ縄文時代の受傷人骨データを網羅的・体系的に収集し、暴力による死亡率を初めて数量的に算出した。データ総数は2,582点(人骨出土遺跡数は242箇所)、うち受傷例は23点、暴力による死亡率は1.8%である。
(2)縄文時代の暴力による死亡率は、さまざまな地域、時代の狩猟採集文化における暴力死亡率(10数%、今回の成果の5倍以上)にくらべて極めて低い。
(3)戦争の発生は人間の本能に根ざした運命的なものではなく、環境・文化・社会形態などのいろいろな要因によって左右される。
(4)縄文時代の研究は、さまざまな地域で生じ、終わることのない戦争・紛争の原因をどこに求めれば良いのかについて、考古学や人類学から研究を進める上で重要である。
 
 下の画像は前述の上黒岩岩陰遺跡のパンフレットである。

 久万高原町公式hpには≪上黒岩岩陰遺跡は、今から1万2千年前の縄文草創期から後期にわたる複合遺跡です。延々1万年近くにわたり人が住んでいたという点で、長崎県福井洞遺跡と並んで貴重な縄文岩陰遺跡です。発掘された土器、矢じり、石器類などの出土物は、考古館に保存・陳列されています。
 昭和36年に久万高原町上黒岩ヤナセで発見された岩陰遺跡は1万2000年も前の縄文早期の人類遺跡として一躍有名になりました。同地は国道33号線沿いの久万川の対岸、高さ30メートルの石灰岩が露出した岩陰にあります。発掘調査の結果、国指定の史跡となり、さらに昭和48年に愛媛県の「文化の里」に指定されました。出土品の数々はこれを収蔵展示する考古館で、一般に公開されています≫と案内されている。

 
 
 
 
 
 
 
≪参考≫
 先の“受傷人骨”は、発見当初は『“男性の受傷人骨”で、争いの為に受傷した』との見解だったが後に熟年女性の人骨で『死後に何らかの理由によって為された』ものと判明したのだった。

 
 尚、≪上黒岩岩陰遺跡≫の詳細については次のサイトから覗けます。
    1.洞窟の紹介 

    2.線刻礫    

    3.久万高原町各地区の縄文遺跡土器    

    4石器・礫器    

    5.食られた獣骨から分かる食生活と装身具線刻礫    

    6.1万年前の埋葬人骨の謎