縄文文化を巡る!
縄文遺跡を巡る旅(四国・愛媛編)
【序】

≪国立歴史民俗博物館 研究報告≫ 2009    第154集(平成21年9月)
愛媛県上黒岩遺跡の研究 [共同研究] 春成秀爾・小林健一編

上記、資料から序文を以下に引用します。
序文


 愛媛県上浮穴郡美川村(現、久万高原町)上黒岩、通称ヤナセに所在する上黒岩遺跡は、1961年5月に地主の竹口渉・義照さん(当時、美川中学校1年生)父子が発見、同年10月に3日間、江坂輝彌(慶應義塾大学文学部)・岡本健児(小津高校、高知女子大学文学部)・西田栄(愛媛大学教育学部)の諸氏が小発掘したところ、押型文土器の時期の埋葬人骨に遭遇した。縄文早期までさかのぼる人骨となると神奈川県平坂、新潟県室谷につぐ全国でも3例目といってよい発見であったから、そのニュースはただちに、「7,8千年前の人骨を発掘」の見出しで全国の新聞に登場した。そのときはヤナセ遺跡の名称であったけれども、翌1962年7月の第2次調査のときから上黒岩遺跡に改められ、「押型文土器発掘」、「最古の土器片も」から「岩ハダから壁画発見」、そして、「小石に1万年前の女性像」の見出しで石偶の発見を報じられた。こうして、上黒岩遺跡によせる学会の関心はなみなみならぬものになっていった。
 上黒岩遺跡は、その後、1962年10月に第3次調査、とんで1969年8月に第4次調査、1970年10月に第5次調査が前記の諸氏に小片保(新潟大学医学部)氏らを加えて実施された。
 当時の新聞記事のスクラップブックを読み返してみると、1958年の新潟県小瀬が沢洞穴と長野県神子柴遺跡、1960年、63年の長崎県福井洞穴、1961年、62年の上黒岩遺跡、1962年~1964年の日本考古学協会洞穴遺跡調査特別委員会による全国の洞穴遺跡の発掘調査と、今でいう縄文草創期の遺跡・遺物の発見ラッシュは、新聞の3面を飾る考古学の話題の明らかに中心の位置を占めていた。こうした動きは、1967年の『日本の洞穴遺跡』の刊行で一応の終了をみた。思えば、1950年代から1960年代前半の時期は、縄文文化の起源に迫る新資料が次々と世に出た大発見時代であった。山内清男氏が縄文早期の前に「縄文草創期」を設定することを提唱したのも、この時期のことであった。

以下略

 
 上黒岩遺跡の存在を知ったのは随分前の事でしたが、興味が湧いたのは冒頭のページの

 ≪縄文文化に興味を覚えたのは、小生が“がん治療”後のリハビリで、≪四国のみち≫歩きの途中で『上黒岩岩陰遺跡』に立ち寄ったのが契機でした。
 そんな折、偶然にもTVなどで“縄文遺跡や文明”の特集番組を見たのでした。しかし、それらの番組は小生の興味を満たすものとは言えませんでした。そして、上黒岩岩陰遺跡の≪受傷人骨≫が、発見当初の『争いにより受傷して死亡した』との見方を覆す「経産婦の人骨で、何らかの理由により死後に傷つけたもの」と、訂正されたのです。発見当初には判らなかった事も、時期を経て判明する事があります。勿論、永遠に解らない事もあるのですが、希望が無い訳ではありません。
 そんな訳で、近場の縄文遺跡を訪れる旅を始めたのでした。≫


 がその緒でした。そして、2016年の上黒岩第2遺跡発掘の現地説明会、猿楽遺跡(旧美川村)発掘現地説明会や美川支所で行われた≪女神の里帰りプロジェクト講演会 「世界の女神像」(講師 春成 秀爾)≫へと参加したのでした。そんな折、行方不明となっていた“埋葬犬骨”の発見の報にも接して、そこで再認識したのが、上黒岩遺跡の価値でした。この遺跡の唯一の弱点は集落の遺跡ではない点です。それは、住居跡なら生活痕があり、当時の祖先の日常のあり様が手に取るように再現が可能な筈です。

 しかし偶然にも、石灰質の岩穴に遺物は残され、一万年の時を経て堀起されたのです。そこで発見された20数体の人骨や埋葬犬が教えてくれる事は貴重な財産として、永遠に受け継がれるものでしょう。

 
 さて、以下に≪上黒岩岩陰遺跡≫と隣接する≪考古館≫と、貴重な宝物を紹介します。
 
【続・上黒岩岩陰遺跡とその時代(平成26年度特別展)】 愛媛県歴史文化博物館編より引用

≪縄文時代草創期の四国≫

 四国地域における縄文時代草創期の様相については、愛媛県の上黒岩岩陰遺跡、穴神洞遺跡、高知県の不動ヶ岩屋洞穴遺跡など1960~70年代に発掘調査が行われた洞穴・岩陰遺跡の成果に依ることが大きく、これらをもとに理解されてきた。草創期の遺跡の立地は、こうした洞穴。岩陰が多く選ばれているが、四万十町十川駄馬崎遺跡のように河岸段丘上に位置したオープンサイトを活動空間として利用した遺跡も存在する。また、有舌尖頭器や石斧が単独出土あるいは表面採集されている遺跡も含めると、草創期の遺跡数はさらに増える。これらの採集地・出土地は、吉野川水系や四万十川水系に集中的に認められるものであり、こうした河川が縄文人にとって重要な幹線ルートであったことがうかがえ、同時に、周辺域においてはキャンプサイトが発見される可能性も十分に考えられる。


 台地上や兵陵上に定住性を示す竪穴建物が出現し、初期定住集落が形成され始める南九州とは対照的に、四国では、主要河川の上・中流域となる山間部を活動の拠点としており、居住地については、住居をつくる労働力を必要としない洞穴・岩陰を生業活動の拠点とした。
 縄文時代草創期における上黒岩岩陰遺跡では、第Ⅸ層で隆起線文土器段階、第Ⅳ層で無文土器段階の遺物が出土している。両層より出土した炭化物を年代測定した結果、両者が約14,500年前(草創期前半)、後者が11,700年前(草創期後半)という数値が示されている。

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 ≪以下、考古館の展示物などを案内しましょう≫
石偶(線刻礫)
 石にいくつもの線を刻み、長い髪や乳房、腰蓑(陰毛?)を表現しています。用途については不明な点も多いのですが、子どもを産むときに握りしめる「安産のお守り」であったとする説が考えられます。
 他の遺跡からの出土例はなく、日本列島最古のものであり、「上黒岩のヴーナス」とも呼称されています。
 ≪縄文時代草創期 約14,500年前≫
 
 
≪左図、棒状線刻礫≫
 
 
 ≪第9層出土 約14,500年前)≫
 
≪大型躒器≫ ≪躒器≫
 
≪石箆≫ ≪石≫
 
≪掻器≫ ≪有舌尖頭器≫
 
 ≪第6層出土 12,000年前≫
 

 
≪クマ、イノシシ、カワウソムササビ≫ ≪サル、テン、アナグマなど≫
 
≪シカ≫ ≪装身具 第4層出土 約10,000年前≫
 
≪装身具≫
 
≪石小刀、石鏃≫ ≪山形押型文土器など≫
 
≪大型楕円文土器、小型楕円押型文土器≫ ≪厚手無文土器≫
 
≪爪型文土器?(約5,000年前)≫ ≪黒土B式土器(約3,000年前)≫

 ≪土器(古式土師器 約1,750年前)≫ ≪弥生土器(弥生時代前期 約2,400年前)≫
  
 以下は、発掘された人骨
 
≪受傷人骨≫ ≪幼児の頭骨(約8,000年前)≫
  

≪上黒岩岩陰遺跡出土頭蓋骨(久万高原町教育委員会蔵)≫

 上黒岩岩陰遺跡の奥部から出土した幼児の頭蓋骨である。
 上黒岩から出土した人骨の中には、こうした未成人骨も多く含まれており(全体のおよそ6割)、縄文時代は子供の成育には非常に厳しい自然、社会環境であったことがうかがえる。
【続・上黒岩岩陰遺跡とその時代(平成26年度特別展)】 愛媛県歴史文化博物館編より引用

≪上黒岩岩陰遺跡第Ⅳ層出土遺物-草創期前半-≫

①隆起線文土器(上黒岩式土器)
 本土器はⅣ層より出土したもので、個体識別により最低でも14個体分が存在した可能性が指摘されている。その特徴は、口縁部の表面に粘土紐を貼り付けて隆線文を施したものであり、その文様の付け方は、縦方向や横方向だけでなく斜め方向のものもあり、口唇部内面にも同様の文様を貼り付けているものが存在する。

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②草創期の石器群
 Ⅳ層からは狩猟具や加工具とする石器が数多く出土しており、綿貫俊一氏の調査によって縄文人の生業活動の一端が解明された。
 主な石器には、ヤリ先として使った有舌尖頭器や槍先型尖頭器などの狩猟具や、皮なめしに使ったと考えられる石箆がある。また、同層からは、三角形を呈する石鏃7点も確認されている。以前より、矢柄をしごいて磨いたとする有溝砥石(矢柄研磨機)が出土していたことは知られていたが、今回の成果により、隆起線文土器段階には「弓矢」が用いられていたことが明らかになった。

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③石偶(線刻礫)
 縄文時代草創期の文化層(隆起線文土器~無文土器)からは、女性をかたどったと考えられる線刻を施した石偶が出土している。現在のところ、13点が確認されており、これらは緑色片岩又は結晶片岩の薄く小さな円礫の表面の上半分に、長い髪や乳房を表現したものが描かれており、さらにその下半部ニハ「スダレや鋸歯文といった文様(腰蓑?・女性性器を表徴する陰毛?)も認められる。また、裏面の下部には肛門を表現した可能性が指摘されている「×」印の線刻も確認されている。

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≪上黒岩岩陰遺跡第Ⅵ層出土遺物-草創期後半-≫
上黒岩岩陰遺跡第Ⅵ層出土凹石・敲石類
 Ⅵ層からは、Ⅳ層では見られなかった堅果類を加工する凹石・敲石が多く出土するようになる。こうした石器の出現は、温暖化による周辺環境の変化によって、堅果類や根菜類が多く自生し、縄文人はそれらを採集してデンプン質を加工していたことが考えられる。


≪上黒岩岩陰遺跡の縄文時代早期人の姿≫
 上黒岩岩陰遺跡では縄文時代早期にさかのぼる人骨が28体出土している。全国においても当該期の人骨がこれほどまとまって出土した遺跡は少なく、現代人のルーツを解き明かすためにも重要な資料群といえる。本遺跡の出土人骨については、近年、中橋孝博・岡崎健治の両氏によって再検討が進められ、その全容が明らかにつつある。
 この人骨28体の内訳は、男性3体、女性8体、性別不明が17体であり、年齢構成をみると、6割が乳児・幼児で占められており、子供の高い死亡率が指摘されている。

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≪受傷人骨≫
 岩陰最奥部となるA拡張区から出土した3体合葬の再葬人骨のうち、右寛骨に骨角器が突き刺さった状態のものが発見されている。発掘当初は、男性の人骨と判定されており、そのため狩猟の際に誤って刺さった事故によるものとの見解が示されていたが、近年の中橋孝博氏の調査によってこの人骨は妊娠痕のある成人女性であること。さらに生前、もしくは死後間もない時点に傷を受けたこと、そして同じ方向から2度も突き刺していること等が明らかにされた。春成秀爾氏によると、こうした行為は、この事故か病気で亡くなった女性に対して、崇られないよう魔除け意図があったのではと推測されている。このように何かしらの儀礼的行為が行われたとも考えられているが、いまだ定かではなく、今後も継続した調査が必要となる。
 人骨に刺さっていた骨角器は、髪留めに使われたと考えられるシカ骨製のものであり、この女性が生前に使用していた可能性が考えられる。
≪縄文犬-列島最古の埋葬犬-≫
 上黒岩岩陰遺跡の岩陰奥部(A区)では、約7,300年前の埋葬犬骨2体が発見されており、これは埋葬された犬としては列島最古の事例となる。

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 ≪久万高原町上黒岩の国史跡「上黒岩岩陰遺跡」から発掘され、所在不明となっていた埋葬犬の骨2体分が、慶応大(東京都)の考古資料収蔵庫で見つかったと同大と同町が1日、発表した。
 埋葬犬の骨は1962年に同大の研究者らによって発掘されたが、長く行方が分からなくなっていた。2011年3月、資料整理をしている際に発見。発掘時期の愛媛新聞に包まれていたことや、東京大などとの調査研究から上黒岩岩陰遺跡のものと判断。放射性炭素を使った年代測定で、縄文時代早期末から前期初頭(7200~7300年前)の国内最古の埋葬犬と結論づけた。
 慶応大の佐藤孝雄教授(動物考古学)は「上黒岩岩陰遺跡で生活していた縄文人の来歴や系統を議論することにもつながる」と話している。骨は、町が保存管理できる体制を整えた段階で、ほかの資料とともに返還するとしている。≫


の報(2012年11月)には驚きました。

慶應義塾大学文学部民俗学考古学研究室のサイト 
上黒岩考古館のパンフレッット