K2・バルトロ氷河トレッキング 25日間 | |||
2004・8・20〜9・13 | |||
ルート図 1 | ROCK&SNOW (山と渓谷社)より | ||
3.西稜 1981.8.7 日本 大谷映芳、 ナジール・サビル イギリス隊が2度にわたって失敗した西稜は、パキスタンのナジール・サビルも加わった14人のメンバーからなる早稲田大学隊によって登られた。 早稲田大学隊は、1979年にラカボシ(7788m)北稜を初登したメンバーを中心に編成され、6月20日にBCを設けた。8月3日に8050mにC5を建設。西稜上部へ抜けるクーロワールは難しそうなのであきらめ右手の南南西稜に向かってトラバース、8300m地点まで固定ロープを張った。 8月6日、大谷、山下松司、サビルの3人がC5をでて頂上へ向かい、南南西稜に出たところで酸素を捨てた。稜の上部は時間のかかる登攀となり、8500mでビバークを余儀なくされる。翌日、頂上まで50mのところで山下が断念。あとのふたりが頂上に立った。 このルートの第2登は、1993年のアメリカ・イギリス国際隊までなかった。 |
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6.南南西稜 1986.8.3 ポーランド、チェコスロバキア ヴォイチェフ・ヴルシ、ブシェミスワフ・ビアセツキ、ベテル・ボジク 1986年7月下旬に、K2は10日以上の悪天候に見舞われる。悪天候が収まった7月30日、チェコスロバキアのボジクを含むポーランド隊の7人は行動を開始する。第一次隊の3人は7400mのC3上部にさらに300m固定ロープを張り足し、稜の右側をたどった。8月1日8000m、2日8400mと2泊すると、ルートは頂上直下にいたってようやく容易になり、3日18時に頂上に立った。 3人は高所でのビバークを避けるために南東稜を下る事にしたが、最後尾を進んだヴルシは、約8100m地点の固定ロープ付近で行方不明となった。 |
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ルート図 2 | ROCK&SNOW (山と渓谷社)より | ||
1.南東稜 1954.7.31 イタリアアッキレ・コンパニョーニ、リーノ・ラテェデリ 1902年に始まったK2(8611m)登山から50年余。アメリカ隊の3回にわたる挑戦を拒んできたK2は、イタリア隊によって登頂された。イタリア隊は、47歳のジーノ・ゾルダから24歳のヴァルテル・ボナッティまで、イタリアの各世代を代表するクライマー11人を擁していた。酸素をはじめ、あらゆる物資と人員を投入したのは、この年に登らなければ、翌年はふたたびアメリカ隊がねらっていたからである。 登山を開始して20日あまりたったころ、マリオ・ブコスがC2で肺炎のために亡くなる。また、この年の6月は異常に天候が悪かった。それでも一行は力を合わせてルートを切り拓き、8060mにC9を設けて、7月30日、コンパニョーニとラテェデリが入った。 翌日、ボナッティらがデポしていった酸素を使い頂上へ向かう。雪が深く時間がかかり、酸素も切れてしまう。歩みは遅々としていたが、酸素なしでも着実に高度をかせぎ、18時に頂上に達した。疲労と暗闇で下降はさんざんで、クレパスに落ち、滑落し、アックスをなくし、凍傷にもかかった。ふたりがC8の仲間に迎えられたのは23時であった。 イタリア隊の初登頂の後、23年後の日本隊による第2登が記録されるまで、K2は多くの隊を拒み続けることとなる。 2004年現在、このルートは最も多くのクライマーに登られている。 |
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5.南壁中央稜 1986.7.8 ポーランド イェジ・ククチカ、タデウシュ・ビョトロフスキ 1986年は、K2で大量遭難が起きた年である。この夏にパキスタン側からK2をめざしたのは12ヵ国10隊、うち、死亡・行方不明が13人。一方、登頂成功が8隊27人。2本のバリエーションルート登攀や、ポーランドのワンダ・ルトキェヴェッチによる、女性初登頂・無酸素という新しい記録も生まれた。 未踏の南壁中央部をめざすのは、K・M・ヘンリヒコッファー率いる、18人からなる5ヵ国混成チーム。しかし、入山後、隊長が高山病にかかって下山したため隊は分裂。わずかにククチカとピョトロフスキが当初の計画をを継続した。 7月3日、ベースを出発して頂上攻撃を開始。南壁中央部にある顕著なピラー沿いに登り続ける。8200m付近に横たわる困難なロックバンドにてこずり、2晩のビバークを余儀なくされたものの、8日には南東稜の8300m地点に抜け出し、」頂上に達した。 下山中にピョトロフスキはアイゼンが外れて滑落、ククチカはひとりベースキャンプに戻った。 |
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その他ルート | ROCK&SNOW (山と渓谷社)より | ||
4.北稜 1982.8.14 日本 坂下直枝、柳沢幸弘、 吉野 寛 1982年、中国はK2北面を解禁し、最初の許可を日本山岳協会に与えた。登攀隊長として全権を委任された小西政継が、無酸素による全員登頂を旗印に隊員選考のレベルをかなり高いところに定め、メンバーは10人となった(支援隊30人も同行)。 5月29日にBCが建設される。ルートを北稜の右沿いにとったが、初めてのK2北面は予想以上に天候が悪く、北稜から北壁最上部の雪田に抜けるコル(7850m)が発見されたのは7月末、頂上攻撃は8月中旬までずれ込んだ。 8000mまで固定ロープを張ったあと、3パーティに分かれて頂上攻撃が開始され、一次隊の坂下、柳沢、吉野の3人が登頂した。その翌日、二次隊の高見、重野、川村、禿の4人も登頂。しかし一次隊の3人は8350m付近で夜となりビバーク。翌日、下降中に8000mあたりで柳沢が北壁基部まで落ちて亡くなった。また、撤収まぎわの8月29日には、ひとり裏山へでかけた坂野俊孝医師が転落死するというアクシデントが追い打ちをかけた。 |
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7.北西壁 1990.8.9 日本 名塚秀二、今村裕隆 北西壁ルートは、1982年にポーランド隊がパキスタン側から挑んだものの、頂上目前で撤退している。 1990年、総勢12人からなる横浜山岳協会隊が中国側から登頂。北西壁に取り付き。5350mにC1を設けるが、7月4日未明に雪崩に襲われる。7人が打撲傷を負うが大勢には影響なかった。7650mのC4設営後、北稜を越えて北壁に入る1982年の日本山岳協会隊ルートに合流。7950mのC5から名塚、今村が登頂した。 |
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