縄文文化を巡る!
縄文遺跡を巡る旅(四国・愛媛編)
 平城貝塚(愛媛県愛南町)は、町の中心部にありました。愛南町のhpには


県指定文化財 史跡

平城貝塚は、愛南町中央部を流れ、御荘湾に注ぐ僧都川の右岸、平城地区にあり、明治24年、宿毛貝塚と同時に、高知県の寺石正路によって発見されたものである。

この貝塚は、「平城式土器」という「標式土器」で全国的に知られた、3500年前の縄文後期中葉の遺跡であり、昭和29年より現在まで、5回の発掘調査が行われている。

土器の外には、完全体を含む多くの人骨と、石器・骨角器・獣骨・魚骨・植物種子など、多くの出土物があり、その中でも珍しいものとして、全国でも出土数の少ない織物片や、貝笛(装身具説もあり)がある。また、住居跡ではないかと考えられる遺構も発見されている。

この貝塚は、貝層約1メートル、南北約90メートル、東西約60メートルあり、多量の遺物と、中国・九州地方との関連を考えるうえで重要な遺跡である。

 との紹介がありました。


 尚、西予市教育委員会 文化体育振興課 文化振興係のブログ(field note フィールドノート~西予の文化と遺跡)を拝見しますと、平城貝塚6次調査(2013年3月23日)の様子が載っていますので、前記紹介文以降に調査が行われた模様です。
 
≪平城式土器≫
 
≪平城式土器(世界大百科事典より引用)≫

愛媛県南宇和郡御荘町平城字町畑にある縄文時代後期の貝塚。付近を西流する僧都川河口より約1kmの標高6~7mの台地上に鹹水産の貝による貝塚が積成されている。1891年に発見され,以後若干の調査報告がある。1954年の発掘により,人骨,後期縄文式土器,打製石斧,磨製石斧,貝輪,骨針およびマグロなどの大型魚骨,小型の馬の歯が出土した。古い採集資料中には,石鏃,石錘,凹石(くぼみいし)なども知られている。この遺跡から発見された後期縄文式土器は5類に分類されており,磨消(すりけし)縄文手法の盛んな第1類土器が,量的に見てこの貝塚の主体をなすものである。

 平城貝塚遺跡と出土品が展示されている≪平城交流センター≫を訪れたのは、2017年6月19日でした。昨年、11月に訪れた際は日曜日だった事もあり、問い合わせる観光案内所も閉まっていたり、やっとの思いで辿り着いた≪平城交流センター≫も、あいにく管理の人が不在で≪資料室≫への入室は適いませんでした。そして、今回の半年ぶりの再訪は、事前に入念な下調べと問い合わせで、ぬかりはありませんでした。


≪平城交流センター≫の展示場には、以下のパネルが迎えています。


【はじめに】

 平城貝塚は、高知県の歴史家寺石正路が、明治24年に高知県宿毛市の宿毛貝塚と同時期に発見し、発表した縄文遺跡です。
 愛南町にはこの他にも、旧石器の遺跡である和口西の駄馬遺跡、弥生期の遺跡である法華寺遺跡と数多くの遺跡が存在します。中でも平城遺跡は、縄文遺物の種類と包含量で愛媛県を代表する遺跡として、昭和26年に愛媛県の文化財(史跡)に指定されました。
 今後の文化的なまちづくりに欠かすことのできないこれらの貴重な文化遺産を、後世に残し伝えていくことが重要です。
 これら埋蔵文化財が広く人びとに周知され、適切な保存のもと活用していくことで、文化の高揚になることを願っています。



【平城貝塚をめぐる環境】

 平城貝塚の所在する御荘湾沿岸には、約60kmにも及ぶリアス式海岸があり、南北には小規模な岬が形成されています。そして、この御荘湾には愛南町の最大河川である僧都(そうず)川が東から注ぎ、この河川とその支流によって細長い河岸段丘が山間部の合間に展開するほか、僧都川の豊かな水量は御荘湾の広い範囲に汽水域や砂州を形成しています。こうした海浜部周辺の環境から、豊富な魚介類に恵まれていたことや、さらに起伏の激しい山地や変化に富む河岸段丘には、様々な小動物が生息し、また多様な植物資源にも恵まれていたと考えられます。
 平城貝塚周辺の地質は砂岩と頁岩の互層で形成されており、石器の材料となった頁岩が豊富に産出していることからも当時の人々にとって住みやすかったのではないかと思われます。
 この豊かな自然環境が示すように、平城貝塚からは大量の土器や石器、動物などの遺物が発見されています。この貝塚の分布範囲は東西約60m、南北約90mにも及ぶといわれており、これは多くの人々が長きにわたって平城で生活していたことを示すものです。
≪縄文時代の貝殻≫
  

 
 
≪魚の骨など≫ ≪シカの骨・角≫
 

≪猪の骨や動物の骨など≫
 
  
【平城貝塚の骨角器】

 縄文時代には土器や石器以外にも、食料としてとらえた動物や魚貝類の骨や牙などを材料として道具作りを行っていました。こうした道具を骨角器と総称していますが、平城貝塚から出土した骨角器には、鹿角製のヤスや針と考えられるものが出土しています。さらに、牙や貝を材料としてペンダントやイヤリング、それにブレスレットとして使った貝輪と呼ばれる装身具があります。また巻貝の表面に2つの穴を開けて笛として使用したと考えられるものも出土しています。
 

 
  
【平城貝塚の石器】

 平城貝塚では数多くの石器が発見されています。これら石器の多くは、愛南町とその周辺で産出される頁岩と呼ばれる石材が使われています。また、大分県国東半島沖の姫島で産出する黒曜石も発見され、九州の人びととも交流があったことを物語っています。

〇石鏃(材:頁岩・黒曜石)
平城貝塚では頁岩や姫島産黒曜石で作ったものが出土しており、矢の先につけ、狩りのときに使用しました。


〇磨製石斧と打製石斧(材:頁岩)
石を材料とした斧を石斧と呼びます。平城貝塚では本体の全体を磨いて仕上げた磨製石斧と、石を打ち欠くことによって仕上げた打製石斧が発見されました。木を伐採する以外にも様々な方法で使用されたのではないかと考えられています。


〇石鍾(材:頁岩・砂岩)
漁網に取り付けたオモリです。石の両端を打ち欠いて縄を結び付けやすいようにしています。


〇敲石(材:砂岩)
縄文時代の敲石には、石器や骨角器と作るときの石を打ち割る時に使ったものと、木の実を割ったり、すり潰したり、粉にしたりするための調理具として使ったものがあります。


〇石皿(材:砂岩)
木の実を割ったり、すり潰した時の調理具になりました。現代のヒキウスのような使い方をしたと考えられます。
 

 

 

 
  
【平城貝塚の縄文土器】
 平城貝塚から出土した縄文土器には様々な文様が施されており、九州地方東部や中国地方南部より影響を受けた土器が出土しています。ここで特徴的なのは、磨消縄文と呼ばれる文様のスタイルで、縄を土器の表面に転がすようにして付けたものと、棒状のもので溝を磨り消したものです。その様式により「平城式土器」という標式土器となっています。
 土器の文様は時代や時期と共に変化し、さらには地域によっても異なっています。磨消縄文は西日本の縄文時代後期に見られる特徴的な文様で、この文様の様相を土器の形と合わせ調べることによって、平城とその周辺での土器の時間的変化を知ることができます。
 

 

 
 

愛媛県生涯学習センターサイト、データベース『愛媛の記憶』より引用

愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

3 平城貝塚からの人骨と埋葬

 貝塚に葬られた仰臥伸展葬

  昭和二九年(一九五四)の第一次調査から、昭和四七年(一九七二)の第三次調査に至るあいだ、頭蓋約一〇体分、下顎骨片二点、鎖骨以下全身一体分、未成人骨二体が検出されたという。縄文後期での社会規制を知る重要な側面であるだけに、第四次調査(昭和五六)の成果を期待するとともに、今後の精査を待ちたい。

  ここでは、第一次調査のA地域(2―66)で検出された人骨出土状況について若干触れるに留めたい。

  人骨は、貝層の表土から約マイナス一メートルの基層上に、上半身を水平にし、頭を東南にとり全く静かな仰臥の姿勢をとり、両腕は身に密接して伸ばし、両肩から手首のあたりまで拳大の石が並べられていた。なお、頭蓋の左下寄りに頭部よりやや大きい石が存在したものの、頭部はこれにのらず、隣接して置かれたのかもしれない。

  歯牙は完全にそろい、この遺体については抜歯の習が行われたとは考えられなかった。また熟年男子との鑑定がなされているものの、腰骨以下の下半身を欠如していた。したがって、仰臥屈葬か仰臥伸展葬かの区別はつき難い。おそらく、過去の建築などの際、何らかの理由で逸失したものと考えられる。

  埋葬については、上黒岩岩陰遺跡第四層(縄文早期)期から、集落の内部に共同墓地を形成しており、この期にもそのことは引きつがれているのであろうか。さらにこの期には、まだ一般化はしないものの、抜歯・屈葬という特色のある埋葬形態が目立ちはじめるのであり、今後に多くの究明の余地が残されている。

 
 上記引用の人骨と、今回拝見したものと同一のものかどうかは不明です。今回拝見した発掘人骨を以下に載せますが、今まで小生が取り上げた人骨の中では出色のものでした。

 生前は、歯並びが綺麗な美しい娘さんだったことが窺えます。
 
 ≪第3号人骨≫
14~15才女性
推定身長 130cm
 さて、今回は高知との県境の町・愛南町まで出向きました。事前に連絡を取っての訪問が功を奏したのか、愛南町の学芸員の方が訪れて来たのでした。偶然にも、出土遺物の整理の為に来られたとのことでした。お陰で、様々な疑問点などについても窺えたのでした。