藪漕ぎの楽しみ

 

     

 

 

三十六王子道

 

 石鎚の登山道で、「三十六王子道」の案内板を眼にしていたが、今までは、さほど気に懸けず通り過ぎていた。今回、西の川より成就に至り、八丁から御塔谷経由にて、西の川へと降りる道すがら見掛ける案内は、改めて私に「三十六王子道」の宿題を与えた。

 

 

 早速、石鎚神社へ問い合わせると関連の書籍は“当神社でのみ入手可能”との話・・後日、手に入れることとなった。以下に“発刊のことば(石鎚神社宮司 十亀和作記)”の一節を紹介する。

 

 

 

 「霊峰石鎚山信仰には古来より登山道の各処に三十六王子の小社があり、先達は登拝の時『お山は三十六王子、ナンマイダンボ』と唱へ乍ら登拝する事は周知の通りであります。この『王子』信仰は元来仏典の語であり、我が神社神道では『御子神』と同義語と考えてよかろうと思います。・・・」

 

 又、「石鎚山信仰の発祥は、役小角(役の行者)によって開基されてより、山岳信仰すなわち山伏信仰が主流となり密教に近い行道の信仰が長く続いた。その流れに、神が王子となって顕現する王子信仰が結実して、石鎚山登拝道に添い峻険な岩場、断崖絶壁、岩屋などの行場を見い出し、修行の場としてそこに王子社を祀った。・・・」“後記(権祢宜 湊照彦記)”と紹介されて、現在も“王子道”として維持・整備されている。

 

 今や、多くの登山者は旧道を見向きもせず、表参道で出会う各王子も通り過ぎるだけとなっている。尤、私もその中の一人だった訳だが・・・近代登山思想の発生するずっと前から、脈々と受け継がれてきた道を辿って診るのも「イイカモ シンナイ!」

 

 

【西の川〜成就社〜八丁〜西の川】(2001年6月24日)

 

 

 

 ロープーウェイの出来る前の道である“西の川からの道”を辿り、まずは成就社をめざす。指導標脇にある石段を登り、民家の間を縫うように“道”は続いている。ここら辺りは、現在もお住まいのようで、庭先も綺麗に手入れされていて花々も咲き競っている。が、暫らくすると、廃屋や石垣だけが残された住居跡の中を歩くようになった。やがて植林の林から自然林にと植生が変わり、勾配が増してきた頃、背後に瓶が森が姿を現した。

 

 

 

 

 

 耳を澄ますと、スピーカーの音がする。ロープーウェー乗り場の音だった。そこは若葉の緑が眩しい“石鎚表参道”の道だった。ここは、スニーカー姿の人達が行き来する道でもある。白石旅館の軒先を借り一休みとする。ここまで、予定より時間が掛かってしまい、八丁から降りる事とする。バイトの若者に道の状況を訊ねると、「道は大丈夫だそうです」・・で、出発。

 

 

 

 

 今の時期が、そうなのか?この辺りがそうなのか?兎に角、白い花が良く目立つ。“ヒメシャラ”“バイカウツギ”“タンナサワフタギ”等等。“八丁”辺りは花盛りである。それにしてもこの道筋は、大木が多いのには感心する。桟道や小谷に掛かる橋も良く整備されていて、岩黒山や土小屋、そして瓶が森が、右手や左手に姿を現す。所々にある案内板は“三十六王子道”の案内標識だ。

 

 

 

 

 

 緑のジャングルの中を降り、まもなくで、“お塔谷”の谷音が大きくなった頃、前方に「刀立王子」が現れた。未だ新しい“幟”や箱が、唯一、人の気配を漂わせていた。小憩の後、出発。路は“お塔谷”の左岸を進む。豊かな水を湛えた谷は大石の間を降っている。やがて、両岸が迫って来たところに鉄製の橋が架かっていた。橋を渡って暫らくで谷の音も聞こえなくなり、“岩原”と呼ばれる大きな岩に出会う。ここは、三叉路となっており右へ昇れば、「ツナノ平」を経由して土小屋へと続いている。もちろん、私達は左の「西の川」へと路をとる。

 

 

 

 やがて路は植林の中を降っていく、路はしっかりとしていて迷うような処も無い。右手に目印の古ぼけたテープが下がっている。“小森”への目印だろうか?そして、傾斜が強くなった頃、下方に“お塔谷”が姿を見せた。危なっかしい橋の上流には、10m程の滝が二条かかっている。そして、今朝方通った石垣の間を縫って西の川に降り立った頃、もう夕暮れも迫っていた。

 

 

 

【追記】

 下山後、登山口の脇にある店でアイスクリームを食べながら、道端の“三十六王子道”に関する話を訊ねると、「毎年秋に、二十人ほどでお参りに来てますよ・・・」が、私に“三十六王子道”に興味を抱かせることとなった。

 

 

 

 登山道にはエゴノキの花が絨毯のように落ちていたけど、どの木がそうなのか高くて判らなかった。慣れた表参道コース、土小屋コースが天上のコースとすれば、この道は地下のコースのような不思議な感覚だった。又、紅葉の頃に行こうね。