縄文文化を巡る!(番外編)  
 「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅(四国・愛媛編)・・愛媛県埋蔵文化財センター
 2017年7月19日(水)
 今回の“土壇原(どんだばら)遺跡”については、上黒岩岩陰遺跡を調べる上で関連の書籍などで目にしていたのですが、遺跡や出土品、報告書などがヒットしません。そんな中、愛媛県埋蔵文化財センターが下記の案内をしている事を知りました。松山総合公園にある松山市考古館・松山市埋蔵文化財センターの事は知っていましたが、同じ松山市に別に愛媛県埋蔵文化財センターという組織があることを知りませんでした。
 また、ネット検索でヒットした下のポスターと、“ごあいさつ”の内容には随分と驚かされました。初めの二行の
『 土壇原遺跡群は昭和51〜53年度に発掘調査が行われ、その後、昭和56年度に整理作業を行い「報告書」原稿を作成しましたが公表されることなく今日に至りました。』 との言葉でした。

 実は、土壇原遺跡の事については、以前から気にはしていたのです。後述するように、【データベース『えひめの記憶』から 愛媛県史 考古として、この周辺の遺跡群(各時代について)には、触れられています。そんな折、6月24日に砥部町の『古墳公園』の見学に行ったのですが、古墳から出土したものがどのように活用されているのかが、皆目わかりません。竪穴住居や古墳や石棺などが置かれている公園然とした場所でした。そして、下のポスターに出合ったのでした。

 そんな中、最近まで勘違いしていた事に気付いたのでした。それは、土壇原を含むこの一帯の遺跡群は砥部町に属していると思い込んでいた事です。そうです、この久谷地区は、元々は久谷村であり、本来、砥部町と合併するべき地理的条件なのですが、もう数十年前に何故か松山市と合併していたのでした。そんな事情は、数千年前に住んでいた先人は知る由もなかったので、住居をこの一帯に作っていたのでしょう。
 
 平成28年度 常設展
「土壇原(どんだばら)遺跡群出土資料展」

〜40年の眠りから覚めた?資料〜
[平成28年7月1日(金) 〜 平成29年3月24日(金)]





ごあいさつ

土壇原遺跡群は昭和51〜53年度に発掘調査が行われ、その後、昭和56年度に整理作業
を行い「報告書」原稿を作成しましたが公表されることなく今日に至りました。

 そのため、出土資料は40年間資料倉庫の片隅にひっそりと眠っていました。平成20年度
に一度だけ遺跡群の上に建てられた愛媛県生涯学習センター展示室で「特に注目に値す
る資料」が里帰り展示されています。

 発掘調査が終了して40年が過ぎ、『愛媛県史』『松山市史』などで一部公表された資料
や研究者の目に止まった資料は、わずかに活用されてきました。しかし、多くの資料は、
研究者の目にとまることもなく、忘れ去られたかのように静かに時を重ねてきました。

 土壇原Y遺跡の土壙墓群のように研究史にその名をとどめている遺跡もありますが、ほと
んどの資料は「どの遺跡からどのようなものが見つかったか」周知されないままとなって
います。

 今回の展示では、発掘調査を実施した全ての遺跡について紹介します。見学の方々が今ま
で見たことのないような資料も含まれています。華やかな資料ではありませんが、その
一部をご覧いただくことで、土壇原遺跡へ関心を持っていただければ幸いです。ぜひご来
場ください。
  

 上記、土壇原遺跡の出土遺物を見学したのですが、小生の期待する−つまり、先史時代からどのような形で土壙墓群を作る事となったのか?というような事−ものではありませんでした。つまり、数多くの古墳から出土した出土遺物の陳列のみだったのです。

 以下に展示の様子を載せます。
 

 

 


 

 

 

 

 
以下は、【続・上黒岩岩陰遺跡 とその時代】
 −平成26年度特別展− (愛媛県歴史文化博物館編p74〜76)より
E砥部川下流域の遺跡

 砥部川
下流域には、縄文時代の早期人による生活の痕跡が残されている。そのうちの1つ、土壇原U遺跡は、松山平野南部を流れる重信川支流、砥部川と御坂川に挟まれた場所に形成された標高約60mの河岸段丘上に位置しており、その床面からは、無文土器と石皿が出土している。主柱穴は、壁に柱を巡らせる壁抗の四本柱と考えられており、その間隔は各々が約2.75mを測る。住居祉中央部からやや離れた場所では炉跡も検出されている。

中略

 また、上黒岩岩陰遺跡のある上浮穴郡久万高原町は、標高約400〜500mという四国山間部に立地し、冬季には積雪の多い環境下にあり、こうした背景からも、その当時の上黒岩岩陰遺跡では、通年的な定住生活を営むには困難を極めるため、季節移動を伴った半定住的な生活であったことが推測できる。そうした場合、厳冬期には高知平野もしくはこの砥部川下流域が、季節的な滞在先であった可能性も考えていく必要がある。


 
土壇原式土器

 本形式は、松山市土壇原U遺跡の竪穴建物から出土した文様の無い「無文土器」を標式したものである。その器壁は1cmを越える厚手であり、器面調整は、指頭圧痕を伴うナデ調整を用いている。その編年的位置づけは、押型文土器直前段階のもので、早期前葉と考えられる。
 こうした土壇原式土器が生まれた一因としては、本型式に先行する時期である縄文時代草創期隆起線文土器〜薄手無文土器段階は、上黒岩岩陰等の在り方からも季節移動を伴う半定住的な生活を営んでいたと考えられている。その先行する時代の草創期土器と比べて、土壇原式土器は多量化・大型化しており、明らかに誘導生活には適さない土器であるといえ、縄文人による居住に対する変化があったことがみてとれる。
 また、上黒岩岩陰遺跡をはじめとする長命寺遺跡(四国中央市)や須川丸山遺跡2次調査(八幡浜市)といった県下各地の早期前葉段階の遺跡からは、植物質食料加工具である磨石・凹石類が比較的まとまって出土しており、この時期にこうした道具が急増している状況がうかがえる。
 このように、一箇所に長く居住する「定住性」が強くなったことで、土器自体も器壁が厚く大型化し、かつ多量化となった。さらに植物性食料採集が増えることで煮沸利用としての土器の使用頻度も高まり、土壇原式のような文様を省略した、より実用性の高い土器が求められたことが推測される。
 以上のことから、土壇原式土器は、本県における初期定住化社会を担っていた土器型式の1つと考えられる。
 
≪愛媛県歴史文化博物館蔵≫

データベース『えひめの記憶』から 愛媛県史 考古

二五 土壇原U遺跡

 松山市上野町高尾田土壇原

 四国山脈から松山平野南部に流れ出る砥部川・御坂川は河岸に低位の段丘を形成しながら重信川に流入している。この両河川に挟まれた土壇原(どんだばら)と呼ばれる河岸段丘面上に本遺跡は所在している。標高は六〇mであり、北部に松山平野が一望にできる眺望に恵まれた地域である。本遺跡は昭和五一年(一九七六)の愛媛県教育委員会による土壇原遺跡群の発掘調査中に発見されたものである。
 本遺跡の中心部は方墳である土壇原六号古墳の基盤面上にあって、一辺約四mの方形の住居跡とそれに伴う遺物が発見された。住居跡上面は一部古墳構築の際に削平されていたものの、ほぼ良好な状態で検出された。住居跡は洪積層である地山面を深さ約一〇pほど掘り込んでいた。明瞭な柱穴跡は確認されなかったが、床面中央部からやや離れて円形の炉跡が発見された。床面に貼りついた状態で出土した土器は、いずれも厚手の無文土器である。土器の内外面とも指圧痕による凹凸が激しく、口唇部は丸みを帯びている。これらの土器は上黒岩V式土器の回転押型文系統の土器に先行するものであろう。恐らく、越智郡伯方町叶浦T遺跡出土の早期の土器と併行していたものとみてよい。(長井数秋)

データベース『えひめの記憶』から 愛媛県史 考古

六五 土壇原遺跡群

 松山市上野町土壇原

 松山平野を西流する重信川の支流である御坂川は、その左岸に標高五六〜六三mの広大な河岸段丘を形成している。本遺跡群はこの河岸段丘上の約一八haに分布している。発掘調査は昭和五五(一九八〇)、五六両年の二年間にわたって行われた。その結果、先土器、縄文、弥生、古墳、鎌倉、室町、戦国の各時代の重複する遺跡群であることが判明した。このうち弥生時代の遺跡は七か所発見されている。
 土壇原U遺跡は土壇原五・七号古墳の基盤面上から二棟の建造物跡が発見された。出土する土器は第W様式第2型式の凹線文土器で、時期は中期末に該当する。これら以外にも遺構があったものと推定される。
 土壇原北西端に位置するV遺跡は円形周溝を持つ一三基の古墳群であるが、この基盤面上にも弥生時代の無数の柱穴群があり、一〇数棟分の建造物跡があったと推定されているが、その報告は未発表である。V遺跡の東南端には径約一m、深さ約八〇pの円形土壙墓が七基発見された。その中の一つの床面上には配石があった。それとともに口縁部が欠損した壺の頸部に箆描き沈線文を持つものと、木葉文を持つ壺の破片が出土した。したがって、少なくとも前期中葉を下る時期のものではない。他の六基には副葬品はなかった。
 土壇原中央部の北端の河岸段丘上にはY遺跡(土壇原北遺跡)が所在するが、発掘調査地域は半分であとは柑橘園として残っている。発掘面積一、七〇〇uの範囲内に主軸方向をほぼ東西にとる長方形の土壙墓が五六基と壺棺が一基、それに伴う墓前祭祀の供献土器群が五群発見された。未発掘の部分を加えると優に土壙墓は一〇〇基を越えると推定される。確認された土壙墓群も、その分布からいくつかのグループに分けられ、集団墓の中での家族構成を識別することが可能である。なお、本遺跡の土壙墓の中には二段掘りのものも認められた。土壙墓中副葬品のあるものは一基のみで、それも頭部に相当するところに破砕鏡が一面出土した。しかし、これら土壙墓群の間の空地に何らの遺構も伴わず、直接地山上に大型特殊器台や小型器台、高坏、壺、甕などを一括して置く遺構を五か所検出した。これらの土器群は明らかに供献されたものであり、その対象はそれぞれのグループ別の土壙墓群であったことは明らかである。出土土器は第X様式第2型式から第3型式のものであることから、後期中葉の土壙墓群である。当地方ではこのころ墓前への供献土器として大型特殊器台が使用されはじめたものとみてよく、かつ、大型特殊器台が小型器台から発生したことがうかがえる。
 土壇原中央南部の標高六三mの一段高い河岸段丘上にはX遺跡が所在している。本遺跡からは先土器時代のナイフ形石器が一点と、弥生前期の壺棺が二基、中期の住居跡が二棟、竪穴が一基、土坑が六基、それに古墳中期の内部主体が土壙墓の方形周溝墓が一基と、箱形石棺を内部主体とする方墳が一基、大型埴輪棺二基が重複する遺跡である。遺跡の南端で発見された壺棺二基は小型であり、口縁が小さくわずかに外反し、上肩部に段を持っている。この他、木葉文を持つ小型の壺も発見されている。これらの土器は第T様式第2型式の土器であり、前期前半に編年される土器群である。遺跡の北部では円形と方形プランの住居跡が各一棟ずつ発見されている。住居跡内から出土する土器は、いずれも第W様式第2型式の凹線文土器であることから、中期末に位置づけられよう。本遺跡では中期末に円形と方形の両プランが共存し、竪穴ならびに土坑も中期後半の住居跡に伴っていた。
 土壇原の東南端の段丘崖上の標高五六mの平坦地には、弥生時代後期の一大集落跡である土壇原28遺跡が所在している。詳細な報告はなされていないが、現在までに確認されているのは竪穴式住居跡が二三棟、建造物跡三四棟、竪穴九基、土坑七〇基、溝状遺構二条である。これ以外にも無数の柱穴が検出され、住居跡、建造物跡の数はさらに増加するものと思われる。住居跡は円形プランもあるがその大半は隅丸方形プランである。土坑の中には径一m、深さ七〇pの大型のもの四個が一対になったものもあり、巨大な構造物の柱穴ではないかとみられる。本遺跡出土の土器はいずれも第X様式第3型式から第4型式のものであることから、これら遺構も後期後半のものであろう。なお、将来本遺跡とW遺跡の土壙墓群との関係を追求する必要があろう。
 土壇原の北東端には26遺跡が所在している。28遺跡は本遺跡の北約六〇mの位置にある。本遺跡は中世の上野城築城により、その大部分が削平されていたが、中期後半の円形住居跡が一棟と井戸状遺構が一基発見された。住居跡からは一部櫛描き文を持つ土器も出土しているがそのほとんどが第W様式第1型式から第2型式へ移行する時期のものであり、中期後半のものである。本遺跡の南端、すなわち、女郎池の東部に接して四基の長方形土壙墓が発見された。このうち主軸方向を南北にとる二基の土壙墓内からは深鉢の口縁下に刻目凸帯を持つ晩期末の黒土BU式に移行する土器が出土し、主軸方向を東西にとる二基からは、口縁がゆるやかに外反し、口縁端に薄い刻目を持ち、口縁下に二〜三本の箆描き沈線文を持つ第T様式第1型式に近い甕と、先端の欠けた石鏃が出土した。後者の二基の床面には詰め石用の石が遺存していた。前者は繩文晩期の、後者は弥生前期初頭の土壙墓とみてよく、墓制の変遷を知るうえでの一つの資料を提供している。(長井数秋)

 さて、上記引用の≪データベース『えひめの記憶』から 愛媛県史 考古≫では、土壇原の各遺跡が“先土器、縄文、弥生、古墳、鎌倉、室町、戦国の各時代の重複する遺跡群”であることを報告しています。このことは、この周辺の土地の住環境が良好な事を証左しているという事でしょう。長期に渡って、気候変動も少なく安定的に食料の調達が可能だった事も言えます。そして定住という意味では、年中、温暖で季節移動も必要無かったものとも言えます。しかし、動物たちが塩を求めて、あるいは水を求めて移動するのと同じく、この周辺では得られない食物や生活道具を探し求めることは、先史時代から繰り返し行われて来たものと推測します。その求めるものは、時代と共に変わっていったこともまた必然でしょう。

 また、上図の遺跡地図にある場所は、発掘後、宅地造成によって今は閑静な団地となってしまっています。
データベース『えひめの記憶』から 愛媛県史 原始・古代T(昭和57年3月31日発行)

3 長田遺跡

 遺跡の概要


 長田遺跡の絶対位置は、東経一三二度四七分二六秒、北緯三三度四六分の交差する周辺で、行政的位置は伊予郡砥部町原町二二一から二二二番地とされ、海抜は四九〜五四メートル、伊予灘から直線距離は約九キロを測った。
 松山平野南部に連なる四国山脈の黒森山(一一五四メートル)、水梨山(七四二メートル)などの北斜面を水源とする砥部川は、深いV字谷を形成しながら北流し、やがて重信川にと合流する。この砥部川は下流部東側で釈迦面山麓、原町あたりの河岸段丘、西側に本遺跡を含め、後出する三角・水満田・拾町T・U遺跡へと広がる段丘平坦面を形成している。さらにその西側は、三角古墳群・柳瀬山古墳群などの所在する丘陵部へとつらなる。
 長田遺跡での層序は、二〇〜七〇センチほどの茶褐色有機質土の堆積する第一層(耕作土層)につづき、層厚三〇センチ程度の黄褐色細砂質土層、その第三層は茶褐色細砂質含礫土が約二〇センチにわたって堆積しており、第四層はやや粘性をもつ白色砂質含礫土で地山層を形成していた。遺構は第二層上面から古墳期、第三層・第四層に掘り込んで縄文期のものが存在した。
 検出された遺構は、古墳七基、土壙墓一五基、土坑状遺構二四基、それに柱穴群・列石群である。これらを概観すると、遺跡の南半部に土壙墓が、北半部に土坑状遺構、柱穴群が集中している様相が観取され、聖域とし得るものが区分されて存在したことをうかがわせた。また遺構は、北側・低位の河岸段丘上にむかってさらに広がるものと想定された。
 さて本遺跡を縄文晩期の主要遺跡とし得る所以のものは、さきの土坑状遺構中より多くの縄文晩期に集中する遺物が検出されたことによる。もとより、本遺跡から検出された縄文土器は多岐にわたり、注目すべき縄文早期土器(上黒岩V式・土壇原式・穴神U式土器)、前期土器(中津川式土器・彦崎ZT式土器)、後期土器(六軒家T式・小松川式・六軒家U式・川原谷式・上野V式・上野W式・山神U式土器)が検出されているものの、数量的に縄文晩期土器の検出が圧倒的に優位を占めた。ここでの縄文晩期土器は、現状として四期に細分された県下での晩期土器編年に該当するものが出そろっている。
 出土状況をやや微細にみると、七基を数える長田古墳群のうち二基を除いた古墳封土のなかから、縄文早・前・後・晩期の土器と石器、一五基もの土壙墓中からは、縄文晩期を中心とする遺物が、土坑状遺構の大半から縄文期土器を中心とした縄文早・前・後期土器と僅かの弥生中期土器が検出された。また遺跡第三層からも、ほぼ同様な様相で遺物が採集された。
 発掘調査は昭和五三年(一九七八)から五五年(一九七〇)にわたって実施され、遺跡の現状は、一般国道三三号砥部道路の道路敷の一部となっている。
 
 さて、上掲の遺跡分布は本稿で触れている土壇原遺跡の周辺の遺跡群です。その遺跡群の中、長田遺跡の概要は上記にて引用しました。もちろん、発掘された各遺跡が“先土器、縄文、弥生、古墳、鎌倉、室町、戦国の各時代の重複する遺跡群”であることは、土壇原と同様です。松山平野の南端ともいえるこの地方に、各時代に渡って、大集落が存在していた事は驚きでもあり、興味深い事です。

 そして、縄文早期土器として、上黒岩V式や土壇原式や穴神U式土器が発掘されるなど、交流は広範囲に及んでいるようです。そして、縄文早・前・後・晩期から弥生を経て古墳時代の遺物が発掘されているのが特徴と云えます。特定の時代の一時期のみの遺跡と違って、また別の興味を覚えるものです。山間の岩陰や洞窟などと違って、河岸段丘のような場所の縄文の遺跡というのは、どのような立地条件で選んでいたのかと、不思議にも思えます。弥生以降の水田を開墾した後に、集落を見渡せる小高くなった場所に古墳を作る場合と、狩猟・採取の時代に住居を構える場所が同じ場所で重なる訳は何なんでしょうか?

 さて今回も、データベース『愛媛の記憶』からの引用でしたが、何分、30年以上も前の考察なのです。今の時代、10年も経てば、随分と科学の進展もあるものです。それに、愛媛県下でも新しく遺跡が発掘されているものとも思われます。つまり、これらの文章類もそのつど、『追補・加筆』されたりする事が必要と思われます。その中には、新しく見つかった事実の考察などで、従来の説が否定される事があってもおかしくはありません。