【アイヌと縄文】 
 

≪アイヌと縄文≫ -もうひとつの日本の歴史
(瀬川拓郎 著)からの考察

 

 先日、ドイツへ持ち帰っていた遺骨が返還される・・とのニュースに接しました。以下にその記事を引用します。

ドイツが返還 138年ぶり日本に

 上記の出来事は、長い鎖国政策から開国へと国策を転換した日本列島へと、次々と西洋から“日いずる国”を訪れる頃のことだそうです。そう、“アイヌ”と呼ばれる≪先住民族≫と北海道の地で出会ったのでした。日本の多くの人たちと違う目鼻立ちなどから、ヨーロッパに住む白人と祖先が同じなのではないか・・との疑問が生まれたのは、歴史の詳細が判らなかった当時は仕方がなかったのでしょう。

 そして、≪欧州には日本に関する情報が次々ともたらされた。中でもアイヌ民族は「地球上で最も原始的な民族」とみなされ、人類学の研究対象になった。研究者たちは、当時普及していた頭骨を計測する方法で人種の特徴やその系譜を解明しようとした≫のでした。

 本稿では、沖縄とは違った形で、日本列島で暮らす“和人”とは異なってしまった北海道で暮らす“アイヌ”の人びとの成り立ちを辿ってみることとしました。 
 
【参考資料】
 次の研究(報告資料)がヒットしたので、リンクしておきます。  

 一方、文科省は各大学で保管されているアイヌ人骨の取り扱いについて、≪大学が保管するアイヌ遺骨の返還に向けた手続等に関する検討会(平成28年3月30日)≫との報告があります。 
 


 さて、本題に入る前に右図に掲げた北海道に於ける時代区分表をご覧願います。
 そうです、北海道には弥生文化が根付かなかったのです。そして又、北海道では縄文文化→続縄文文化→擦文(オホーツク→トビニタイ)文化→アイヌ文化と変遷し、近代へと繋がるのです。

 アイヌ文化と云える時代は、1200年頃から明治となる1869年までの間、と云えます。遥か昔、我々の祖先が大型獣を追って大陸の端っこに到達し、その陸続きだった地が氷期の終焉とともに日本列島という離れ島となった後、やがて温暖となった地で“縄文文化”を生み出したのです。
 その縄文文化の一万年の間の後、本州に住んでいた人たちと袂を分かち、弥生文化を受け入れなかった北海道の縄文人は、何を拒んだのでしょう。

 その弥生文化を受け入れなかった事が、後にアイヌ文化へと繋がっていくこととなりました。本州では、弥生文化へと繋がって行く稲作が伝来したのを手始めに、人的交流に留まらず大陸の影響を受けて宗教や文字が伝わって来ました。

 一方北海道では、上記、大陸との交流から隔絶された独自文化の道を進んでいました。水田の普及も文字の普及さえも経験しなかったのでした。

 以下は、
【生命誌ジャ-ナル】
 
縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く -神澤秀明(国立科学博物館) よりの抜粋



4.私たち現代日本列島人3集団と縄文人の関係

次に、現代の日本列島人3集団と縄文人との関係を見たところ、アイヌ、琉球、本土日本人の順に縄文人の遺伝要素が強いことがわかった(図9)。二重構造説で指摘されていたことを、縄文人の核ゲノムを用いて直接的に証明した初めての成果である。(右図)

 ところで最近、アイヌの集団の形成には南シベリアのオホーツク文化人(5〜13世紀)が関与していることが、ミトコンドリアDNAの解析などから提唱されている。私たちの結果もそれを示唆しており、日本列島人の成立ちは単純な二重構造ではないこともわかってきた(図10)。これについては、今後オホーツク文化人の核ゲノム解析による証明が必要である。
(下図)
 
 
 さて、そろそろ本題に入る事としましょう。

 表題に掲げた≪アイヌと縄文 -もうひとつの日本の歴史(瀬川拓郎 著)≫からの考察ですが、小生は主に縄文人や縄文時代と、北海道の縄文人が弥生人と成り得なかった時代までを触れることとします。まずは、≪第1章 アイヌの現郷-縄文時代 「人種の孤島」としての縄文人とアイヌ≫より以下に抜粋。


 この本土人、琉球人、アイヌの遺伝的多様性の分布をみると、それらはほかの東アジア人や、ヨッロッパ人と混血した中央アジアの人びと(ウイグル人、ヤクート人)のまとまりとは反対の方向に分布しています。
 現代の本土人、琉球人、アイヌは直線上にならび、この順でアジア人の人びとから離れていきます。直線の延長上には、かれらの共通祖先である縄文人が想定できます。つまり、本土人、琉球人、アイヌのDNAを特異な方向に「引っ張って」いるのは縄文人であり、そのことは縄文人が現代のどの人類集団とも大きく異なる特徴をもっていたことを物語っているのです。
 縄文人は、上下の歯が爪切りの刃のように噛みあい、彫りが深く、鼻が高いという形質的な特徴を持っていました。これはアイヌにも共通します。そのアイヌは、形質人類学では長くコーカソイド(ヨーロッパ人)に分類されてきましたが、一九六〇年代にに総合調査がおこなわれ、歯冠の形などから本土人と同じモンゴロイド(アジア人)であると結論されました。
 ただし先のアイヌの特徴は、一般的なモンゴロイドとは異なるものです。そのため、形質人類学者はこれに頭を悩ませ、現代モンゴロイド成立以前のモンゴロイド、すなわち原モンゴロイドという仮想的な集団を設定し、アイヌをこれに帰属させたのです(Watanabe et ai.1975)。



≪考察1 何故、異集団の時代の違う人たちと比較するのだろう≫

 このことは以前にも書いたことなのだが、小生が云いたいのは“日本列島の東日本や西日本などで、25,000~15,000~10,000~3,000~1,000年前のDNA比較”や同時期の本土、琉球、アイヌとの比較。そして、その時々の時期のアジアや世界の各地域での比較こそが必要なのではないのだろうか?
 ここでは、縄文人を基としての考察なので、何とも言えないのですが、北東アジアや東南アジアの人たちについては、縄文人が袂を分かれた共通祖先以降、DNA的には変異を見ないのでしょうか?つまり、比較する対象を特定して“AとBとを比較すればXだった”式の筋の通ったものとすべきと考えます。

 つまり、アイヌを対象に比較検討するのは、その先祖にあたる縄文人や、交流のあった地理的に近隣のオホーツクの人たちでしょうし、ず~っと過去に袂を分かれた後の同時代の集団(北東アジアや東南アジアに住む)となるのでしょう。

 今、小生が興味を持っている事は、一行目の疑問の解明のみです。

 
 
 続いて≪第2章 流動化する世界-続縄文時代(弥生・古墳時代)≫より以下に抜粋。


・北上する弥生文化

弥生文化は、紀元前一〇世紀に九州北部の玄界灘沿岸で成立しました。弥生時代前期末の紀元前四世紀になると、日本海を経由して東北北部まで拡大します。その結果、青森県でも灌漑施設をそなえた水田が営まれることになりました。ただし津軽海峡を越えてこの水稲耕作の文化が北上することはありませんでした。
 では、最北の弥生文化の水田が発見された青森県の弘前市砂沢遺跡(弥生時代前期末)の住人は、いったいどのような人びとだったのでしょうか。
 砂沢遺跡の人びとが用いていた土器は、西日本の弥生土器の影響を強く受けたものですが、その製作技術や文様には縄文土器の特徴が色濃くうけつがれていました。さらに土偶や土版といった縄文文化の祭祀・呪術具も多数みつかっています。
 そのため砂沢遺跡では、水稲耕作をおこなう弥生文化の人びとと縄文人が入れかわったのではなく、縄文人が弥生文化を選択的にうけいれたと考えられています。さらに縄文伝統が色濃くうけつがれていた以上、砂沢遺跡の住人が話していた言語も縄文語=アイヌ語であろうとされています。(以下略)


・弥生文化の拒否

 北海道の続縄文人は、青森まで拡大した弥生文化を受容することはありませんでした。それはなぜでしょうか。
 弥生時代(中期~後期)に並行する北海道の続縄文時代前期の遺跡からは、本州の産物が出土します。それは鉄器、碧玉製の管玉、ガラス玉、奄美諸島以南に生息するイモガイ製の貝輪のほか、タカラガイ、ゴホウラ、マクラガイなど南島産の各種貝製品です。石狩市紅葉山33号遺跡の墓からは、多数の碧玉製菅玉と鉄器が一緒に出土しています。
 これらの製品は、本州の弥生社会で権威を示す宝となっていたものであり、だれもが手にできるようなものではありませんでした。続縄文人がこのような宝を入手するに際しては、当然高価な対価がもとめられたはずです。そして、その対処として考えられるのは、北海道に生息する各種の陸獣や海獣の毛皮なのです。(以下略)


≪考察2 弥生文化を拒否した理由≫

 北海道では弥生文化である水稲耕作を拒否しました。しかし、青森以南の弥生文化圏との交流を絶った訳ではありませんし、異文化ともいえるこれらの人びととの交流は続いて行きます。旧石器時代から縄文時代を経て受け継がれてきた“物々交換”は、弥生文化を拒否した続縄文時代以降のアイヌまで続く北海道の人びとに≪交易民≫としての役割で受け継がれて行くこととなるのです。そうです、本州にも存在する“山人”とか“杣人”とか“木地師”とか東北地方での“マタギ”などと呼ばれる猟師などの、農民とはならなかった人々の集団です。
 しかし、“何故弥生文化を拒否したのでしょうか?”その一つは“気候”にあることは、否定できないでしょう。当時、寒冷の地に適応出来ない稲を苦労して栽培するよりも、従前のままの狩猟・採集の生活を続ける事に理由などありません。ましてや、北海道で獲れる魅力的な獲物は、米作りを始めた内地には無い、魅力に満ちていたのでした。
 気候の事で決定的なのは、水田で育む稲だった点です。そうです、稲が育つ時期に日本列島は梅雨に入りますが、北海道には梅雨がありません。そういう自然条件だったのです。このことは、南西諸島などの島嶼部などで高い山と大きな川が流れる平野部が少ない条件なども、同様に言えると思います。世界中のどの地域においても、その地方の気候風土に合う穀物を栽培する事は、だれも否定し得ません。

 つまり長い期間、交易民として尊ばれてきたのは、内地の“山人”や“杣人”などと同様の位置づけだったものと思われます。そして、陸獣や海獣などが獲れない内地には関心を示さないのも当然のことだったのでしょう。


 

以下に国会で採択された決議(2008年)を載せます。

【アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議】

 昨年九月、国連において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が、我が国も賛成する中で採択された。これはアイヌ民族の長年の悲願を映したものであり、同時に、その趣旨を体して具体的な行動をとることが、国連人権条約監視機関から我が国に求められている。

  我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を、私たちは厳粛に受け止めなければならない。

  全(すべ)ての先住民族が、名誉と尊厳を保持し、その文化と誇りを次世代に継承していくことは、国際社会の潮流であり、また、こうした国際的な価値観を共有することは、我が国が二十一世紀の国際社会をリードしていくためにも不可欠である。

  特に本年七月に環境サミットとも言われるG8サミットが、自然との共生を根幹とするアイヌ民族先住の地、北海道で開催されることは、誠に意義深い。

  政府は、これを機に次の施策を早急に講じるべきである。

 1 政府は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を踏まえ、アイヌの人々を日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族として認めること。

 2 政府は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されたことを機に、同宣言における関連条項を参照しつつ、高いレベルで有識者の意見を聞きながら、これまでのアイヌ政策をさらに推進し、総合的な施策の確立に取り組むこと。 右決議する。


 上記決議は、2007年9月13日
「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が、国連総会で採択された(賛成144ヶ国、反対(米国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド)、棄権11ヶ国という圧倒的多数での採択)ことに基づいて日本でも法令化されたものです。上記反対する国には先住民族が住んでいるという事情が存在するというのは、どういうことを意味しているのでしょうか。


 この稿では、アイヌが出現するまでの歴史を述べて来ました。そして、前掲の先住民族とアイヌに関する記述で何か違和感を感じるのは小生だけなのでしょうか。国連で云う先住民族と呼ぶ人たちは、概ね大航海時代に、南北アメリカ大陸やオセアニアなどへヨッロッパなどから移住し、現地の文化を凌駕した国を対象としているものと考えます。


 さてWikipediaではこの民族の定義を以下のように述べています。

【民族】

民族(みんぞく)とは一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体をいう。土地、血縁関係、言語の共有(母語)や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となるが、普遍的な客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多いことから、むしろある民族概念への帰属意識という主観的基準が客観的基準であるとされることもある。また、日本語の民族の語には、近代国民国家の成立と密接な関係を有する政治的共同体の色の濃い nation の概念と、政治的共同体の形成や、集合的な主体をなしているという意識の有無とはかかわりなく、同一の文化習俗を有する集団として認識される ethnic group(ジュリアン・ハクスリーが考案)の概念の双方が十分区別されずに共存しているため、その使用においては一定の注意を要する。


 同様にWikipediaで

【大和民族】

大和民族は、縄文時代以前から日本列島に住んでいた人々のうち、弥生時代大和奈良盆地の南東部)を本拠地とする人々を中心に形成されたヤマト王権(大和朝廷)に属する民族の呼称。ヤマト王権の勢力拡大に伴い、一地域名であった「大和」が日本を広く指す呼称となり、民族名ともなった。ただし、ヤマト王権の成立過程は現段階でも明らかになっておらず、謎も多い。

大和民族の形成当初は九州地方隼人や、東北地方蝦夷が異民族とされていた。しかし彼らは中世以前に大和民族と完全に同化している。琉球諸島の住民は中世に独自の王朝を築いた歴史を持ち、日清両属状態を解消して完全に日本に組み込まれたのが明治になってからであるため今でも文化的異質性が残っているが、文化的・言語的には本土住民と同系であったから、近代以降の歴史の中で日本人としての一体感が醸成された。さらに大和民族からは明らかに異民族であるアイヌも大和民族との混血や文化的同化が進んだ結果、(民族的)日本人と大和民族の範囲はほぼ一致するようになり、ことさら大和民族という呼称が使われることは稀になっている。


 

 
【考察3 何故、アイヌが先住民族と呼ばれているのか】

 先に引用した決議は、アイヌが先住民族であり明治政府の発足以降のアイヌの人たちへの対応について問うものなのです。もちろん小生は、明治政府による同化政策などでアイヌの人たちが抑圧されてきた経緯を知っています。しかし、数万年もの間同じ文化(旧石器→縄文文化)をもっていた祖先が、何の因果か二千年前に袂を別ちながらも交流を続けて来たものどうしです。先に記した南北アメリカやオセアニアに白人が進入してきた経緯とは全く異なります。

 まず、上記引用した民族の定義についてなのですが、そもそも、アイヌを“アイヌ民族”と呼ぶことについて小生は違和感を覚えるものです。これは、一部の人たちが“大和民族”と呼んでいることへの裏返しなのでしょうか。小生は広義では、先祖を縄文人に持つ現日本列島に住む人々は同じ民族であると考えます。アイヌが縄文から弥生でなく、アイヌ文化という独自の文化を築き上げたのは、単に北海道という生活圏があったからと推測します。同様に、一時期、琉球王国を築き現在の日本と中国との交流を行っていた沖縄に関し、国連の人種差別撤廃委員会などが過去4度にわたって、沖縄の人々を「先住民」と認定していることに異議を唱えています。

 ただ、アイヌ問題と同様に、日本政府としては先の大戦後の沖縄の歴史は、アメリカの人身御供のような扱いなのじゃ~ないのでしょうか。あくまでも、アイヌや沖縄の人びとへの差別や偏見の問題と“民族&先住民”問題とは、その論旨が異なると考えますが、差別問題についてはこの稿での本旨ではないので、深くは触れないでおきます。。


  
≪次項に続く≫