このページは新着が上に来ます。古い日付は順次下段となります。

1月


 
29日【滑川渓谷】



 4日に皿ヶ嶺に行ったっきり、みち歩きや大阪の写真展に行ったり、病院通いだったりで、山・撮影には行けていない。この間、皿ヶ嶺を見ると霧氷が出来ているのが分かるのだが行けなかった。今日も皿ヶ嶺に霧氷ができているようではあるが、暖かいのでそれ程ではないだろう。山へ行くにはそれなりの準備がいるし・・・と、簡単に行ける滑川渓谷に決めた。

 昨年末に来た時に滑川清流ハウスの人が、横にある無料駐車場の手前の広場に有料駐車場作ってあるのだが、整備するのにたくさん費用がかかったと言っていた。カンパの意味を込めて有料駐車場に停める事とし、料金箱へ300円を投入して、10時45分出発。 

 10時55分、遊歩道入口まで道路を歩く。昇ってきた太陽に、霜の下りた地面が温められて靄が上がっている。


 渓谷に入っても氷は張ってないし、ツララも出来ていない。融け残っている氷を探して少し写す。梯子を三つ上がり、11時48分に木橋を渡る。


 その後の遊歩道は、氷も融けてしまっていて写すものもなく、何回も写している甌穴を写して奥の滝に12時15分到着。帰りは、途中から梯子をパスする上の道を歩く。下に見える木橋に登山支度の2人連れが歩いており、音がしたので見ると一人が木橋から落ちたみたいだった。直ぐに木橋に上がったんだけどね。

 12時40分、滑川清流ハウスに着いたが、誰も来てなかった。駐車場に他県ナンバーが来ていて支度をしていた。「ツララは融けていました」と言うと、ツララが出来る所とは知らなかったみたいで、単なる観光に来たみたいだ。駐車料金300円を投入して渓谷に行った。それにしても、温暖化で以前のようなツララは出来ないのだろうか。



 19日~21日【匠メンバーズ展・万博記念公園】


 去年の匠メンバーズ展の時は、おっちゃんも初出品したにも関わらず、出発直前の寒波到来で欠航が相次ぎ、予約をキャンセルし会場に行けなかった。今年は、おっちゃんは新型コロナ以降で初旅行となり出掛ける事が出来た。

                 
去年の展示写真

 写真展の度にいつも来て下さっている方が、去年の展示写真を撮っていて送って頂いた。SPACE-2 の入口に並んで展示されていたようだ。



 
19日(金)


 伊予鉄郊外電車の最寄り駅から始発に乗り、JR松山駅7時20分発の特急に乗る。岡山駅での新幹線への乗り換えの時間があまりなかったが、無事に乗り替えれた。
 新大阪から大阪へ乗り替え、まずは、宿泊ホテルのロビーまで。11時46分に到着し、荷物を預ける。ホテルのすぐ下の階の食堂街でラーメンを食べ、13時30分に富士フイルムフォトサロンに着いた。ロビーに、山岳写真の仲間が既に来て待っていてくれた。(案内状には2時に会場にいますと書いてあったのに、案外見ないのね)


 写真展のタイトルの画像に私のブナの写真を使って下さっていた。初日だったので、閉館後にオープニングパーティがあり、参加者の有志と交流をした。


20日(土)


 翌日は10時に会場に出掛けた。左の画像は、おっちゃんの≪雪降る河原≫、≪秋色が染まる≫。真ん中の画像は、私の≪閃光に映える≫、≪森の王女≫。たくさんの奈良の写友や、いつも来て下さる方などに見ていただいた。右の写真は、ロビーから室外を写す。

21日(日)

 新幹線に乗るまでの時間つぶしに万博記念公園の太陽の塔の内部が公開されているので、見に行くことになった。2018年に公開された当初から、大阪に行った時の時間が空いた時に行こうと思っても、チケットが取り難かった。予約は、ネットでパスワード等も設定しないといけないので躊躇していたが、なんとかクリア。年月が経って空いてきたのか取れた。

 9時35分、モノレールで万博記念公園駅に到着。大阪在住中は、近かったので良く撮影に来たので懐かしい。


 10時30分(20分前に受付)の予約なので、園内を散策する。梅林の紅梅が咲きかけているだけだ。

太陽の塔内部



 10時10分に受付に行く。予約者だけなので、混雑はしていない。持参のカメラでは、入場して階段を上がるまでの間は、写しても良いとの事。階段からは、スマホで、レンタルスマートフォンケースを500円で借りると、写しても良いとの事で借りた。ビニールケースの中にスマホを入れて、たすき掛けにして写す(らせん階段なので、自由にスマホで撮ったらダメなシチュエーションがあるのだろう)のだが、半分はボケてしまっていた。


 この画像は、スマホで撮ったもの。写すのに気をとられて、ゆっくり見れなかったな~。真ん中と、右端の画像はそれぞれ太陽の塔の左手の向こう、右手の向こうだ。光が赤・ピンク・青・紫と変わるので好みの色で撮るのは難しい。10時45分、あっという間に出口に出てしまい、ミュージアムショップに寄るのを忘れてしまった。


 太陽の塔の後ろ姿、自動車のイベントを横目にレストランで昼食をとる。12時15分、自然園に行く。鯉が口を開けて寄ってくるが、餌はないのよ!


 ハス園をグルっと周り遊歩道を歩く。山茶花が満開で散っているのも良かった。


 13時30分に園を出て、外のコーヒーショップでコーヒーを飲み、モノレール・電車・新幹線・特急列車を乗り継ぎ、19時23分に松山へ帰って来た。



 10日【金毘羅道】 松前町&伊予市



 リウマチの病院の診察が13時前に終り、行きつけのうどん店でお昼を食べた後、6日に伊予市方面の金毘羅道の探索でまだ見つけていない道標を探しに出掛けた。ここにある筈と探すのだが、見つからない。近くのJAの人に尋ねるも見たことがないとの事で、JAに車を置かせてもらい、歩いてみる事にした。

 おっちゃんが参考にしている伊予市の図書館で借りた資料(昭和五十八年 篠崎勇 編)の写真では、庭に植えている花(例えば水仙とか)の中にあるようの見える。駐車場の向こうの網と生垣の向こうに、何やら石柱の上部のようなものが見えたので(左の写真)覗いてみると、まさに!写真と同じ道標だ。おっちゃんを呼ぶと「よくもまあ見つけたな~」とビックリしている。周りの小道からも覗くのだが、今一つ正面が見えない。個人の住宅の庭の中だし、住宅には誰も住んでないようだったが、ここまで写すのが精一杯だった。私は、意外と常夜灯・石柱等を見つけるのは得意なのだ。(^^ゞ


 次に探索の石柱の資料の写真(左)は、木の壁にブリキの宣伝がたくさん貼り付けられていたのだが、新たにブロック塀が建てられて道路側にきちんと立っていた。この場所は、近くに住む女性に聞いたんだけどね。


 6日の探索の後で、資料を見ていたおっちゃんが、上吾川市ノ坪、太刀打地蔵前にある[さぬき道の道しるべ]を見落としたと言うので、太刀打地蔵とは?と調べていて、面白い話(下記)があったので、探してみる。結局、近所の人に聞くとタケチ工業ゴムの前にあると判明。今でも、お祭りをしているらしい。 肝心の[さぬき道の道しるべ]はいくら探しても見つける事は出来なかった。

 その後、伊予市長尾橋(資料による)の道標を探し、あちこち歩いたが見つけられなかった。次の課題だな。


データーベース「えひめの記憶」

二七、太刀打場の柳 (上吾川)

 今から四五〇年ほど昔は、戦国時代といって国の方々で戦いがくり返されていた。そのころ、稲荷の明見の田で、ひとりの百姓女が麦まきをしていた。そこへ、敵に追われて逃げて来たのか、疲れきったひとりの武士が近寄り、
「ここに金がある。これをやるから、誰が来てもわしのことをいうてくれるな。」
と頼んで、田の畦にそのお金を置くと、東の方へ走るようにして逃げて行った。それからまもなく、また、ひとりの武士がかけつけて来た。
「これ、そこの女、ちょっと前にさむらいがここを通ったであろ。そいつは、どちらへ逃げたか教えてくれ。ほれ、この金をとっておけ。」
と、言葉するどくいった。欲に目のくらんだこの女は、金をもらうと黙って東の方を指差した。
 武士はたちまち、その方へ駈け出した。そして、上吾川の市の坪の辺りで、前の武士に追いついて激しい斬り合いとなった。それは、まことにすさまじい、死にもの狂いの戦いであった。ところが、不運にも、前の武士の刀が折れてしまった。こうなると、勝敗はもう目に見えている。一方的に斬り立てられ、斬り伏せられて、ついに息が絶えてしまった。それを見とどけた武士は引き返し、さきの女の所まで来て、ここで何を思ったのか、腹を真一文字にかき切って死んでしまった。二人の間に、どんないきさつがあってのことかわからないが、村人たちは、死んだ二人の武士の心を哀れんでいっしょにして葬り、ここを太刀打場と呼んで、柳の塔婆(墓の代わりに立てる塔の形をした板)を立てた。すると、どうしたことか、この塔婆から芽が出、根が出て、ぐんぐん伸んで大木になったが、今はもう枯れてしまって見ることはできない。
 さて、その翌年のことである。稲荷や上吾川の一帯に悪い病気がはやりだし、ついには死ぬ人さえも出てきた。これは、死んでしもうたあの二人の武士の恨が残っていて、それがたたっておるのであろう、ということになった。このまま放っておいてはいけないということになって、明見をはじめ、上吾川の布部・市の坪・十合の村人たちが集まって相談をした結果、この太刀打場にお堂を建てて、ねんごろに二人の魂をまつることにした。
 それ以来、悪病はやんだ。それからは、毎年お盆前の一二日になると、明見の人たちが子供らといっしょに、この太刀打場の仏様を迎えに行く。そして、稲荷の客にある庵で、鉦や太鼓をたたいて念仏を唱え、盛大にお祭りをしてから後、もとのお堂へお送りするようになった。この行事は、大正時代の終わりまで続いていた。
 今、このお堂は、昔の面影はなくさびれてはいるものの、六坪(約二〇平方㍍)ほどの敷地の中にあり、時々近所の人びとが訪れている。この武士の名は、一木弥十郎(八太郎)、大久保伊賀守といった。この伝説は、稲荷・布部・市の坪などで、それぞれ少しずつ違った形で語られている。



 6日【金毘羅道】 伊予市



 4日、山始めに皿ヶ嶺に行ったので、[waiwai隊のみちあるき]始めもしないと、と金毘羅道探索に出掛けた。伊予鉄道の郡中駅近くに車を停めて10時50分に歩き始める。7分で、一つ目の常夜灯を見つけた。いつものように、おっちゃんが下調べした地図を持って歩くのだ。


 バス停がある白水の市営住宅前を通り、11時18分に道標を見つけた。この道しるべは、珍しい円柱だ。右・さぬき道と掘ってある。


 11時29分、常夜灯がある。石鎚山・象頭山と掘ってあり、三十一里の道標が横にある。この常夜灯は天辺の宝珠石が左にづれているし、笠も割れている所があるので、なにかで落ちた後に上に挙げたんだな。1日の能登地震のような事が起これば、常夜灯等は倒れてしまうんだろうか・・・。
 11時41分、道標がこの辺りにある筈と探していると、池の堤に上がる階段の上になにやら立っているのが見えたので上がってみるとさぬき道の道標だった。

 池の横の道を南に行き、11時55分、常夜灯と、さぬき道・へんろ道の道標があった。道標は埋もれている。


 地図に依れば、次に道標がある筈なのだが見つからない。雨がぽつぽつと降ってきた。六反バス停を過ぎてタケチ工業ゴムの横にある上吾川集会所で落ち着いて地図を見て、「この印は工場よね、それじゃ~工場の向こうよ」と引き返す。そして、さっきの六反バス停の所から旧道があり、金毘羅道三十一里半・谷上山道二十三丁の道標がみつかったのだった。12時19分とお昼を過ぎたので、空家の軒下をお借りして買ってきたお握りを食べた。地図では、工場のすぐ横の道に常夜灯がある筈なのだが、見つからない。

 12時37分、上吾川集会所前辺りで雨が本降りになったので、集会所前に置いてある椅子に座って、雨が上がるのを待つ。


 13時15分、雨が上がって来たので仕切り直し、工場の辺りを探索したのだが見つからず、そのまま道路を進むと、旧道が見え、六地蔵・お地蔵さんが見えた。その道を少しで常夜灯が見えてきた。参考にしている愛媛県歴史の道の地図は、出てから40年は経っているので、辿るのは難しい。疲れてきたので今日の探索は終りとなった。14時頃駐車場に戻る。


 車に戻るとおっちゃんは、まだ帰り道の松前方面に行く(近いそうだが・・)と言う。車を道端しか停める所がないので、「私が乗っている方が都合がいいでしょ」と、車の中で待つこととした。

 その模様は、≪waiwaiのみちあるき≫ 金毘羅道へ続く にアップしていますのでよろしく!

【waiwai記】
 松前町の道しるべ一基と二つの常夜灯は、直ぐに見つける事が出来たが、もう一つの道しるべは苦労しました。そのあたりについては、後日ふれることとします。


 4日【皿ヶ嶺】



 今年の山始めは「やはり皿ヶ嶺でしょっ」と出掛ける。上林林道には雪はぜんぜんない。途中で、花友のEさんの車が停まっていて、乗り込むところだったので、私たちも車をとめて新年の挨拶をした。水の元には松本ナンバーの車が停まっていた。風穴から上ろうと思っていたのだが、ふと見上げると北斜面に霧氷が出来ているのが見えた。昨日は雨だったし暖かいので霧氷は期待してなかったのに、ラッキーと急遽変更(いつもの事だが)して上林峠から上ることにした。
【waiwai記】
 何時もと林道の様子が変(?)と走っていたが、林道の端に溜まっている落ち葉が綺麗に整理されて、道に覆いかぶさっている笹などが綺麗に駆られていた。お陰で、道幅は2倍になっているので、随分と走りやすい。

 11時30分、上林トンネル南口の少し先の広場に車を停める。少し青空も見えて来たのだが、すぐ曇ってきた。上り始めて直ぐに、皿ヶ嶺の肩の北半分に霧氷が出来ているのが見えた。11時48分、上林峠着。


 12時5分頃から木々に薄~く霧氷が付いて来た。カメラのホワイトバランスを☀にして撮る。帰宅後、おっちゃんが言うには「間違えて曇天マークにしてしまっていた」そうだ。


 12時15分、肩に到着。今日は、随分とスムーズに上がってきたように感じる。竜神平の分岐までの森は靄が出て幽玄の世界だ。今日は誰れの足跡も付いていない(少し古い足跡は残っていた)ようだ。


 12時25分、分岐を風穴方面へ進む。霧氷はだんだん薄くなり、靄もなくなってきた。苔の花(実?)に霧氷が付いているのを撮ったりしながら歩く。私が一生懸命撮っていると、おっちゃんはさっさと先に行っていた。


 おっちゃんが、木のところで一生懸命撮っていたので追い着いた。この木ももう少し霧氷が付いていればね~。風穴から来た直ぐの竜神平への分岐を風穴方面へ進む。こちら側は霧氷が薄くなって来たが、森のフラダンサーまで行ってみる事にした。


 予想通りに、こちらは霧氷が薄いのでカメラは出さずに直ぐに引き返す。スニーカーの単独女性が風穴方面から来た。今日始めての登山者だった。上りは良いけど、下山時は大丈夫かな~。13時30分、竜神平に到着し、愛大小屋に入る。先客の男女二人が食事中だった。男性は広島、女性は伊予市からとの事。しばし雑談だ。風穴には鹿児島ナンバーの車があったとの事。帰省の人が多いのかな。愛大小屋に置かれているノートには、今日の日付には<松本から>とか<鹿児島から>などの書き込みがあった。

 今年初めての協力金(2人分200円)を入れて、13時55分愛大小屋を出る。この小屋のお陰で冬でも来れるからね。外の温度計は0度だった。今年の干支、龍神様を拝んで反時計回りに周回路を歩く。


 森の中は霧氷は無いが分岐が近づくと、雨氷が付いてきた。14時25分、分岐を上林峠方面に向かう。先程の女性のスニーカーの靴跡らしき足跡がベンチ辺りまで付いている。私は、大阪で写真教室に入っていた時に買ったチェーンアイゼンが年末に見つかったので、着けてみた。こちらのコースは危ない所はないので、効いているのかは、良く分からなかったけどね。


 14時52分、上林峠に下りる。ドコモの点検路から皿ヶ嶺の肩の霧氷を写す。


 上林トンネル南口まで来ると、県警のパトカーが停まっている。「何かあったのですか?」と聞くと、「いいえ」との事。「山へ行っていたのですか?」と聞かれたので、「皿ヶ嶺に霧氷を見に行ってました」と答える。一瞬、先程の女性が助けを呼んだのかと思ったのだ。そのうちに、久万高原町方面に下りて行った。パトロールに来ているのね。

 ほら、道路の幅が広いでしょ! 年初めの山は、結構、良かった。



 1日【初詣】


 
今年の年賀状の写真はおっちゃん          元旦は、おっちゃんがお雑煮と、鯛を焼くのが我が家の習わし



 ゆっくり起きて、お雑煮等を食べて、年賀状の配達を待ち、去年来なかったので出していなかった方から頂いた分の年賀状を印刷し、郵便局へ持って行く。13時40分、まずは途中にある宇氣洲神社に参る。ここには、おっちゃんの趣味の石・金の常夜灯があるのだ。




 そこから家のあいだの道を歩くと、最近道路工事をしている所(今年、開通する<東温スマートICへの最寄りの交差点>)を横切る。この辺りの家が立ち退いている。郵便局で年賀状を投函し、夜間窓口が開いていたので、足らなくなったらと思って、余分に年賀状を買っておく。2、3人同じような人が来た。

 14時、香積寺 (隻手薬師)に着く。本堂までは長い列が続いていた。おっちゃんが「デジカメの電池が切れた」と言って居る。以下は、スマホ写真だ。本堂のお参りを済ませ、奥の院へ。


 いつものように、移された讃岐街道の道しるべを写す。大師堂をお参りして、<お札>を買って帰宅だ。

 軽い昼食を終え、おっちゃんとTVを観ていていると「緊急地震速報です」と、画面が切り替わった、アナウンサーも各地の震度を伝えるのだったが、「津波警報が出ました」から、「大津波警報」が出た頃からの口調が一転し、緊迫感を伝えるものと変わった。定点カメラの揺れが半端ない時は、これは大変だと目が釘付けとなった。震度7とは!! リアルタイムで見たことはなかった。