2014年     


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 17日【千里(せり)城址】

【waiwai記】
 城址巡りに勢いがついているこの頃です。今回は砥部町にある“千里山”の城址としました。この千里山という名は、大阪への転勤時代の住所でした。ただ、大阪は吹田市の“せんりやま”でしたが、こちらは“せりやま”(砥部町・千里にある城山)と呼ばれるようです。

13:34 登山口   
 登山口は砥部町の銚子ダムへ向かう道の途中にあり、国道379号線から銚子ダムへ向かう道に入ると『砥部陶街道』とは違う『砥部四国 ×番札所』の案内標識があった。以前にもこの呼び名に出合っていたが、この時は思い出せなかったのだ。対向車とすれ違うのが困難な道幅の林道を暫らく走ると、右手に案内の石柱と山道を発見。少し広くなった道路脇に愛車を停め、出発は13時35分。

   
 山道へ入ると直ぐに道脇に墓石が建っていた。勿論それらの墓標は、城が廃止された江戸時代以降のものだ。道は良く整備されていて、写真のようにコンクリート製の横木が積まれた階段状の道が続いているのだった。整備された道は足に優しい枯れ葉が敷かれた道だった。

  
 所々で猪のブルで掘り返された場所などもある。また、朽ち果てた看板に行政の現在が推し量られるのだった。20分弱の急坂登りで城跡らしい場所に着いた。そこに建つ案内板の年号は平成四年だったので、22年の歳月を経ていた。

 13:52 千里城址 
 2007年(7年前)にあった東屋は既に倒壊していて、隅っこに廃材として積まれていた。この城址は今まで辿った中でも最大の広さを誇っていた。しかし、中世にこんな山奥の山の上に城を築いていたのは何故なんだろうか?確かに攻め落とすのは大変だろうけど、ここへ立て籠もってしまったら、兵糧攻めは簡単だろうと誰もが考えると思うような場所である。

  
 しかし、先ほども記したように登山道の整備に金を掛けた割には、それ以降は、何等手つかず・・・の状況。行政の一貫性の無い事業はどこの市町村も一緒である。帰路に立ち寄った銚子ダム公園と共に、何らかの整備の手を加えれば人も寄るものと思うが・・如何か?

  炭焼き跡
 この城山も平坦になっている頂上付近を中心に、植林されているようだ。つまり、山の北側の斜面には植林の手は入っていないのだ。林道がある千里集落(といっても二軒のみか?)側のなだらかな傾斜地が植林されている。

 14:30 下山
 さて、頂上広場でコーヒを沸かして飲み終われば降りるのみである。そして、ちょっと寄り道である。登山口脇にある畑が現役のようなので、ちょこっと見に行きその下の民家まで降りると、作業中のオジサンに出合った。その方は、ここでは住んでいなくて下から畑作業に来ているそうだった。また、その道はすぐ先で行き止まりだと教えてくれた。

14:40 登山口 銚子ダム 千里山
 帰路立ち寄った銚子ダム公園は、静かな環境の素晴らしい場所だった。傍らにキャンプサイトまで整備されていてレクレーション施設としては申し分ありません。そして、ダムサイトからは、城山のピダミダルな全容を望むことが出来る。しかし、前述のとおり、アクセスの道路が狭すぎるのです。要所に離合の可能な場所を設けるだけで大分、改善は図れますが・・・。

 最近続いている城址巡りは、昼食後の手軽なお出掛けで廻れますので、病み付きになりそうです。こちらとしては、お散歩のバリエーション版程度に考えているので、“××巡り”というように大げさには考えていません。また、前述の『砥部四国 ×番札所』の案内標識は、皿ヶ嶺への六部堂越えの路を辿った際に出合った“久万新四国88ヶ所”の標識だった。このように四国には、あちらこちらに××四国88ヶ所があり、全部を巡ると何百ヶ所となるのか?


 16日【花山城址・オノジ】

【waiwai記】

花山城址
 小生の病気療養中に行った“城址巡り”の続編となる上林の花山城を見付けた。相棒が「そこって、皿ヶ嶺からの帰りに五月に“こいのぼり”が建っている山じゃな〜い」と言うじゃありませんか?この花山城址へは、上林・花山からの路を使うのだが、1/25,000図にも記されていた。

12:53 上林札場 花山  花山への林道入り口 12:58
 花山へは、上林小学校を左折して拝志川を渡って奥へと向かう。そして、集落の外れの利山への別れが或る手前の林道を辿るように路は左折し続いている。私達は、集落の中の邪魔にならない道路脇に愛車をデポし、徒歩で向かった。

シロバナタンポポ  13:6
 林道へと入って直ぐに、相棒が「これって、珍しいんヨ」と写真を撮っている。『シロバナタンポポ』らしい。普通、“タンポポ”と云えば黄色を連想するのだが、実は黄色いタンポポは外来種だそうだ。さて、城が建っていた(その当時は、砦みたいな規模だったのだろうと推測する)当時と違って、道の両側は植林されている。

 由来の看板 上林が見える
 上林を車で走っているだけでは見ることが出来なかった小屋が現れた。ログハウス風の小屋には≪水の元ロッジ≫と書かれていた。林道の入り口からは10分ほどだった。その広々とした頂上の一段下にも均されている場所があり、そこには『重信町』の城址案内板が設置されていた。そこからは、西の方角が開けていて集落が眼下だった。

竹林 13:17 タチツボスミレ 13:29
 先日来、古城址巡りをしているが、城と云えば思い浮かべるのは“姫路城”や“松山城”の天守閣がある石垣に囲まれた城だが、戦国時代の城とは今で言う砦様のものだったのだ。このあたりは、NHKの大河ドラマで承知の事。さて、帰路も淡々としたものである。もう、道端に咲くスミレも春の装いである。また、こういう集落にあるお墓は、近代のお寺の墓地とは少し違っていて、回りの風景と違和感が無いのが不思議に思える。

オノジ
 さて、次の目的地は集落の入り口近くまで引き返す。先ほど、山道への入り口は確認済なのだ。

右側へ上がって行く 13:30  
 この“オノジ”については、hpの記述を良く読まないまま訪れたので、どういう謂れがある場所かについて把握せず来てしまった。それが、後の行き違いとなるのだが、そんな事は大した問題にはならないのが我々の常である。それはそうと、猪除けのネットの個所を過ぎれば、谷状の場所を回り込むように路は続いていた。その谷の底には青い水を湛えた池が垣間見えた。地図上にはそんな印は見出せないのだが・・・。

 右手の奥に行ってみる オノジ 13:44
 その谷状の場所を時計回りに6時の方向から12時方向まで回り込むと、路はUターンし尾根状の場所を少し上がり降っている。堀り割り状の道を行くと、その右手の小高い場所が開けていた。藪の先に祠(中は空っぽ)が鎮座していたのだった。回りの景色も見えないので、目的の場所は先にあるんだろうと、先ほどの山道へ戻り、元の道を辿ったのだった。

13:45  
 路はどこまでも降りそうで、コンクリート製の水溜りがある場所から尾根へと藪を掻き分けて突入である。今までの路とは違って、踏み跡程度の路は猪の遊び場と思われる場所がそこかしこにある。植林の木にも真新しい間伐の痕などもあるものの、植林の中、周りの景色を見渡すことは出来ない。

尾根道 14:4 林道に下り立つ 14:23 戻ってきた
 尾根を辿ると少々のアップダウンは必定である。暫らくで、下方に林道らしき道に出合った。しかしその道は、車が通った形跡のない路だった。ここで相棒に渡していたプリントを確認である。なんのことは無かった。先ほど立ち寄っていた祠が“オノジ”と呼ばれる場所だったのだ。


 帰路、例の猪除けネットから左折し墓地に寄ったのだ。家族連れが来週の“お彼岸”に向けて、お墓の掃除に参っていた。ちなみに、上の写真の民家の後ろの山が“オノジ”で、その左奥が城山(花山城址)である。また、後方には塩ヶ森から善神ヶ森へ続く山並みだ。


 15日【皿ヶ嶺】

5日 七折梅林
 4日夜の天気予報で明日午前中は雨との予報だ。おっちゃんが「七折梅林に行こう!」と、せっかく言ってくれているのだからと早起きして行ってきた。と言っても梅林の中じゃないのね、梅林を遠望出来る所なのだ。先着のカメラマン一人と、後からもう一人が来ただけだ。雨が降って靄が出ても、出過ぎると梅林も見えないし、薄すぎると鉄塔がみえるし、なかなか難しいのだ。

 

11日 梅林

 
 夕方近くに青空だと、瀬戸内海に太陽が沈み、雪の石鎚山がピンク色に染まるかもしれないのだ。東温市の城山にある梅林越しに石鎚山が見える筈だと、おっちゃんが言うので出掛ける。ここの梅林は白梅のみだし、あまり剪定されてないので今ひとつだ。石鎚山も霞んでスッキリ写す事は出来なかった。良かった事は、この前は通らなかった道を歩けたという事だ。


15日 皿ヶ嶺
 14日、雲の切れ間から皿ヶ嶺が白くなっているのが見えた。天気は昼から回復傾向だったので、おっちゃんに言うも今ひとつの返事だった。夕方になり、おっちゃんが「皿ヶ嶺がすごい」と言ってくる。朝から言っているじゃないと思うが、明日行こうかと言う事になる。

 水の元を過ぎた所の看板 風穴への分岐の向こう側の看板
 この冬は、おっちゃんの闘病で冬山は行けない事と思っていたが、2月24日には、雪の皿ヶ嶺に行けた。霧氷の皿ヶ嶺は行けなかったな〜と思っていたので嬉しい。(*^。^*)

 土曜日だし、登山者が多いだろうなと思いながら車を走らせる。所々、昨朝の地震の影響か小石が落ちている。水の元を通り過ぎた所に通行止めの看板がある。道路の真ん中から右側に通行止めの柵があるものの、左半分は通れるので風穴までは大丈夫なんじゃない と通り抜ける。すぐ先で駐車している車の方に通れるかと聞いてみると、「スタットレスなら大丈夫じゃないか」との事。上から下りてきた方に聞くと、凍っていたから引き返したとの事だ。それならと通ると、カーブの所が凍っているだけで難なく通過できた。風穴に右折するトンネル方面の道路はきちんと封鎖してあった。

9:8 風穴駐車場より 登山口 9:21 地震の影響か? 石が落ちている
風穴の駐車場には一台駐車しているだけだったが、そのうち2、3台の車が来た。9時21分に登山口を出発。薄っすらと雪がついているだけだ。登山道に地震の影響か石が一個転がってきている。

9:37 アイゼンを装着  
 9時37分、直登コースへの分岐でアイゼンをつける。駐車場で出発準備をしていた二人組が先行していった。午前中なので雪は締っていて歩き易いのだが、雪が解けて登山道の土が出ている所は靴一足分、山側に踏みしめて固まった所の方が歩き易い。今の時期これだけ残っているのだから今年の雪の多さがわかる。

へっぴり腰  
 それでも、ロープをかけて下さっている所はやはり、ちと怖い。慎重に歩を進める。沢の所はこの時期ならではの雪解けの感じが良い。何本目かの沢のところで先行して行った二人組が「私達もアイゼンを付けますので、どうぞっ」と、私達が先行するようになった。

  
 ところどころで、持って来たおっちゃんののデジイチを取り出して写す。こうして見るとすごいわね。何ヶ所、沢の高巻きを越えたのだろう。大きなブナの霧氷が綺麗だ。

いつもの枯木 10:10森のフラダンサー
 10時10分、ベンチの休憩所に到着。ここへ上がる前の枯れたブナがとうとう倒れていた。森のフラダンサーの所で、前後して歩いていた方と話す。ずっと、そうじゃないかな〜と思っていたランスケさん(
ランスケ ダイアリーのブログ)とお友達だった。

10:49 分岐
 すぐには竜神平に向かわず、尾根道の霧氷を見ながら歩く。今日は写真撮影に来ているのではないので気楽なもんだ。

11:2 愛大小屋 11:46 小屋を出発 根の所
 11時2分に愛大小屋に到着。天気が良いので外でお昼と思ったがやはり風が冷たいので小屋を利用させて貰う。小屋の中には、登山道を整備して下さっている方と、単独男性が休んでいて話が弾む。ランスケさん達も到着し、昔話に花が咲いた。

 石鎚山 12:15 頂上
 お先に愛大小屋を出て頂上に向かう。木の根の所はいまだに雪におおわれていて普通の道だ。石鎚山が見える場所で二人の女性登山者が相当感激して写真を撮ったりしている。12時15分頂上到着も、15人もいたので写真を撮っただけで十字峠へ向かう。

 12:29 十字峠 
 苔の胞子に霧氷がついて可愛い。12時29分十字峠通過。ベンチの上や登山道にに霧氷が落ちたのが積もっている。

霧氷が落ちている 12:45 のっこし 
 のっこしでコーヒーを入れていると、ランスケさん達が下りてきた。ずっと同じコースを歩いているんだねと言葉を交わす。下山は、雪が融けたり、凍っていたりが混じっていて、2月に下りた時の方が楽に下りれた。

 池の蛙の卵 池から地面にほおりだされた卵
 目が覚めたら11時30分だったと単独の男性が今から登って行くのとすれ違う。13時40分下山。池から少し蛙の鳴き声がしたので行ってみる。もう既に卵がたくさん産みつけられて、蛙は少ししかいなかった。誰かが蛙の卵をすくってほおり投げたあとがあった。せっかく生まれようとしている命だというのに・・・。

 風穴への分岐の向こう側の看板
 “法面工事のため、3月5日から4月30日まで久万方面へ通り抜け出来ません”と通行止め柵と看板、水の元の看板に、風穴までは行けると書いてほしいな〜。

 ほとんど諦めていた今季の霧氷を見れて嬉しかった♪
  
 おっちゃんのデジイチを借りて撮った千代の写真です。



 4日【白糸の滝上】
【waiwai記】
 先日相棒が「愛媛新聞に“白糸の滝”の事が載っとるよ」と、記事を読んだのです。それがきっかけとなってこの“お散歩”の実現でした。『四季録』というコラムに以下のような記述でした。『小学生の時だった。毎日滝を見上げているうちに、「滝の水源は?湖がある?」という疑問がわき、確認したくてたまらなくなった』と、叔父さんと出掛けた内容だった。

14:19 登山(?)口  14:24 谷を渡る
 そんな事があった数日後、地図を見ていたら“白糸の滝”の上部まで、破線の道があるのを確認し、その側に三角点が在るのを認めたのだった。さっそくネットで検索すると、三角点名は≪鳥越三角点≫と判明した。その取り付き点は、上林集落の最奥にあるログハウス風の民家脇である。愛車を道路脇の通行の邪魔にならない場所に停め、林道を歩くと直ぐに沢の手前に軽トラが停まっていた。

 14:41 
 小沢を渡ると、前方に朱いリボンが続いていたが、取り敢えず沢沿いの踏み跡を辿ったのだが、植林の林の中の踏み跡はどこでも進めるもんだ。そのうちに立派な踏み跡を見付けて辿ることとなるが、踏み跡は直ぐに怪しくなる。地図に拠れば、三角点の上部の鞍部を乗っ越しているので適当に進む。

14:46  14:53 上部に石垣
 植林の中なのと時期が冬というシチュエーションなので、茨にも邪魔されなくて前方の見通しも利くので、不安は無い。相棒が「あれ、石垣と違う〜」と言う方向を見上げると、稜線のすぐ下に道らしき跡が続いていた。

 14:58 祠 
 結局、その石垣の路とは交わることが無いまま踏み跡は乗っ越しを越えて続いていた。その場所には、笹に朱いリボンが下げられていたのだった。そして、直ぐの稜線の笹にも赤いテープが付けられていた。その傍らに小さな祠にお地蔵さんが鎮座していた。そのお地蔵さんには「三界萬霊」と刻まれていた。早速、ネット検索をすると『「三界萬霊」とは仏教語で三界は、欲界・色界・無色界をいい、萬霊というのは欲・色・無色界の有情無情の精霊などのあらゆる世界をさしている』そうである。

滝上へ 15:3
 乗っ越しを過ぎると、急斜面のトラバース様な路となった。相棒は「私はここに居るから、あんた行っといで・・」と、いつもの“お言葉”である。その斜面の路は、
比良山系の“男道”を連想したようだった。結局、すぐ下に川の流れが見える場所では路は崩壊地を降りていた。そして、設置されているトラロープに頼らないと降りれない場所が今回の最終地点だった。

石垣のような石積み  猪のぬた場?
 帰路、相棒が「ここを行けば三角点ヨ」と言うが、三角点巡りには興味が無い。ただ場所の特定をしたいだけなのだ。ここに何番鉄塔があるとか、そういう目印の一つなのである。

15:26 15:28 15:35 帰着
 帰路は淡々と降りるのみである。さて、前述の新聞記事には『私と弟は水質調査で滝へ行く叔父に同行する機会を得た。・・・滝までの道のりは容易ではなかった。急斜面の崖や岩山を登ってやっと着いた。さらに滝を下方に見て崖を登ると、方々の岩の隙間から湧き出ている水を発見した。「これがそうか!!」と思った。』と、滝の水源の湖が幻だった・・・と記述している。