2014年     


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  3月の2


 28日【麓(十門)城址・烏ケ嶽城址】

【waiwai記】

県道より見上げる 麓集落 14:30 外れにある神社
 今回の行先は、新横河原橋を左折する。県道152号を北上すると間もなく、荒木谷のバス停のある橋を渡り、クリーンセンターを過ぎると、やがて、九十九折れの道が麓集落まで続いている。東温市山之内の麓集落へは、2000年3月にヨソ山へ登った際に経験している。14年振りの訪問なのだが、相棒は覚えていなかったようだ。実は、以前の山行では、大雪の時にも林道を進もうとしたのだが、途中敗退の憂き目に遭っていた。集落の下の方の道路が広くなった場所に愛車をデポしたのは、14時半だった。集落では、まだまだ住んでいる人がいるようだ。

電力巡視路へ 14:43 尾根を西へ 14:54
 道路を歩き始めて10分ほどで、“五十八社大明神”と呼ばれる神社に出合う。そこからは直ぐに、電力巡視路の路の別れに遭った。今までの明るい道とは違い、鬱蒼とした檜の植林の中、急坂が続いていた。10分ほど喘ぎ喘ぎ登って行くと尾根に当った。ここにも巡視路の案内標識が建っている。直ぐ右の鉄塔は見えていたが、目的の路は左である。また直進の路は、地図によれば峠を越えて、山之内・中塚へと路は続いているようだ。

 
 さて、尾根路は快適に歩ける。暫らくで、前方のコブ状尾根をトラバースする場所があった。相変わらず、路は快適である。

城址の端っこ 15:03 鉄塔より望む
 尾根歩き10分ほどで前方が開けて来た。どうも先ほどトラバースしたコブの個所が城址だったようだ。という事は、尾根を引き返せば城址が見つかる筈。しかし、小生は前方の鉄塔まで行ってみる。やはり、電力線が集落や谷を跨いで西の方角にある向かいの山へと延びていた。西から北へかけての東の方角まで180度のパノラマが開けていて、真下の工事の音まで聞こえている。

三角点 683.7m 麓城址 15:14
 城址へは、尾根を少々引き返すのだが、直ぐに堀切があり、城址がある場所だと確信を持つ。そして、三角点(683.7m)に出合った。その先が、平らな場所だった。そして綺麗に積まれた石の塔が鎮座していた。ここの城址は広かった。T字状の城跡だった。ここ麓城は十門城あるいは重門城とも言われているそうだ。

TVアンテナケーブル 二の郭(?) TVアンテナ
 辺りを散策すると、ケーブルが尾根を横切っている。西の端に立っていた鉄の工作物は倒れていたが、東の端の木柱のアンテナ塔は現役だったが、果たしてこのTVケーブルで受信している家があるのだろうか?

  
 さて、帰路は淡々と歩くのみ、15時37分には、尾根から集落へと降りる。ここ一週間ほどで随分と暖かくなって来た。この麓集落までの川沿いにある桜の木は随分と花を揃えている。山間の集落はどこも、春先は色々ないろどりを競っている。


烏ヶ嶽城址 城址案内板 16:10
 麓集落を後にしたのは16時頃だった。元来た道を引き返し、重信川の橋を渡り県道152号へ出ると、右折し北へと暫らく走らせる。重信川の右岸を走っている道が左岸へ渡ると、尾根が出っ張った場所に“烏ヶ嶽城址”の看板が建っている。

登山口 直ぐの祠 16:14
 尾根の末端に路があった。16時10分だった。急坂に落ち葉が積もっている路は滑り易い。このような路が苦手な相棒はブツブツ言っている。直ぐに、祠に出合った。昭和八年と記された『再建碑』が傍らに建っていた。ここまでは3分ほどだったが、相棒は「もう行かんヨ、アンタ行っといで」といつもの調子である。

細尾根 城址 16:23 下山 16:36
 相棒を置いて、一人で滑り易い急坂を登って行く。滑り易い急坂で上にある小さな枝を掴もうとした時、メガネを木の枝に引っ掛けて落してしまった。漫才の“やすきよ”のやすし状態である。手探りで探すこと暫らくで無事発見である。そのすぐ先に左右が切れ落ちた細尾根の個所などもあった。結局、祠から10分ほどで城址の一角らしい場所に着いた。南北方向にだけだが細長い場所だった。写真を撮り、水を飲めば帰るのみ。相棒がコーヒーを入れて待っている祠へは、5分ほどだった。

 今日の訪問で、旧重信町の城址は一巡したようだ。残り、旧川内町の城址巡りについては、後日になるのだろうか?


 27日【庄司城址・三嶽城址】

【waiwai記】
城山 登り口 13:14
 この道路も、過去何回か通過しているのだが、例に漏れずこの場所に旧跡がある事は知らない。目的の場所は、東温市下林の別府である。ゴルフ場へと続く大きな道路側じゃなくて、開けた集落側に石段の道があった。今日も13時14分からの散策である。

 西側の祠 集落
 事前の情報収集によると、この山の西側には墓地が作られている。そして、城跡の場所には城跡墓碑と祠堂が建てられているというのだ。山道は一回の折り返しで下からも望めた頂上広場へ出た。西側の墓地の方は、明るく開けていた。その広場は、綺麗に雑草も刈られていた。そして相棒が「あっ、わらびがある」と、暫らくはわらび採りに精を出すのだった。

わらび 城跡墓標 1千年碑 祠
 今年最初のわらび採りになるとは思ってもみなかった。暫しの散策のあと、東側の森へと向かった。情報通り墓碑が祀られていた。その墓碑に刻まれている字『1千年記念』には驚いた。墓碑の裏には、昭和二十九年の建立の文字である。丁度、60年前の建立である。という事は、紀元940年頃(平安時代・中期、平将門の時代)に城が建てられたという事になる。頂上広場をぐるっと見渡せば陽の当たらないこの場所を後にした。

佐川(さこ)の神社 14:05 御岳山(三獄城)
 続いて、東温市別府から佐川(さこ)集落へと向かった。佐古ダムへ向かって川の右岸へと渡り、集落手前の神社へと向かった。愛車を神社脇にデポし(14時5分)、徒歩で集落に向かった。直ぐに集落の東に顕著な姿の“御岳山(通称:三獄城or佐川城)”が顕れた。相棒が「あれじゃないやろねぇ〜」と、頂上北方の崖に怖れを抱いたのだった。


≪閑話休題≫
 集落に入ると、直ぐの民家の庭で“ワンワン”と庭の犬がグルグルまいをしている。泣き止まない犬に家の中からカーテンを開ける様子が見える。暫らく歩くと、上の方からオッサンが降りて来たので「あの山へ行きたいんじゃけど、行けますか?」に、「おぅ〜、行けら〜い。そこの柿の木の所の林道を入って・・・・」と詳しく教えてくれ「あそこには昔は神社を祀っとった。尾根沿いにいったらえぇ〜。あの山は儂の山じゃけん、小さい時からあそんどった」というじゃ〜ありませんか。

 結局、教わった『林道を行ったら、車を転回できる広い所があって、そこから急坂になるけど、そっちには行ったらいかんで・・・』という場所まで行くが、その先には道らしき路は無かった。しばらく踏み跡を探すのだが、今回は諦める事とした。帰路、畑仕事をしていた前述のオジサンが私達を認め「あんたらが行けたか、下から見とった」と、心配してくれていたようだ。この後、このオジサンの家に招かれて一時を共にする羽目になった。

 オジサンは、ここに城があった事は知らなかったようだ。招かれた庭には犬が「ワンワン」と煩い。また、庭先には缶ビールの空き缶がうず高く積まれていて、アル中独特の様子も見えたのだ。そのオジサンが「昔は猟師もしとったから、ここらへんの山はウロチョロしとった」というが、相棒は「そうですか、城主だったんですか?」と、なんか話が噛合っていません。

 兎に角、オジサンの話では、例の林道のとこらからは沢沿いに尾根まで上がって、尾根沿いに行く・・・と、どこでも上に行ったら着く・・・。と道が無い事を指していた。それなら、最初から『道は無いヨ』と云ってくれれば良かったのでした。「神社があった」と言うから、道があるものと一生懸命に道を探したのだ。今回は、オジサンの今までの仕事の遍歴(蚕を飼って一回200万円儲けていたが、田中角栄の日中国交回復になり繭の暴落があるに違いないと蚕を飼うのをやめた)、林業〜蚕〜土建日雇い(トンネル等)〜島の電力〜学校のボイラー給食 etc、まだまだ続きそうな話に取りつかれたものの、貴重な話が聞けて収穫はあった。野菜はいらんか、とって帰れの言葉をふりきり帰った。又の機会に・・・・。


 23日【伊予・小手ヶ滝城址】

【waiwai記】
登山口脇の橋 直下の断崖 登山道は右? 13:12
 今日も昼から“城址巡り”へと、お出掛けである。このところ、ネットの検索で『愛媛の城址』を検索していると、あるわあるわ〜・・、我が街にも10を超えて見付かったのでした。その戦国時代の山城は、天然の要塞のような場所に作られていたようだ。そして、この小手ヶ滝城址を見たときには“えぇ〜”と驚いたのでした。この先にある集落には、度々、訪れていたのだが、その容姿を現認したのは初めてだった。

 今回も昼からのお出掛けで、登山口はpm1時10分だった。その登山口は、国道11号線の東温市・則ノ内(すのうち)交差点から南へと右折し、井内集落の山沿いの狭い道になる手前の広い道路の、井内川に架かる橋の袂にある。

猪道?  石積み
 山道は、いきなりの獣道と化していた・・・『その獣は、イノシシだろう』。また、行く手を阻んでいるのは竹のジャングルだった。それでも、道はジグザグを何度も繰り返しながら高度を上げていた。当然、その昔は馬も上がっていたのだろう。上がるにしたがって笹薮は無くなって、やがて、上方が明るくなって来て石積みが現れた。

石垣? 二の郭か? 13:40
 その上手にはきれいに積まれた石垣が顕れた。そこが、二の郭だった。平らに均されたその場所には、椿などの木々が生育しているのだが、綺麗に整備されている様子だ。

本丸北 頂上広場 13:45
 その上の段が本丸跡と思われるが、北の方向へと尾根は延びている。頂上広場には13時45分に着いた。また、頂上部分も広く均されている様子で、花を付けた椿の木や花芽が膨らみかけた桜の木が大きくなっていた。相棒はしきりに「この下に住んでる人らは、ここへお花見に来るんとちがう」と言うのだが、『そんな人はおらんじゃろ〜』と思う。

西を覗く  消えた標識
 また、2010年には判読可能だった『小手ヶ滝城』の文字も消えていた。ここからの景色は僅かに西や北の方向へ望めるのみだった。この位置関係からいうと、井内峠が見渡せる南向きが開けて当然である。しかし、南尾根の方向は植林の林となっている。この広場ではコーヒータイムとした。

下山 13:54  緑の募金交付事業
 南尾根は植林されていて、降っているのだが、植林されているという事は通行可能という事でもある。一方、北の尾根は雑木が生えているようで、急坂だった。そして、東側は断崖状に切れ落ちているのだった。我々は、往路を引き返す。淡々と下山して行くと、登りには気付かなかった『緑の募金交付事業』の杭が建っていた。

下山 14:30 塩ヶ森のスハマソウ 
 14時半には、登山口の橋まで降りて来た。帰路には、塩ヶ森に立ち寄った。ここにも“城址”があるのだが、目的は≪スハマソウ≫だったのだ。この花は強いみたいで、ロープで囲われた場所から落ちこぼれて(はみ出して)咲いているのもいた。


 19日【伊予・由並本尊城址】

【waiwai記】
塩屋より 灘町より
 何度目になるんだろうか“城址巡り”である。伊予市から長浜方面へと『夕焼け・こやけライン』と呼ばれるワインディングロードを走っていると、上灘でピラミダルな山容の突起が目に入ってくる。車上からも確認出来る、頂上下の人工物はなんだろうか、という疑問を解いたのは、“城址巡り”のサイトだった。昼前に自宅を出たので、まずは昼食だ・・・が、水曜日の定休日の店が多かったのだ。

12:31 天一神社 12:34 
 下灘まで食事処を探しながらやっと食事を終え、再び、上灘まで戻って来た。上灘の“城の下”と呼ばれる集落に『天一神社』があり、その裏手から山道があるらしい。そして、街から望見出来るのは、神社の鳥居という事だった。『ふたみシーサイド公園』の駐車場に車を置いて、上灘川に架かる橋を渡り天一神社を目指す。本殿にて参拝を終えると本殿の左脇を裏手へと行く。

JR 長浜線  伊予灘を望む
 小道は線路を跨いで続いていて、その先の畑では農作業をしていた。12時37分線路を渡り、農作業のオジサンに聞いた真新しいコンクリート造りの道を行く。しっかりした小道が続いているようで安心である。

鳥居下 13:00
 背丈の高い笹の間に道は続いているのだが、随所に猪の掘り返した跡がある。また、笹や枯葉の積もった急坂は滑り易くて油断は出来ない。やがて、勾配が増した場所にケーブルが敷かれている場所に出合う。その直ぐ上が鳥居の場所だった。鳥居の脇にはTVのアンテナが設置されていた。先年の地デジ化された折に新たに設置されたような新しい設備だった。13時、鳥居の場所で相棒は「私は上には行かんから、あんた一人で行っといで・・」と、いつものように仰るのでした。

鳥居の上 水仙 頂上の石積み
 鳥居からも急こう配の道だったが、水仙が咲いていた。地元の人が持ち上がったものだろうが、さすが双海だ・・・。

 頂上 13:09
 水仙の咲く小道を辿ると直ぐに頂上で、13時9分だった。頂上に岩がある山頂に、中世には“城”が建っていたのが不思議に思うほど狭い頂上広場だ。

伊予市方面 明神山・秋葉山方面
 はるか足下に、JRが走っていた。この集落は“小網”と呼ばれている。また、北へと続く尾根に続く山並みは『黄砂』に霞んでいるようだ。

頂上の石積み 自然の石積み
 頂上直下には石垣が積まれていた。頂上を後にして相棒の待つ鳥居へと戻り、コーヒタイムとした。見晴らしの利く場所で、頂上直下・南面の崖は自然の石積みの如く、切れ落ちていた。

鳥居から降りる 13:30  天一神社が見えてきた 13:49
 下山は13時半である。相棒は滑り易い道に怖じ気づいたようで、杖が必要だった。少し降りてきて傾斜が緩くなると、いにしえの頃、左右は畑だったような地形で、今は植林されているようだった。

線路脇の畑 
 線路脇まで降りてきたのが13時50分だった。さて、次の“城址巡り”は何時ごろ? また、何処になるのだろうか?