藪漕ぎの楽しみ

吉野川源流碑に逢いに行こう・・【2012年10月30日(火)】

 小生が吉野川と出会ったのは、高校を卒業後に就職先の徳島生活を始めたs43年だった。しかし、紀伊水道へと流れ込む吉野川の源流域を意識したのは、それからず〜っと後の、山釣りを始めた頃(s63年)だった。釣りの師匠でもある友人の“山釣りの本”に載った“四国三郎の源を行く”と題した、“吉野川源流白猪谷”の紹介文をワクワクしながら読んでからもう24年を経たのだ。その間、登山道が整備され、源流碑のモニュメントが設置されたのだった。1991年に整備された当のモニュメントを訪れる機会もなかったのだが、辺りの自然の佇まいは、往時の様子を垣間見せるのに十分である。

 “白い猪”が住む谷・・、先人が名付けた山や川や谷や郷・・、それら全てに“いわれ”がある。今、山里が廃れ、先人の辿った跡さえ消え去ろうとし、人々の記憶から忘れ去ろうとしている。

源流碑

 四国の山間に限らず、山里が壊され尽くした日本各地で、営々と続けられて来た環境が廃れてしまっている。現在日本では、企業活動のみが取りざたされ、人類と地球(自然)との関わりという営みが忘れ去られてしまった。人類が生かされてきた、否、地球と共に生活してきた何百万年の刻こそ、現在を反映している筈なのに・・。地球(自然)からの“しっぺ返し”に慄かなくていいのだろうか?

 昨年の東日本大震災と大津波を経験したばかりなのに〜。

 吉野川源流白猪谷の遡行記録より

 

 

【吉野川源流】

 白猪谷遡行図を別画面で開く(上記記録より)

 今回も、平成の大合併で無くなってしまった“本川村”を辿る事となった。もっとも、四国ではどこの田舎でも合併により村の呼び名が変わってしまった。そして、どこの“村”も過疎化と高齢化の大波にのみ込まれてしまっているのだ。この大波から逃れる方策を打ち出す者は現れないないのか?また、現在の日本での闇はいつまで続くのか?

9:11 登山口 源流橋 

 愛車は寺川集落を抜け、今冬辿った“しらさ峠”への登山口分岐のカーブは、そのまま林道を先に進んだ。道が未舗装となり谷へと降りるようになり、登山口のある“げんりゅうばし”を渡ると、谷側に少々のスペースがある。出発は9時15分だ。案内板には『源流碑まで1時間半』とあるが、これは目安とはしない。

  高巻きのザレた場所

 植林の中に路は続いていたが、いきなりの急登である。高巻きを終えた道は、右手下に綺麗な流れを望める。斜面に付けられた木道は苔むしているが、自然林に囲まれた中を淡々と進む。

 前述の“遡行記録”では、現在のようには林道は延びていないのだが、白猪谷の右岸に山道が存在している。植林に使われていた道だ。もちろん、杣道として使われていた事は想像に難くない。何年か前に整備された路も、一度の大雨で崩れてしまうのは常であろう。やがて、ザレた場所が出現した。相棒が苦手とする道だ。しかし、そんな場所は長くは続かない。

  

 右岸に続く高巻きの道から望める谷の青は、あくまでも清みきっている。所々に、赤や黄に配色された木々と水のブルーは、誰が描いたのだろうか?今は、誰かに見られる事もなく、珠に訪れる登山者の眼に留まるだけなんだろし、また、渓流に棲む“アメゴ(徳島と高知ではこう呼ぶ)”たちは、来春に向けて繁殖活動に勤しんでいる時期(10月〜11月)でもある。

 

 さて高巻きの路は、“ゴルジュ(峡谷)”を抜けると、河原へと続いている。このような路は、どこの沢沿いの路とも共通なのだ。また、小沢に架けられた桟橋も随所に出現する。

 歩き始めて30分ほどで、第一渡渉点だった。谷への降り口は少々危なっかしくて、注意が必要だ。渡渉場所の上手には、ワイヤーにぶら下がった木が置かれていた。この木が橋として使われていたようだが、今は放置されていた。

 渡渉場所

 渓を渡った後左岸に続く路は、高巻いていたが、直ぐに大きな釜を抱く滝が足元に現れた。神秘的なブルーは、光線の加減か?兎に角、魅力的な色だった。

 大釜を過ぎると路は河原へと続き、ここが、第二渡渉点だった。このような場所には赤テープが残されている。また、『源流碑まで、XX分』の案内も記されている。この辺りまで来ると少々の高巻きはあるものの、大分、渓相も穏やかになり、渓の水量も減ってきた。

  

 やがて渓は“ゴーロ”帯となり、渓を右に左に、また、渓の中へと進む事となる。随所にケルンが積まれていて、進むのに苦労はしない。やがて小滝が現れた。ここで小休止・・、相棒も三脚を出すのである。また、左手遥か前方には、木の枝越に峻険な山が垣間見える。瓶ヶ森(男山)だろうか?

渡渉場所 源流碑まで15分

 相棒の撮影は、珍しく直ぐに切り上げたのだった。もう、大きく高巻く事もなく渓の中を浸からないように、大きな岩を避けながらの遡行である。やがて、さほど水深のない釜の淵を回り込み、暫らく進むと『源流碑まで15分』の標識に出合った。先が見えて来た。

  源流碑 11:26

 大カツラの木や、ケヤキの大木が渓を埋めんばかりに建っている。渓を流れる水流は一層狭まり、一跨ぎで飛べそうなほどとなった。  

 やがて前方に人工物が見えてきた。それが、目的のモニュメント=源流碑なのだった。時は11時26分。登山口からの所要時間は、撮影時間を含めて2時間10分ほどだった。

つぶやき

 ここで引用した遡行記に「越裏門(えりもん)風土記」からの引用があり、当サイトはこの雑誌からの引用とする。

 次に、越裏門の名の由来を調べるため、庄屋の家へおじゃまして、『越裏門風土記』なる古文書を拝見する。「越裏門村ハ、往古伊予国ヨリ土佐国通路、寺川村関所越テ、其内関ヲ設ケ門ヲ建、故此名有ト言」。さらに風土記は、その時代を指して、核心にせまり、「該村ノ儀ハ、山城国清川庄伊藤和泉守正民ト言モノ、長禄年中之戦争ニ訂負、落着、開墾ヲ始メ、山内、川村入来(以下略)」。

 何と長禄年中とは、1457年であり、今から500年も前になる。代々続いた庄屋は、今では十五代目というから、歴史の長さを感じさせる。家は新しく建て替えられたものの、一枚通しの戸板に書き残された風流な時代絵に、その昔をしのぶことができる。

 そんな歴史を秘めた越裏門ではあるが、大橋ダム、長沢ダムが構築され、車道の開通と延長により、自然林の伐採による破壊が村を襲い、白猪谷と主稜線の一部にわずかに原生林が残されているのにすぎないが現状である。しかも、その源さえも面河スカイラインの開通で瓶ヶ森林道が完成し、大きな傷跡を残してしまった。しかし、四国一の大河、四国三郎吉野川水源遡行は、私にとってそれなりの意義があり、「もしかしたら伝説の白い猪に出合えるかも知れない」、そんな期待を込めた釣行だった。

 と記述しているこの本は、1985年の遡行記録を載せているのだ。27年経た現在も、自然は当時のままであった。変わったのは、寺川集落の佇まいと、そこに住んでいる人々だけなんだろうか? 私たちの生業に変化は無いのか?

 

  

【帰路】

 目的のモニュメントに着いたので、まずは昼食タイムである。相も変わらず、簡単な昼食である。そして、相棒が撮影モードになると暫らくは私の出番は無い。

 魚止ノ滝  

 相棒が源流碑を撮っている間、“魚止滝”へ行ってみる。源流碑の左の沢は、大石が転がった涸れ沢状だが、源流碑が建っている右又の奥は、暫らく歩くと数メートル上で伏流していた。そんな沢の大石の間を行くと、ゴーゴーと水音が聞こえて来る。直ぐに前方に滝が見えて来た。その傍らに滝より高くカツラの木が聳えていた。滝壺は土砂に埋まって水深は無い。滝上を覗いてみたくなり様子を窺う、どちらからも容易に登れそうだったが、右手を巻くこととした。

 

 ガレた斜面を上がって行くと、木の枝越しに稜線が見えてきた。滝の上には、あっけなく到着した。

滝の上の小滝群  滝頭からの眺め

  滝の上流は小滝が連続しているようだった。恐る恐る滝頭から下を覗いてみた。ハングした岩が迫り出しているようで、滝の本体を見る事が出来なかった。今日はここまでにして、相棒の待つ源流碑へと引き返した。

 渡渉点 13:55

 相棒はモニュメントの周りをウロチョロしていたが、未だ撮り終えてはいなかったようだ。もう13時前になっていた。暫らくで、撮影は終わった。あとは、往路を引き返すのみである。

 危なっかしい渡渉を繰り返しながら、相棒もなんとか無事に降りてきている。第一渡渉点には、13時55分に着いた。ここを右岸にと渡れば、下山口はもう直ぐだ。

下山 14:23 大瀧の滝 15:50

 今日の出発点に着いたのは、14時23分だった。帰路、大瀧の滝へ寄り“よさこい峠”経由で、土小屋の白石ロッジでうどんを食べてスカイラインを降り、無事帰宅。


 大阪で写真教室に入り、写真を撮り始めて10年が過ぎた。私と写真と言えば、山や森等の自然を撮っている人というイメージを持っている人が多いだろう。一の森の写真展以後に撮った剣山系の森風景や、石鎚山系、皿ヶ嶺、又大阪在住中の大峰、台高や芦生等で撮りためた森の風景。その中に是非見て撮っておきたい吉野川源流だった。私の撮影目標と、わいわいさんの源流への思いがピッタリと合った山歩きだった。(*^。^*)