藪漕ぎの楽しみ

想い出の路を辿る・・上兜山【2009年3月21日(土)】

 大阪への転勤(2002年6月)から、早くも7年の歳月が過ぎようとしている。小生にとって、今回の上兜山は四国の山々の中でも特別な思い入れがある山域なのだ。   

 私達は、1997年夏、夫婦での山行を始めたのだった。当初、主に四国の“分県別”のガイドブックを手元に置き山行計画を立て、毎週のように山通いを続けていた(尤も、年一回程度の遠征も行っていたのだが・・)。このサイトの“藪漕ぎ”の命名のきっかけとなった山行が、上兜山の登山道との出会いだったのだ。国土地理院(1/25,000図)の地図に載る破線の路や廃道となっている路を辿る・・そんな山歩きの面白さを見つけたのだった。そんな路は、概ね藪に覆われていた。その頃・・“藪漕ぎ”山行が面白くなった頃(2001年〜2002年)に、突然の、前述の転勤話の出現だった。

 私達の山行形態は、型どおりではない。自由気儘な山行計画を立ててきた。小屋泊りに限定しないで、テント泊での山行、また、当初からツェルト泊を計画する場合もある。晴れた日ばかりじゃなく、雨の日にも計画を中止することがない。時には、台風が南海上に迫っている最中(無謀)にも、山へ入った時もある。当初は、小さな花々に出会う事に喜びを見出していたのだが、近年は、相棒の趣味(撮影)が加わったこともあり、雨の日や雪の降る日の山歩きにもその趣を見出しているのが現状でもある。しかし、夫婦で共通しているのは、山の中にいる時間(その空間、その瞬間)が好きな事である。そこは、稜線の爽やかな風が通り抜ける場所であったり、森の中の陽が差し込まない場所であったり、小さな花々が咲き乱れる場所であったりするのである。私達の場合、ただ、山頂の三角点に触れて、降りてくるというような事のみに喜びを見い出してはいないし、そういう山行形態はとらないのである。 

 【この事は、私達の現時点での“山へのスタンス”であって、何年か後には変わっているかも解らないし、他人の山行形態に“あれこれ”と口出しするつもりも無い。】

 

 

 

【窓の滝上、林道登山口〜(串ヶ峰経由)〜上兜山のピストン】

 前回の記録は、2005年12月31日だった。この間に訪れなかった主な理由は、私にある。もちろん、この間、相棒の趣味の写真や病気の発症などの新たな事情も発生したのだが、そのような事情なら言い訳にもならない筈である。しかし、実現出来なかった。この記録のアップまで4カ月を経るのと同じ理由・・それは、公私にわたる小生の忙しさである。そんな多忙な日々も、もう直ぐ終わろうとしている。来春には定年を迎えるからである。

  

 いつもの“窓の滝上、林道登山口”脇に愛車を置き、出発は7時40分である。通り慣れた路だが、少し行くと真新しいテープに導かれた。何処かで元の路に出会うだろうと、新しい踏み跡を辿る。尾根状の場所を辿り、岩を超えて踏み跡は続いていたが、やがて、見覚えのある場所へと出る。ここが“松の木展望所(自称)”である。8時30分だった。 

  

 改めて辺りを見渡すと、木々の成長の速さには驚かされるものである。既に“展望所”とは呼べない場所になりつつある。その休憩の時間は、10分ほどである。

 

  

 再出発後、植林の中へ横掛け路が続いているのだが、今回は尾根路を辿ることとした。この路は以前、誰かのサイトで記述があったと記憶していて、そのおぼろげな記憶のみで足を向けた。

   

 踏み跡(路とは呼べない程度である)は、尾根に忠実に続いていた。いつもの事であるが、この山で登山者に出会ったことは無い。しかし、新しいテープや目印に出会う事から、辿る人が居ない訳ではないのだ。

  

 やがて、旧来の路と出会った。そこからは一息で“ヒカゲツツジ展望所”なのだが、現在は何の展望も無い。密藪の笹の間に続く路は相変わらず手強い。雨で濡れていようものなら、直ぐにビショビショになりながら登ることとなる。このことは、四国の山を歩く人は経験済みのことでもある。

  

 高度を増すと、今の時期、木々の芽ぶきが訪れていない事を改めて気付かされるのである。右手に西赤石〜兜岩の特徴的な風景が梢越えに望まれる。相棒の「松の木に登ってみたら?」の声は、下の写真を撮れ・・ということだった。眼下に“新居浜市街と瀬戸内海を望見する”の図である。時計は10時を指していた。

 

 暫らくで、雪が残っていた場所に差し掛かった。。その残雪の中には、熊の足跡が・・んな訳はあ〜りません。雪のある時期にこのルートを辿った人がいるのだ。私達が歩いた9年前(2000年1月)には、雪の中を串ヶ峰へと辿って、“上兜”の偉容を目の当たりにしたのだった。そして、相棒は凍った土の上を歩くのは苦手なので、写真の様な格好で上がってくる。

 

 所々出現する大岩の脇を路は続いている。見通しの利く稜線で西方を振り返れば、笹ケ峰〜寒風山〜伊予富士を望むことが出来る。串ヶ峰への最期の登りを一息で登ると、一気に眺望が開ける。ここが“串ヶ峰”と呼ばれるピークで、11時15分だった。

  

 ここでは、お腹に“コンビニのおにぎり”を納めての中休止。この場所にある標識は“エントツ山さん”が持ち上がったものだそうで、これから行く上兜山へも標識を建てたと聞いている。また、串ヶ峰の標識にぶら下がっている木札に、エントツ山さんの山登りの相棒=“マーシーさん”の署名を見つけた。そこには、昨年の5月と記されていた。

     

  初めて(2000年1月)ここ串ヶ峰から上兜山を眺めた際、灌木に覆われた行く手にスゴスゴと引き返したのだったが、今は違う。9年の間に、獣路から藪の覆う路へと少々の昇格である。20分ほどの休憩後、上兜山を目指す。

  

 尾根伝いに歩く路は、実に愉快である。前方の景観は、みるみる内に手が届くような距離になり、次々に山々が姿を現すのだ。上兜山には、立派な標識が建っていた。私達が9年前に持ってきた“しゃもじ”も掛かっていた。しかし、ここにはXX名山のようには標識の乱立は無い。静かな頂上である。

   

 縦走路(西赤石〜東赤石)から少々外れた山の運命なのか? 年間、何人の人たちが訪れるんだろうか? 私は、この山は静かなままでいてほしいと願う反面、山好きの人達には、この山と向き合ってほしいとも願う。

 上兜山の東側は、足元から谷へスッパリと切れている。凄い高度感である。地図には、この辺りにも破線が記されているのだ。赤石山系の破線の路は、その昔(別子銅山が栄えた頃か?)からの路が何本も記されている。今は、通う人も疎らな路の方が多い。

 

 上兜山の南へ物住の頭へ目を向けると、縦走路が東方向へと走っている。物住の頭〜前赤石〜八巻山〜東赤石〜権現越、さらに権現山〜黒岳〜エビラ山〜二ツ岳〜峨蔵越へと続く。ここから尚、東へは小箱越からハネズル山へ至り、北へは赤星山がその顕著な山容を見せている。ここから見る山々の姿からは、人工物が見えない。もちろん、送電線が山を越えて町まで延びているのだが、四国の山々の懐の深さが垣間見えるのである。

  

 又、西方向へと目を向けると、笹ヶ峰〜寒風山〜伊予富士〜瓶ヶ森へと続く山並を望む事が出来る。それらを見ながら想いに耽るのは“山への想い”か? 以下に比良山系“コメカイ道”より転載します。

【結局、今日は誰にも出会わない山歩きだった。人と出会わない路は比良山系では少ないのだが、中高年の間でブームとなっている“登山”は、それぞれのきっかけで始めるのだろうが、都会の喧騒を山へ引き連れている現状があることについて、私には疑問である。山を見ないで山へ入り。森を見ないで森に入る。路を見ないで路を辿る。しかし、デジカメにはそれらが写っている筈である。“ここへ行ってきたヨ”の報告なら、“そうですか”で終る。

 私が何を云いたいのか・・・。

 ♪行ってみたいな〜 よその国〜♪と思うか?思わないか? 其処に何があるの〜である。行ってみれば、何かがある筈である。その何かを見付けに行くのだ。

 私も、もう直ぐ還暦を迎える(*^。^*)・・が、青春真っ盛りでもある。】

 

 

 感傷にばかりに浸っている場合では無い。時計は、12時10分を指していた。下山の瞬が来た・・来た路を辿るだけである。

   

 

 下山のルートは、私達が今まで利用したルートを辿った。その路は荒れていた。植林の中にあるトラバースの路は、殆ど使われていないみたいで、獣さえ通ることがないようだ。そして、雑木の間についている路は進路が覆われてしまっていた。

 15時15分に、朝の駐車場所へと降り立った。

 

 


 あ〜懐かしの串が峰・上兜山、エントツ山さんが2004年に標識を十字架のごとく背中に背負って建てていると言うのに、会いに行けんかった・・。大阪へ来て7年、あと1年なのだと思うと心にグッとくるものがある。そして、笹をかき分けて躍り出た頂上には、初めて見た立派な≪串が峰≫の標識が昔からあるように立っとったんじょ。そして、もう立派に道が出来ている尾根を辿ると上兜山、そこにも銅板の立派な≪上兜山≫の標識と、しゃもじが・・、捨てられても仕方ないのに大事にぶら下げてくれていた。「もうすぐ、帰ってくるからね」と心で話しかけたんじょ。