2009年・・「waiwai隊」の山歩きの記録  
   2009年5月2日〜3日  
     
    今年初めての一の森は、相棒の写真展(大阪の富士フォトサロンにて個展を開催)の写真の撮影の準備に足繁く通った昨年と違い、その写真展も無事終わり、同時に作った写真集“精霊の森 剣山「一の森」”を一の森ヒュッテ等に置い貰うのと、昨年来、顔見知りとなった信者さん達(明日、剣山本宮の御神体を頂上社に上げる為、講御一行様が上がってくる。)への“お礼”も兼ねての、久々の山行となる。(waiwai記)  
     
     
   
     
   ・5月2日(土) 徳島(姉宅泊)見の越〜一の森ヒュッテ  
     
    私の定年を来春に控えて、残り一年を切った大阪での生活に思い残すことは、無いのか?全く予期しない大阪での8年間の生活に未練は無いのか?相棒の心中はともかく、私自身複雑な思いなのだ。
 そんな事はともかく、今回もアクセスに使ったのは、徳島〜神山〜小屋平(現在は美馬市)〜見の越である。徳島で前泊した場合は、今や定番となった。
 
     
      
     
    四国の山間部を貫く国道の中でも、R439と並んでR438も同様に“日本の酷道○△選”に選ばれる道なのだが、この山間部を貫く道でも、ここ数年道路改修が進んでいる。徳島市から鮎喰川沿に“見の越し”に至る道は、神山町辺りまでは快適な道なのだ。しかし、油断大敵なのである。道路改修が進んでいない箇所は、突然現れるのである。
 突然の相棒の「ストップ」の声は、主に撮影タイムを指している。お陰で、登山口の見の越しまでの所要時間は参考にならない。見の越しの駐車場に車を停め、顔見知りとなった店に立ち寄って昼食を取り、剣神社脇の登山口を出発したのは、12時過ぎである。いつものルートで、まずは“祖谷川源流の碑”がある遊歩道を行く。
 
     
     
     
    登山道辺りは、まだ早春の装いで、春の花々が誇らしげに咲いている。しかし、行場には雪が残っていた。“お花畑”下の桂の樹を代表する落葉樹の下には、温かい日差しを一杯受けて、バイケイソウの若い芽が伸び始めていた。今回は珍しく相棒は、この場所ではカメラを出さない。何か感慨に耽っているようだ。小休止の後、小屋に着いたのは、3時過ぎだった。  
     
     
     
     
     
     
    先日手に入った≪日本山嶽志(高頭 式著)≫によると、剣山は、別称“祖谷山”と紹介されており、『阿波国麻植・美馬・那賀・海部ノ四郡ニ跨ル、麻植郡木屋平村大字木屋平字蓑荷ヨリ四里十八町ニシテ其の山頂ニ達ス、標高七千三百九十九尺』と、明治39年(発行)当時の記録がある。之によると、剣山の標高は、実に2,200m余ということである。前出の記録にあるのは、私達が親しんでいる“登山”趣味の起こる以前から綿々と続いている「講中登山」という歴史の存在である。登山ルートも、“垢離取り”を登山口としている。今回の相棒の撮影対象ともなった一つに、このような歴史的経緯も含まれているのである。  
     
     
     
   ・5月3日(日) 一の森ヒュッテ〜見の越〜松山  
     
    昨晩は、鹿の被害の調査(正確には、鹿の駆除が目的か?)の獣医さん(阪神からの女性)も同宿していた。また、徳島の“山の重鎮”氏(名は特に記さない)は、『昔の地図にある“ニク淵峠”の特定がしたい』との事である。泊り客のそれぞれが、違った目的を持ち宿泊する・・こんな人達が同宿する空間・・。とっても良い。
 今日の昼頃には、ご一行様の到着の筈である。朝方の撮影は、予定通りに決行。相棒曰く『朝陽の景色は、何年か前に一度だけしか写真にならなかった・・』と、今回も期待はしていないみたいだった。しかし、5時前には、『撮影に行くよ』の声である。
 
     
     
     
    いつもの朝のように、雲海の位置を見てあっちへ行ったり、こっちへ来たりと忙しい。移動の度に、相棒の声が飛ぶ。  
     
   
     
    薄っすらと、しなやかな雲がたなびく中、山々の頂きが見え隠れしている。不思議な朝模様だった。  
     
   
   画像にマウスポインタを合わせると入れ替わります。  
     
    行者さんたちが到着したのは、正午を少し過ぎた頃だった。昨年よりは、30分ほど早い到着だった。例年どおり昼食を小屋で採り、小一時間で再出発である。我々も、同様に小屋を出るが、今回は、彼らの行には付き合わなかった。  
     
      
     
    今回の一の森行の目的の一つに、6月に予定している徳島での相棒の写真展への案内も含まれていた。頂上ヒュッテの新居さんに、その事を伝えに行く。  
     
     
     
    頂上ヒュッテからは、いつものルートでの下山である。昨日辿った道なのだが、水場で出遭った“花(サイゴクサバノオ)”が見えない。鹿が食べてしまったのなら、根元は残っている筈だから、鹿の仕業で無いのは明らかだが、非常に残念な事だ。  
     
   
     
     
     
     
    前述の≪日本山嶽志(高頭 式著)≫よりの剣山の項よりの引用。
(名勝)雲を抜き魏然として聳え立つ、一の峠・二の峠・三の峠を経て絶頂に達す、季候も変わりて冬至より積雪一丈余、季春に至りて纔に消ゆ、故に夏ならでは登り難く、登るもの星を戴きて出て、星を戴きて帰る。絶頂には草木を生ぜずして、岩石屹立す、一小社あり、剣の社と称す、安徳天皇の御剣を祀れるという、一大巨石あり、賽蔵亭と名ずく、傑立五丈、四望すれば群峰ことごとく下に在りて○△の如し、西南に二石あり、方正しく卓立す、太郎笈・次郎笈と名ずく、其の形笈に似たるを似てなり、

 以上、抜粋したものの、現在の辞書では該当しない字などもあり、正しく引用できているかどうかは自信が無い。ここで、100年前の記述を載せたのは、私達が果たして“100年後”に、今を残せるのか?というようなことを云いたかった訳で、他意はない。
 
     
     
    大阪へ来て7年近く住んだ社宅アパートを売ると云うので、あと1年の大阪生活の為に代替えのアパートに引っ越しとなり、その準備で疲労困狽し4月末から体調を崩したんじょ。それでも、どうしても写真集を置いて頂くお願いや、信者さんへのお礼や、6月の徳島での写真展の準備の件で行かんといかんかった・・・。久しぶりの山行で、遊歩道・西島への登り・刀掛けへの登りもいつもの調子が出ず苦しかった〜。

 精霊の森へは、途中にカメラバックをデポして下りて行き、倒れた桂の木が切られてベンチみたいになっている所に腰をかけて、写真展・写真集で私が「森の主」と呼んでいる桂の木の前でしばらく休んだ。この桂の木に感動して、撮り続けたこの5年の事が去来したんじょ。