2008・・「waiwai隊」の山歩きの記録  
     
     
   ・5月2日(金)〜5月4日(日) 一の森ヒュッテ泊  
    今回の、富士の池からの講中登山は、藤之池本宮の祭りの一つで、前年秋(11月3日)に剣山山頂から降ろし、麓の本宮に奉られていた『ご神体』を、春(5月3日)に頂上社に奉る行事なのだ。相棒の写真展の準備の一つに、これらの“お山”の風景が採用されるかどうかは不明である。今回の『講中登山』を調べる中で、詳細を記述する書物がなかなか見つからないので、詳細については宿題として来春までには概要は把握できるだろう。

 さて、剣山は霊山としてその名が知られている。“岳人”の特集で『立松和平の日本百霊山』にも載せられている。しかし、霊山・修験道・○×講・密教などなど、その昔からの日本のお山に関する物事は数多い。また、ここ剣山に関しても“見の越”からの『剣神社』からの参詣道と、“一の森”を経由するコリトリを登山口とする“富士の池”からの参詣道とがある。この二つは、同じ講でも組が別々に組織されているそうだ。そして、“一の森”を経由する派は『剣山本宮』を祀るのである。
 例年、富士の池の本宮にある“ご神体”を、5月3日に剣山の山頂社へと上げる行事が催される。本宮(富士の池)〜追分〜一の森(小屋脇の祠)〜二の森〜本宮頂上社(小屋泊)。翌4日は、刀掛け〜行場〜追分〜コリトリと降りてくる。
 
     
  5月3日 日の出  
     
     
     
   ・5月2日(金) 吹田(1日)〜徳島〜富士の池 〜一の森ヒュッテ   
     
    今回は前日に義姉宅へ寄り、千代さんの写真の架け替えの用事があったのだ。千代さんは、毎年の写真展毎に写真が溜まってきており、今やアパートの部屋は置き場所が無くなってきた今日この頃である。  
     
  コリトリ橋のたもとのお地蔵さん  
     
    石井町の義姉宅を7時過ぎに出る。今回は、登山口を“富士の池”としたので、何時もの貞光〜見の越のルートと違って、神山〜木屋平(旧名)へと走る。一昔前なら、“くねくね山道”が永遠と続く道で、あまり使う者の無かった道なのだが、近年、随分と道路の改良(近頃、良く聞く“道路特定財源”の効果か?)が進んでおり、徳島市以南の人たちは良く使っているみたいだ。コリトリには、9時過ぎに着いた。橋の袂には『工事中のため通行止め』の看板が架かっていた。  
     
  橋の下の渓流 龍光寺 登山口 10:23  
     
    コリトリ橋で、しばし撮影。傍らを工事用のミキサー車が橋を渡って行く。明日から連休で、工事も休みとなるだろう。龍光寺前には10時前に着き、出発準備をしていると工事の人が現われた。挨拶を交わし「ここら辺に邪魔にならない様、駐車しますが・・」と断りを入れると「聞いとる。明日、山で行事があるらしいなぁ〜、門の前じゃなかったらえぇけん」との返事だ。  
     
  剣山本宮剣神社仮本殿 仮本殿を建てた説明  
     
    富士の池からの道は、2001年以来である。石段を上がり、龍光寺裏の登山口で記念撮影だ。坂道を上がると、小さな社殿に出る。それが『剣山本宮剣神社仮本殿』だ。その脇に、本殿が流された災害の事が書かれていた。s51年9月に被災したのを仮復旧した・・と、平成11年10月7日の日付である。この年月が何を物語る?そして、今も道路復旧の工事が・・。そこからも急勾配の路が続いている。  
     
  ニリンソウ 追分 11:44  
     
    道端に咲く小さな花が春を告げている。どこまでも続くかと思われる坂を息を切らして登る。高度計を睨みながら、気分の良い林の中で小休止である。ひっそりと“ニリンソウ”が可憐な花を咲かせている。そこから直ぐの場所が“追分”だった。ここまで、一時間あまりを要した。  
     
  バイカオウレン 一の森が見えて来た  
     
    相棒の携帯が鳴った。内田さんからの電話だった。休憩の度に、コンビニで調達した食料を腹に収めるのだが、前方は相変わらずの急な登りである。しかし、一歩一歩が目的地へと身体を運ぶことになる。一の森ヒュッテが見える尾根に乗ると、右手の峪筋に残雪が認められる。今年はどの山域でも、遅くまで雪が残っているようだ。やがて、一の森の稜線が見えてきた。一の森の頂上に“こいのぼり”が泳いでいる。そうなんだ、5月5日は『端午の節句』である。稜線は風がガスを連れて来ていた。  
     
  笹原に出た ヒュッテ到着 13:10  
     
    ヒュッテに着いたのは、1時過ぎだった。小屋のドアを開け、声を掛けると女性が迎えてくれた。“連休中の手伝い”に来ているそうであった。結局、午後からは雲の中だろうか雨模様の天候となってしまった。
 今日のお客は、名古屋からの夫婦と私達の二組だけだった。明日からは、少し予約の電話が入っているそうである。楽しい夕餉は何時ものひとときで、名古屋のご夫婦は『連休中は、四国を一周の観光を予定していて、明日は高知で皿鉢料理を食べたい』、との話だ。我々は朝から、『ご神体』を持ち上げる人たちの撮影へと、“追分”まで降りる予定である。
 
     
     
     
   ・5月 3日(土) 一の森ヒュッテ〜追分〜一の森ヒュッテ  
     
    相棒は、朝早く目覚めたようだった。外は薄暗い。相棒は一人で撮影に出掛けたようだ。私もデジイチをぶら下げて外へ出た。濃いガスに遮られて、陽は高くなってから現われた。それも一瞬・・  
     
  朝の一の森ヒュッテ 剣山方面  
     
    期待した朝陽は、濃いガスを飛ばした強い風に一瞬現われたのだが、何時までたってもガスが覆っている。さて、名古屋の夫婦は『ジロキューに寄ってから下山する』そうで、7時過ぎに朝食を頼んでいた。相棒が撮影を終え、小屋へ戻ると『あんたらも一緒に済ませたら』とのことで、私達も朝食を頂く。今日は、『9時頃から上がる』から、その頃に降りればいいだろう。と考えていたのだが、先に下りて下準備と相成った。この頃になると、雲は風とともに何処かへ去り、強い陽射しとともに青空が頭上を覆って来た。  
     
  一の森頂上に鯉のぼり  
     
    朝食を早めに済ましたので「早めに降りて、準備をしようか」と、降りることとした。昨日、汗をかきながら登ってきた道を辿り“追分”に着く。昨日「ここら辺りが雰囲気良いよねぇ〜」と、相棒が言っていた場所は直ぐ下である。その場所には、9時前に着いた。暫く「どこで構えようか?」と、ウロチョロする。9時過ぎに一人の登山者が現れ「信者さんは登って来ていますか?」の問いに「下で会いましたが、15分程で来るでしょう」とのことである。しかし、15分が経過しても30分が経過しても現れない。

 尚も暫く待つと、一人の登山者が上がってきた。再びの「信者さんは来ていますか」に、「直ぐ下で休んでます」とのことだ。相棒にその事を伝え、カメラを構える。暫くすると、下の方から“法螺貝”の音がし、足音が近づいてきた。ご一行様のお目見えである。しかし、シャッターチャンスは難しい。その足取りは歳相応なのだろう。ユックリと進んでいるのは良いのだが、隊列はバラバラ状態である。後姿を写し、我々も後を追う。すぐ先の“追分”での休憩しているご一行さんに挨拶をする。
 
     
  追分の手前に来た信者さん達 剣山本宮一の森神社での神事  
     
    腰を下ろして休憩中の人たちの中「宮司さん、この度はお世話になります」と相棒が白装束の年配の方に話しかけると、ビデオを構えた若い方が「私です」と応えた。私たちは、勝手に年配の人と思い込んでいたのだ。挨拶を終えると、我々はスタンバイのため先に出る。撮影しやすい場所を選んで、カメラを構えていると、一行がやってくる。「いろんなとこにおるなぁ〜、忍者みたいや」とか、ワイワイガヤガヤと通り過ぎる。そんなことを何回か繰り返す。しかし、暫くの登りで、“ご一行様”は直ぐにバラバラとなり、休憩を繰り返す。

 やっと、一の森の主稜線になった。もう午後1時である。ヒュッテ前には、内田さんも出迎えていた。彼らは、ほら貝を吹きながら『六根清浄』と唱え上がってくる。ご神体を入れた籠を背負った二人(白装束の上に赤い上っ張りを着ている)、ご宝刀を持った人、そして組(全部で七組だそうだ)の代表者たちの一行である。ヒュッテに到着すると、小屋横の祠(剣山本宮一の森神社)へと“お参り”なのだ。そして、ヒュッテでの遅い昼食である。“ご一行様”は、二の森〜三の森(経塚森)〜剣山へと辿るが、我々は、明日の下見へと「精霊の森」へと向かった。日当たりの良い森には、“バイケイソウ”の新芽が青々と茂っていた。
 
     
  バイケイソウの群落  
     
    撮影を終えたら、ヒュッテへと戻る。今日は10名の宿泊者だった。部屋で昼寝していると、お客が来た様だった。内田さんが部屋の案内をしていると「風呂はどちらですか?」の声。「済みません、山の上には風呂は有りません」と答えていた。夕食時、隣席になった若いアベックは大阪の箕面市の人だった。「私らは吹田よ、近くやねぇ〜」と相棒。「今日は大歩危で、ラフティングをしてきたけど二人だけだった」など、若い人たちの会話は面白い。彼らはジーパンとズックとディバックという軽装である。

 さて、明日の朝は期待できるのだろうか?
 
     
     
     
   ちょっと一息  
     登山を趣味として、夫婦での山登りを始めて10年を経た。今、改めて想う“なぜ山へ登るのか?”という事に筆を進めてみよう。私は、山へ登り始めて間もなく山に関する本を読み始めた。山に衝かれた人達の書籍である。初めの頃に愛読(乱読?)したその多くは、初登攀や未踏の山が舞台の本であった。しかし、私が目指す“山へ登る”という意識とは随分と掛け離れていた。そんな中、唯一、私の気分と一致している文を目にした。それは、大島亮吉著の「山への想片」と題する随想で提起している『静観的登山』である。

 アルプスやヒマラヤなどの山々を目指して岩登り技術を磨いて、より困難なルートから頂を目指す。これは、日本山岳会が発足して以来、各地に山岳会が作られ目標とされたものである。もちろん、自然相手の厳しい気候条件や岩場を通過する技術を習得する事は必要であるが、目標が『より高く』にだけに置く必要があるのか?私の疑問はつのるのである。一部の山岳会の中には、登山を「ザイルを使った山登り」に限定して、主に足だけを使う登山を「ハイキング」と分類している偏狭な分類をしている会まで存在している。

 私の疑問は、私の故郷の“石鎚講”や今回の“剣山お山講”に触れ、日本人と山との関わりとを考えるとき、方向が見つかる。そして、その答えを明かしてくれたのが『登山の誕生<人はなぜ山に登るようになったか>』である。その内容を詳細に述べることは控えるが、『山と日本人』の項で、山に登った縄文人〜弥生人の稲作の開始と自然崇拝〜山岳信仰の始まり〜仏教の伝来〜修験道と山岳修行〜信仰登山〜信仰から物見遊山〜好奇心にもとずく登山。などと歴史的に解明し、近代登山への項へと続いている。

 今日、スポーツとして登山が位置づけられ、国民体育大会にも取り入れられている。しかし、世界の国々の中で登山を趣味とする人口が圧倒的に多い民族−日本。日本人の趣味登山の伝統は、世界中で特筆すべき特徴といえる。それは、日本の自然条件に依るものであり、我々、日本人がそこで生まれ、育ったからでもあろう。登山という趣味に出会えた点で、感謝すべきは“日本列島”の大自然なのである。『登山の誕生』の中で、『日本の山に本来ふさわしい登り方があるのではないかとじっくりと思考をめぐらす人たちが現われてきた』として大島亮吉を挙げ、『日本古来の登山の伝統を生かした静かな登山こそが日本人に向いた登山だと考えた』と、田辺重治と小暮理太郎を挙げ『一刻を争いあえて危険や困難に挑むような競争的な登山の様式に疑問を呈し、自然の美を楽しみながらゆったり歩く登山こそ、日本人にふさわしい本来の登山』だと述べている。

【参考文献:登山の誕生<人はなぜ山に登るようになったか>(小泉武栄著)】
 
     
     
     
    今回の“お山講”を調べる中、仏教の伝来と修験道など、日本には昔から山を拝み神聖な場所としての山が姿を現した。

 また、先日の比良修験道に関する疑問も今回明かされた。それは『修験道と仏教(春秋社発行「修験道と日本宗教」)』の『修験道と仏教1』より、『相応は『天台南山無動寺建立和尚伝』(1111年以前成立)に拠りますと,十七歳で比叡山において剃髪し・・・そして比叡山の南に草庵(後の無動寺)を設けて,其処を拠点に山内を巡拝する法華経の堂不軽の行をしました。更に貞観元年(859)から三年間に亘って,比良山西麓の葛川の滝に安居して穀断をしました。その折葛川の地主神志古淵明神の導きで,滝中の霊木に不動妙応を観じ,その霊木で不動明王を三体作り,葛川明王院,無動寺,滋賀県蒲生郡の伊崎寺に祀ったと云います(『参篭旧記』)。』との記述も見つけたのだ。

 以下に掲げる説明は、蛇足である。
 
     
   《山岳信仰とは》
 山岳信仰(さんがくしんこう)とは、山を神聖視し崇拝の対象とする信仰。自然崇拝の一種で、狩猟民族などの山岳と関係の深い民族が山岳地とそれに付帯する自然環境に対して抱く畏敬の念、雄大さや厳しい自然環境に圧倒され恐れ敬う感情などから発展した宗教形態であると思われる。山岳地に霊的な力があると信じ、自らの生活を律するために山の持つ圧倒感を利用する形態が見出される。

 日本においても、水源・狩猟の場・鉱山・森林などの経済的条件、雄大な容姿や火山などの地質的条件から山が重要視され、古来から山は神霊が宿る、あるいは降臨する場所と信じられ祭祀が行われてきた。また、死者の魂(祖霊)が山に帰る「山上他界」という考えもある(この他は海上他界、地中他界など)。これらの伝統は神道に繋がり、長野県諏訪大社や奈良県三輪山のように、山そのものを信仰する流れが生まれた。農村部では水源であることと関連して、春になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えると山に帰るという信仰もある。日本人ではないのだが、カールブッセの詩「山の彼方の空遠く、幸い住むと人のいう」という言葉が、日本人の山岳信仰の信仰観を表しているだろう。

 また仏教でも、世界の中心には須弥山(しゅみせん)という高い山がそびえていると考えられ、空海が高野山を、最澄が比叡山を開くなど、山への畏敬の念は、より一層深まっていった。平地にあっても仏教寺院が「○○山△△寺」と号するのはそのような理由からである。



《講中登山とは》
 日本においては、717年に泰澄和尚が開山した白山、701年に越中の国司の息子有頼が開山した立山など、宗教にまつわり山を開いた記録が残っている。鎌倉時代(1185年頃〜1333年)・室町時代(1336年〜1573年)以降、山に関する記録が減っていくが、何らかの理由で記録を残さなかったのか、実際に人が山に入らなくなったのかは、わからない。

 日本において、宗教目的以外で記録される著名な登山といえば、安土桃山時代、1584年(天正12年)12月の佐々成政による「さらさら越え」(北アルプス越え)である。しかも、これは比較的容易な無積雪期ではなく、冬季の積雪期に敢行されたという点でも注目されている。ルートは、立山温泉〜ザラ(佐良)峠〜平の渡し(黒部川)〜針ノ木峠〜籠川(かごかわ)の経路が有力視されているが、確証はない。立山の一の越〜御山谷ルート、別山〜内蔵助谷ルートをとったという説もある。

 文化・文政期(1804年〜1829年)、1819年の明覚法師と永昌行者による乗鞍岳、1828年の播隆上人による槍ヶ岳など、開山が相次ぐ。また、立山講や御岳講などの講中登山がさかんになる。寛政期(1789年〜1800年)に寺社詣でが解禁され、東海道中膝栗毛(1802年〜1822年)が人気を博すなど、民衆の間に旅行人気が広まったことが背景として考えられ、参加する者の多くにとっては、宗教的な意味合いよりも、物見遊山としてのものだったと考えられる。

 上記のように江戸時代後期、日本各地の“神の住む”と思われていた霊山にお参りする風習が流行することとなった。各地の霊山に“講”が出現し、組を中心としての“お山”参りの登山である。各地にある“講”は様々な祭事が行われていて、白装束に身を固め“火渡り”と称する神事や、滝に打たれる行や“垢離取り”を行ったり、法螺貝を吹きながら練り歩くのである。また行場の岩場には、鎖場などが設けられている。
 前述の“霊山”は、もともと仏教の伝来とともに修行僧が“修行の場”として選んだ日本各地の高山であった。



《六根清浄とは》
 @目に不浄を見ても、心に不浄を見ない。A耳に不浄を聞いても、心に不浄を聞かない。B鼻に不浄を嗅いでも、心に不浄を嗅がない。C口に不浄を言っても、心に不浄を言わない。D身に不浄に触れても、心に不浄に触れない。E心に不浄を思っても、中心に不浄を思わない。ということだ。

 
ウィキペディア(フリー百科事典)より
 
     
     
     
   ・5月 4日(日) 一の森ヒュッテ〜富士の池〜徳島〜吹田(5日)  
     
    今朝も早くから起こされた。昨日は濃いガスに阻まれて、写真(作品としての)にはならなかったのだろう。そのリベンジに向かうらしいが、思惑通りにいかないのが世の常なのである。
 準備をして外へ出る。うっすらと空が白んできて、相棒が「例の木を撮りに行く」と、笹原の中の獣道へと足を踏み込んだ。私もカメラザックと三脚を担いで、後を追う。昨日と違って、西の方角の山並みが薄っすらと浮かんでいる。今日も、雲海が出ていないようだ。昨晩、夕食時に「明日、雲海が出るか出ないかは“運”かいな」と私の言ったオジサンギャグを思い出した。相棒は、そんな事にはお構いなしで、「この木をどう撮るか」だけしか頭に無いようだった。私は、いつものようにデジイチで撮影である。
 
     
  早朝撮影  
     
    朝陽が当たる木の撮影を終えれば、昨日の続きの撮影が待っている。朝食を終え、昨日の泊まり客も出発し終わった頃、私たちも出発である。“講のご一行様”は、“刀掛けの松”から“行場”を巡って降りてくるそうだ。私たちは、お花畑から小滝の辺りで“待ち伏せ”と予定しているが、取り敢えず、“精霊の森”を撮影に行く。バイケイソウの芽吹く森の光景は、また新しい顔を見せている。しかし、朝の光とはいえ、“作品”となるかどうかは判らない。  
     
  いつもの森 行場の信者さん  
     
    小一時間の撮影を終え、小滝へ向かった。20分ほどで着くその小滝の手前で“ほら貝”の音が聞こえてきた。木々の新芽越しに垣間見ることが出来る向かい側の岩場に、白装束の人たちを認めた。慌てて撮影場所を決め、三脚をセットするのは相棒である。

待つこと30分ほどで、彼らは現れた。昨日の二時間余りの同行で、すっかり顔なじみになった彼らに挨拶を交わしながら、シャッターを押す。その小滝を登れば、直ぐに“お花畑分岐”なので急いで彼らの後を追った。実はその“お花畑分岐”で、彼らは二手に分かれての下山だった。足の不安な人たちを、一の森から追分への下山路へと分けたのだった。
 
     
  追分への分岐 追分へ下る  
     
    私たちは、もう一方の道へと先回りして待ち構える。その本隊は直ぐに現れた。数枚の撮影だけで、彼らは森の中へと消えて行った。再び会えるのは何時のことだろうか?  
     
  記念撮影 10:48 下山 12:48  
     
    さて、今回の我々の目的は達したので、あとは下山するのみである。ヒュッテに戻ると、丁度、“お花畑”で分かれたもう一班が入れ違いにヒュッテを後に降りていくところだった。荷物の整理を終え、私達も下山である。今回の記念撮影は、お手伝いの女性にお願いした。
 淡々とした下山だが、“追分”の下の気分の良い場所でコーヒタイム。そして、『ちょっと撮影』タイムなのである。半時間ほどの撮影で、再出発。林道に降り立つと、前方に白装束の人が居た。一人がロープを手にして、もう一方の人の身体に巻いて降りていた。そのロープを巻かれた年配の人は足元がおぼつかない歩き方で、不安定な斜面を一人では歩けないので、確保しながらの下山だった。道路から大声で呼びかけている「そっちからソロソロ降りとったら何時までかかるか分らんから、道路を降りんか?」と、“お花畑”で分かれた一方の内の一人だった。結局、山道を引き返して道路を降りるみたいだった。
 「お気をつけて」と言葉を交わし、私達はそのまま下山したのだった。
 
     
     
    今回は、一の森の写真展と言えば、コリトリからが古くから剣神社本宮参拝の表参道だし、御神体をお山に上げる行事があると言うんで、外せないかな〜と思って行ったんじょ。スナップは苦手だし・・、精霊の森を通る時だけでも一枚撮れればと思ったんやけど・・・、アッと言う間に行ってしまうし、今だ!と思った時には1人の信者さんが何か見つけたのかしゃがみ込むし〜 と言う訳で思うように撮影出来んかった。

それに、この時期に一の森に来てなかったので、思わぬ風景もあったのに・・・、着いた時にロケハンに行けばよかったのに・・・、とか、三脚を持って行ってない時に良かったりとか・・・、裏目裏目だったんじょ。(*_*;

 春の今の時期の写真がないんで近いうちに行かんと、写真展までに今年しか写すチャンスがないんじょ。(^_-)-☆