2008・・「waiwai隊」の山歩きの記録  
     
   山芍薬 ミツバツツジを求めて  
   一の森 V  
   ・5月27日(火)〜5月28日(水) 一の森ヒュッテ泊  
     
    初めて“精霊の森”へ行った時、大桂の木に圧倒され、この森を撮りたいと思うようになった。それから一の森へ行く度に訪れて撮って来た。おっちゃんの転勤に伴い、仕事を辞めて大阪へ来た当初は、周りに知り合いもなく途方に暮れたものだが、新聞の折込の中にNHK文化センターの募集チラシがふと目にとまり、それから写真教室に行き始めて、先生、生徒の皆さんに、又、3年前から入会した日本山岳写真協会関西支部の皆さんにも親切にして頂き充実した毎日を送っている。

 おっちゃんの定年も残す所2年あまりとなった去年の12月に、大阪で暮らした日々の集大成として、撮りためた一の森の写真で写真展をしたいと思うようになり、富士フォトサロンの審査に出したところ、開催させて貰えることとなった。
 ところが、開催予定時期の勘違いで、思っていたより1年も早くなってしまった。これから、お花や、剣山の行事等を撮ろうと思っていたのだが、その撮影が今季しかないのだ・・・。お花は毎年咲く時期が違うし、おっちゃんに無理を言って用事のない時は一緒に行って貰っているのだが、それだけでは間に合わないかも・・、一人で行こうと思っても見の越までの交通機関が土、日以外はないし・・。
 そんな時、“千代の写真とリウマチ日記”を見て下さり、写真展に来てくださった<ひよこさん>がお友達と剣山・一の森に行くので一緒に行きませんかと誘ってくださった。26日にひよこさんの運転で徳島へ。徳島の姉宅で泊まり、翌27日に貞光〜見の越〜リフト〜精霊の森〜一の森へ。翌28日は、一の森〜剣山頂上〜ジロウギュウ(私は花をさがしてトラバース道)〜遊歩道コース〜リフト〜見の越〜神山(温泉)〜姉宅、29日に帰阪の行程だった。
 
     
  新緑の森 夕方  
     
    精霊の森は、前回16日〜18日に訪れた時には芽だしの色だったが、今回は優しい色合いの新緑になっていた。白花のエンレイソウが咲き、林床のトリカブト、カニコウモリ、バイケイソウの葉が伸びて、出たばかりだったスミレ、コミヤマカタバミ等は少しくたびれていた。期待の山芍薬の蕾は、だいぶ大きくなっていたが咲くのは今週末か・・。ミツバツツジの蕾も固い。  
     
  朝景 コミヤマカタバミ  
     
    夕景の撮影は、少し雲が赤くなったくらいだった。夜中に星を撮ろうと起き出してセットし、2時間後に行って見ると・・、レンズの操作ミスで失敗。2回目をセットした頃には月が昇ってきて・・、電池も切れるというアクシデントで失敗。結局1時間位うとうとしただけだった。朝景も雲海はなく、いつも通りの情景だった。

 石鎚山系のようにアケボノツツジは咲かないし、剣山に咲くピンク色の花と言えばミツバツツジだが、咲いてない・・。やっと、遊歩道コースに少し咲いていた。もう少し咲けばジロウギュウと共に写せるだろう。

 ヒヨコさんと、お友達のお陰で、新緑の撮影とミツバツツジのポイントを見つける事が出来た。感謝!!
 
     
   “山に恋する” のレポはおっちゃんの当番だけど、08一の森V はwaiwai隊でなく、一人だけだったので以上は千代のレポでした。  
     
     
     
   一の森 W  
    千代さんは、徳島から29日に帰ってきた。「土・日なら、咲いているかも?」の、帰宅後の第一声は31日からの“一の森”行を指して言っている。私も、今月三回目(千代さんは四回目)となる。前回同様、中国道〜山陽道〜淡路島〜徳島道〜貞光〜R438号である。  
     
  夕焼け  
     
   ・5月31日(土) 吹田〜見の越〜一の森ヒュッテ   
     
    今回は、“遊歩道コース”を採る。前回に降りに使ったコースである。今回は、登りなので、剣神社奥の登山口からリフトを潜って、右への道を採り、西島神社を回りこむ形でリフト西島駅へと進む。ここから、大剣神社へ向けて剣山の西面をトラバースする道である。大剣神社脇には“御塔石”が聳えており、袂に“御神水(おしきみずと呼ぶ)”が湧き出ている。それらを左手上に見て、右手の深い峪は“大剣谷”だろう。“ジローキュ”が見える場所にミツバツツジが咲いていた。相棒は、ここでしばし撮影である。  
     
  まだ蕾のヤマシャクヤク 霧の精霊の森  
     
    一通りの撮影が終れば、“大剣神社”へと戻り、刀掛けから“お花畑”へ向かう。斜面に咲く、目的の山芍薬は咲き始めたばかりのようだった。今の時期、春の花々は終って、夏へと向かっているのだろう。行場の手前で、後から来た女性の二人組みが「キレンゲショウマの咲く場所はこちらで良いのでしょうか」と尋ねてきた。「未だ咲いていないですが、こちらで良いです」と、前後して歩く。彼女らは、行場の斜面の道を見て「ここまでで良い」と、引き返したようだった。剣山は、リフトを使えば1700mあたりまで登れるので、スカート姿の女性も見受けられる山域である。
 我々は、いつものように“お花畑”から“精霊の森”をめざす。
 
     
  夕焼け  
     
    お花畑には、山芍薬の蕾が白い色を付けていた。ここかしこにその白い印が見える。相棒は、撮影に没頭している。精霊の森へと立ち寄って、ヒュッテを目指す。
 5月になって三度目(相棒は四度目)となる一の森ヒュッテは、今日の宿泊客は10名だそうだ。女性のグループの6名と徳島の男性二人組みと私達である。が、単独の男性の予約が飛び込んだみたいだった。その女性グループに“お手伝いの二人”が混じっていた。
 徳島の二人組みは、日本酒と焼酎の一升瓶だけでなく、大きなスイカまで持ち上げていた。私も、焼酎とスイカをよばれた。彼らは、明日予定されている「清掃登山」へ参加するとのことである。ほとんどの参加者は、見の越へ集合してから、各登山道をゴミを拾いながら上がってくるようだ。また、明日は『登山競争』の催しも予定されていて、内田さんも、その手伝いに借り出されいるとのことだった。

 「夕陽が綺麗ヨ」との誰かの声で、それぞれがカメラを持って外へ出て行った。「今年一番の夕陽だった」との内田さんの言葉である。夕餉のひと時は、消灯時間まで続いた。
 
     
     
     
   Vol T  
    今回は、一連の考察の中で『登山』の定義について触れた項を少し掘り下げてみたい。

 先に引用した「日本山岳会」の創設者の一人である“小島烏水”らが「山へ登る」影響を受けた書として『日本風景論(明治27年)』が挙げられる。その著者は志賀重昴氏だった。その文章中から少し紹介しよう。

 『山、山、その平面世界より絶々するところ多々。
  (一) 山は大地の彩色を絢煥す
  (二) 雲の美、奇、大は山を得て映発す
  (三) 水の美、奇は山を得て大造す
  (四) 山中の花木は豪健磊落なり』
 と記し、以下『登山の気風興作すべし』と述べ『・・君が頭脳は神となり聖となり、自ら霊彗の煥発するを知る。いわんや山に登るいよいよ高ければ、いよいよ困難に、ますます危険に、いよいよますます万象の変幻に逢遭して、いよいよますます快楽の度を加倍す。これを要するに、山は自然界の最も興味あるもの、最も剛健なるもの、最も高潔なるもの、最も神聖なるもの、登山の気風興作せざるべからず、大に興作せざるべからず。』
と鼓舞している。
 この書を読んだ明治生まれの若者たちによって、「日本山岳会」が船出したのだった。その日本山岳会の発足が、「日本アルプス」の山々にまた、日本の山々に「登山」という名で足跡を残していったのである。当初は未知の山を目指し、次には未知の山域を目指し、そして“より高く・より険しい路を・より困難なルートを”と、先陣争いを始めた。舞台は、ヨーロッパアルプスからヒマラヤへと変わるのは当然のことだった。(かつて、コロンブスの時代の大航海時代。大陸を発見し、北極・南極を踏み、地球上に辿るべき場がなくなると目指すは“宇宙”であり“月”だったように・・)
 つまり、アルプスを目指すには、岩を登れ、氷を登れなければ・・。の競争が始まった。

 前々項から続く『ちょっと一息』で触れた大島亮吉著の《山の想片》には「ピークハンティングより静観的な態度へ」と述べ、『・・今日の登山者は登山の技術においてもずっとその最初の征服者、すなわち近代登山者よりも上にありますから、その最初の登山者の困難したところも容易に行くことができ、したがって山を登るのに余裕があります。よって山と闘うという気持ちよりも山と親しむという気持の方が優って味わわれるのであろうと思います。』と、このような接し方を静観的という語をもって言い表わしてもいい・・と提起しています。

 また、田部重治氏の「日本アルプスと秩父巡礼」の序文に小暮理太郎氏が載せた『私達が山へ登るのは、つまり山が好きだから登るのである。登らないで居られないから登るのである。なぜ山へ登るか、好きだから登る。答えは簡単である・・・』を引用している。

 大島亮吉氏が活躍した大正から昭和にかけた時期は、明治後期から大正にかけて日本の山々が登り尽くされた時代とも重なる、また慶応大学山岳部の同胞である槙有恒氏(*1)が本場アルプスのアイガーへと足跡を残した偉業とも相まった時期でもある。同時に技術的には、西欧から持ち込まれたザイルを使っての確保技術による岩壁を登る技術や、アイゼンを履いて氷雪を登ったり雪上歩行(スキー登山も)の技術が進んでいった時期でもある。これらは、アルプスの山々を登るために(日本の冬山を歩くために必要な道具には、既に“輪かんじき”が存在していた。)発展してきた技術でもある。

 そんな時期に、板倉勝宣氏が唱えた『静観的な態度』に接し、その遺志を受け継ぐ形で問うたのが、大島亮吉氏だった。日本山岳会が発足当初の『日本アルプスの探検時代』が終え、登山技術の追求が始まり、スポーツアルピニズムが声高に叫ばれ『アルピニスト』だけが真の登山者だとする時期に、一方で、『それだけで良いのか?』と投げかけている文章だと、私は読む。

 時代は進み、昭和の忌まわしい(おぞましい?)時期を経て、『ピークハンティングに帰れ』と叫んだ登山家がいた。彼(松濤明*2)の詳細は次回に譲ろう。

 *1 《1921年(大正10年)、アイガー東山稜を初登攀する。1923年1月、板倉勝宣、三田幸夫と共に積雪期の立山へ登山、下山中に松尾峠で板倉が遭難死する。1956年(昭和31年)、ヒマラヤ山脈の未踏峰の一つであったマナスル遠征隊の隊長となる。同年5月9日、11日に槇の指揮する日本隊は、マナスル登頂に成功した。》

 *2 1949年、風雪の槍ガ岳・北鎌尾根に消えた彼。『風雪のビウ”ァーク』の書に残された珠玉の名作。
 
     
     
     
   ・6月1日(日) 一の森ヒュッテ〜見の越〜吹田  
    今朝はヒュッテの宿泊者は“清掃登山組”の二人は遅い朝食だそうで、我々も二人に合わすこととした。しかし、我々が起き出すのは、夜明け前である。朝食前に、“精霊の森”の撮影が待っていた。  
     
  朝の 一の森 朝の 精霊の森  
     
    “精霊の森”での撮影を終えると、朝食を採りにヒュッテへと帰る。女性グループは、朝食を終えて下山だそうだ。その女性グループは、愛媛と徳島からのグループだった。その辺りの仔細については聞かないこととしよう。単独の男性は『ジロキューから丸石まで縦走して、また戻ってきます。』と、今日も宿泊の予定である。  
     
  白花のエンレイソウ  
     
    遅い朝食も8時過ぎには終えた。徳島の女性三人組みが内田さんと共に“山芍薬”を観ながら降りる・・というので、我々も共に出発とする。愛媛の女性三人組みは8時過ぎに、単独の人は私達がヒュッテに戻る前に、徳島の二人組は朝食後“一眠り”だそうだ。  
     
  ヒュッテの前で 穴吹川源流の滝  
     
    内田さんは10時に頂上なのだが、お花畑から刀掛け経由で向かうそうで、徳島の三人組みと一緒の記念撮影と相成った。既に、“清掃登山”組は一足先に出発だった。  
     
  ジロウギュウを望む 登山競争  
     
    お花畑の手前まで、徳島三人娘(?)グループと一緒に行く。我々はお花畑分岐の手前で先を行く。下山は、昨日の道を降りる。遊歩道にある“休憩所”で休んでいると、下から大勢の足音がした。『登山競争』の人たちだった。『あなたが先頭ですか?』の相棒の声に『一番で〜す』と返ってきた。二番手は・・よく見た若者である。今月の“講”と“雷”に次いで、今回の“登山競争”と三回目の出会いであった。次回は何時出会えるのだろう。  
     
     
     
   一の森 W  
     
  バイケイソウの花芽が立っている  
     
   ・6月7日(土) 吹田〜見の越〜一の森ヒュッテ   
     
    こんなに“一の森”行が続くと、出だしから書く事は無い。いつものように、いつもの行程で、いつもと同じように出発である。  
     
  大剣神社 10:10 三嶺を遠望  
     
   今週も天気予報は“晴れ”マークである。先週咲いていた“ミツバツツジ”と蕾だった“山芍薬”が楽しみな相棒の足取りは軽い。先週と同じルートを辿る。  
     
  懐かしい愛媛の山々が見えた  
     
    先週よりは見通しが利いている。写真でははっきりとは判らないが、赤石山系も同定できた。相棒は、“ミツバツツジ”の咲き具合に期待していたみたいだが、“そうは問屋が卸しません”というのが自然のなせる業でもある。  
     
  お花畑 14:10 山芍薬  
     
    一方、“山芍薬”は、いたるところで蕾が見られる。お花畑へと、足は自然に急ぐ・・相棒である。しかし、先週は蕾だった花は、もう終期を迎えているようだった。お花畑の新しい芽は、山全体を緑一色に着飾っており、その中で白い蕾が点在している様は、言葉では言い表せはしない。
 
     
     
     
   ・6月8日(日) 一の森ヒュッテ〜見の越〜吹田  
     
    昨日の一の森での宿泊者は、私達と“川之江”の家族だった。全く偶然なのだが、先の“一の森”越年山行の際知り合ったご夫婦が娘さんと一緒に来たのだった。結局、彼らが泊った三度の“一の森”に居合わせたわけである。  
     
   精霊の森にも咲いていた 9:40  
     
    朝一番で、朝陽が顔を出す前に“お花畑”へと出かける。昨日の昼間の色とは違って、朝の色は瑞々しさが際立っている。時折りガスが流れてくる。相棒は、嬉々としてファインダーを覗いていた。  
     
  新緑 シダの葉も出て来た  
     
    撮影が終ると、ヒュッテへと帰る。川之江のご家族は『槍戸山へ寄ってから下山する』そうで、私達は、朝食を終えると下山するのみである。
 
     
  剣山本宮の信者さん 不動の岩屋  
     
    “お花畑分岐”にデポしていた荷物を担ぎ、出発しようとしていると登山者が現われた。その姿を見た途端「お久し振りです。その折はお世話になりました」との偶然の出会いは、先日の“講のご一行”の人たちだった。何が、引き合わすのか?昨日から偶然の連続である。立ち話の最中に、川之江のご家族も降りてきた。彼らは、“精霊の森”へと出掛けたが、私達は下山だ。さて、次回はどんな出会いが待っているのか・・楽しみが増す、ますます一の森行が楽しみとなる結末だった。
 
     
     
    “一の森X”のおっちゃんのレポの簡単な事(笑)、「写真がないから・・」と言うんやけどね。8日は雨の予報やったんやけど、持ち直したんでヒュッテの前で日の出を少し待ったんやけど、ガスが少し晴れるだけで良い感じになりそうになかったんで、お花畑に行ったんじょ。山芍薬は早朝なんでつぼんだままやったんやけど、花自体を撮るんやなくて雰囲気が撮れたら良かったんで、私としてはまあまあかな〜♪

“講のご一行”様が来た時はほんまにビックリじょ! 夏祭りが7月17日に行われる前にしめ縄を掛けに来たそうで、帰りに通る《不動の岩屋》に真新しいしめ縄がかかっとったんで撮ったんじょ。これで、6月は写真展や、おっちゃんの用事、写真クラブの講評会とずっと予定があるんで、行けんけど・・・、仕方ないわねぇ〜。(ーー;) まぁ、お花も夏の花が咲くまでは、それ程咲かないし、7月5日、6日のオフ会の時に写せるからね。(^_-)-☆