2008・・「waiwai隊」の山歩きの記録 | |||
・5月16日(金)〜5月18日(日) 一の森ヒュッテ泊 | |||
前回の“一の森”行は、ゴールデンウィーク中の5月2日〜3日の祀りの撮影を目的としたものだったが、二週間後の今回は、木々の芽吹きと新緑、そして春を告げる花々の撮影だった。 来春に予定されている相棒の“写真展”に間に合うような写真が撮れるのか?また、相棒の“一の森”通いは、来春までに何度となるのであろうか? |
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・5月16日(金) 吹田〜見の越〜一の森ヒュッテ | |||
今回は前回と違って、我が吹田のアパートから直接“見の越”登山口を目指すので、中国道〜山陽道〜淡路島〜徳島道〜貞光〜R438号である。 | |||
見の越の蕎麦屋(手打ちの看板がある)で、腹ごしらえをして出発である。いつもの大回りコースを辿り、『祖谷川源流の碑』が架かる場所でちょっと撮影。『刀掛けの松』からは、“お花畑”を経由、といつものルートを採る。前回とは違って、“防鹿柵”も修復されていた。行場を過ぎ、小滝のところで、青年が降りてきた。声を掛けると「一の森で泊るお二人ですか?内田さんが頸を長くして待ってますよ」とのことだ。私は「そうですが、それはそうと、貴方とはどこかでお会いしましたよね」と応えた。彼は“連休の(5月3日の)“講”で一緒だった”青年だった。その折は、“ご一行様”の案内を頼まれ、首にロープをぶら提げての歩きだったのだが・・ 今日は「先日の雷被害の修理に上がっている」とのことだった。 |
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いつもの“精霊の森”での撮影は、毎回のように衣装替えをする女優さん(最近の例では、NHKの大河ドラマでの天璋院篤姫のようにか?)のように新鮮である。バイケイソウは、青々と森を染めていたし、木々の若い芽は、日一日成長していたのだった。ガスが流れてきた風景は、息を呑む。シャッターを押す指にも力が入る。 撮影は一時間を越えていた。“一の森ヒュッテ”へと、出発しようとしていると相棒の携帯が鳴った。内田さんからの電話だった。相棒は「今から、向かいます」と応えていた。 |
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見の越の蕎麦屋さんで「2〜3日前の雷は凄かった。家はまだ被害が少なかったが、前の家はボイラをやられた」「最近の気候は変だ。雷も、過ぎて行ったかなと思ったら、暫らくしたら戻ってきて、また暫らく居座った。紅葉にしても、新緑にしても、昔は高度によって順番に降りてきたり、上がっていったりしたもんだが今は違う、バラバラじゃ〜。地球全体がおかしくなっている」・・同感である。 | |||
ヒュッテには、5時頃に着いた。夕食は我々と内田さんの三人だけだった。「明日は何組か予約が入っているので、西条のお嬢さんがお手伝いに来てくれる」との事だった。一の森ヒュッテの雷被害はたいていの電気器具はコンセントを抜いていたので少なくて、内田さんの自室のテレビと、一台のストーブ、一台のポットだけだったが、リフトや頂上ヒュッテは大分やられたみたいだ、とのことで、当日は「部屋の中でバチバチと火が飛んで、凄かった」と話していた。この辺りの状況については、偶然居合わせた当日の客の一人に“剣・祖谷の山嶺”をアップしている“M”さんのプログに詳しく載っている。写真は一の森ヒュッテでの雷被害で、先ほどの青年により取り替えられた電気製品だ。 | |||
・5月17日(土) 一の森ヒュッテ | |||
今朝も雲海が出ない朝だった。見慣れた朝の光景だ。私は4時半ころに相棒に起こされたのだが、相棒は2時頃から星空を撮っていたそうで、『二枚目は失敗した。途中で電池が切れた』と、残念がっていた。 | |||
朝食を終え、小さい花々を撮りに出掛けた。7時過ぎである。昨日見つけていた花をマクロレンズで狙う。相棒は実に辛抱強い。自分の描いているイメージどうりのフレームになるよう微妙な修正を重ねる。イメージと違うものが入り込むと、それを除けようとする。時間の経過なんかお構いなしである。 | |||
“精霊の森”での撮影は、午前中を費やしてしまった。ここへ通い始めて、何度、この景色を見たんだろうか。しかし、飽きもせずカメラを構える相棒の態度には“敬服”という言葉以外は見出せない。 | |||
昨日話していた彼女は、昼過ぎに到着した。相棒は、失敗に終った“星の撮影”で熟睡出来なかったようで、昼食後『今朝、早くから起きたので昼寝』と決め込んだ。そのうち、3時過ぎには宿泊者が到着した。8名のグループと、一人のカメラを抱えた人たちである。彼らは、食事の前に、内田さんの勧める“槍戸山”へと向かった。 | |||
『寝れんかった』と昼寝から起き出して来た相棒は、夕陽の撮影へ出掛けた。もちろん、私も同行である。 | |||
前回に続いての考察である。今回は、山岳第四年第三号にて“剣山”の紹介をした多田香疇氏の行程を載せることとした。彼は京都の人だが「徳島は旧知の地、知己多し・・」と、徳島には通いなれている様子で「予定は、貞光より一宇渓に入り、祖谷山に下らんとす」と、9月12日大阪から船により徳島を目指すとの書き出しで、以下の行程であるが、明治41年なのか42年なのかは判らない。 《9月12日》 大阪(22時)〜兵庫寄港〜徳島・富田橋畔(翌6時半) 《9月13日》 市内見物 《9月14日》 徳島(13時)〜舟戸(14時26分)〜貞光・・車にて大坂屋(16時半)泊、翌、雨にて停滞。 《9月16日》 貞光(8時10分)〜端山〜鳴滝(10時20分)〜土釜(10時40分)〜一宇村・古見(12時半)泊。 《9月17日》 古見(7時半)〜須換瀬(8時40分)〜河内(9時45分)〜つづらお(11時)〜紙屋(12時)〜池峠(14時45分)〜見の越(16時25分) と、現在の登山口へ着くまでに、6日間もかかっている。 《9月18日》 見の越(7時)〜西島祠(8時40分)〜蝋石岩(10時20分)〜剣山山頂(賽蔵石11時半〜12時半) 〜岩賽祠(12時50分)〜小剣祠(13時〜14時10分)〜立石分れ(15時50分)〜藤の池(16時20分)泊。 《9月19日》 藤の池(6時40分)〜垢離取川〜川上神社〜谷口(11時55分)泊。 《9月20日》 谷口(6時10分)〜杖立峠〜石堂権現〜平谷〜小谷〜古宮〜宮内(16時40分)泊。 《9月21日》 宮内(5時)〜穴吹から《高越山登山(穴吹道を登り、川田道を降りる)》〜徳島。23時20分発の船にて大阪へ、22日、汽車にて京都へ帰着。 【参考文献:山岳(日本山岳会機関誌・第四年<1909年(明治42年)>(投稿:多田香疇)】 全く凄い行程である。また、この剣山への登山道として @山崎より種野山、別枝小入村を経て、小屋平渓〜河合〜谷口〜茗荷からの道 A祖谷渓より入り、東祖谷山字菅生。又は名頃より池峠を経て一宇口と合す道からの西の本道。 B穴吹より穴吹川に沿い、杖立峠を越え、小屋平村谷口に至り、山崎道と合す道。 C貞光より一宇川を遡り、紙谷より池峠にて祖谷道に合す、上記の道。 そして、木頭谷より登る道。土佐別役より登る道も記されている。 さて、上記の記録をわざわざ長ったらしく引用したのは、前回の《人はなぜ山に登るようになったか》との関連で、残っている一番古い記録(私が持っている)を挙げたのである。登山として残されている記録は、日本山岳会(小島烏水らが明治38年発会)が発足してからのものなのだが、趣味登山としての信仰登山は、江戸時代後期から民衆の間に営々として続いてきたのである。この“講中登山”という集団登山の伝統は、日本山岳会の発足後“学校登山”という形で受け継がれてきたようだ。そして、昨今“ツアー登山”という商業主義を持ち込んだ新形態も現われてきている。 前回触れた、この《人はなぜ山に登るようになったか》の終章で、筆者(小泉武栄氏)は、『最先端の登山家が高度な技術を駆使してどんどん先に進んでしまっている点は、ドイツやフランス、アメリカあたりでも同様である。しかしこれらの国では、自分の足で歩いて山に登ろうという普通の登山者は意外に少なく、山を楽しむ人はロープウェイや登山列車、あるいは自家用車を利用することが多い。』とし、“普通の登山者”の多い登山の特徴を日本の自然の特異性にあることを述べている。そこの所の詳細な記述は避けるが、民衆の間で続けられてきた“講中登山”の伝統を振り返ってみることも善いのでは・・と、考えを巡らす昨今である。 |
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夕食タイムは何時もの“一の森”である。 家族的な雰囲気? ゆったりと寛げる小屋? このヒュッテが“市営”?そうなんだ、この雰囲気が一の森の特徴でもある。 今宵の私は、早くに起こされたこともあり、9時前には布団の人となった。 |
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・5月18日(日) 一の森ヒュッテ〜見の越〜吹田 | |||
今朝の朝食時間は早かった。団体さんの出発時間が6時だったので、朝食が早くに設定されたのだった。その団体さんは“揖斐川町山岳会”の人たちで、岐阜県から一泊二日での今回の山行計画だった。 | |||
単独の方は三田(兵庫県)からの人で「急に思いついて来た」と、昨日予約の電話の人だった。朝食後、暫らくの団欒だった。 朝食を終え、ヒュッテ前での記念撮影は“お手伝いのお嬢さん”と一緒にお願いした。 | |||
三田からの単独の人に『精霊の森へ行ってみませんか?』と誘う。彼は『アウトドア・スポーツ』の多くを経験しているみたいで、“ダイビング”は奥さんと一緒の趣味のようだった。暫らくの会話だけで、彼らの日常が垣間見れるのだ。是非、奥さんにも『日本の山の善さ』を伝えてほしいものだ。 さて、その“精霊の森”での撮影を終えると下山である。 |
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一足早く“精霊の森”を引き払った彼は、小滝で撮影していた。我々は、行場へは向かわず三十五社からの道を辿る。そして、刀掛けから“御神水”を目指す。木々の若い芽は、言いようの無い・・言葉で云い表しようのない素敵な色合いを奏でている。 | |||
『ちょっと、ここ撮る』の相棒の言は、いつものことだ。“御神水”ではコーヒータイムである。団体さんが『いい香り〜』と通り過ぎる。すると、先ほど別れた彼が姿を見せた。何かの縁を感じる再会である。『何時か、何処かで・・』の挨拶は山での別れの言葉である。 | |||
別れは、次の出会いへと続くのである。下山の道々でも相棒の『ちょっと、ここ撮る』の連続である。道端の花々は、一昨日には無かった光景を見せていた。日一日進む装いである。 |
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時間の経過も何のその・・、ゆっくりと下山の時を楽しむ。『見の越で昼食にする〜』と、相棒は何時でもマイペースを決め込む。今回の撮影行も無事終わり、すっかり定例となってしまった“見の越”での昼食は、いつもの“XX定食”を注文したのだが、あいにく“品切れです”と却下されてしまった。 |
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精霊の森の撮影は、確かに飽きもせずと自分でも思うんじょ。いつもと違う視点で撮ろうと試みるやけど・・・、頭が固いのでねぇ〜。ま〜いいっか、それが私なんだし。 | |||