藪漕ぎの楽しみ

 

迷路を歩く・・比良山系【2007年12月8日(土)】

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 昨年から今年にかけて、このページに載せるような山行が出来なかった。山行自体が無かった訳ではないのだが、“ドキドキするような山歩き”が無かったということなのだ。しかし、このページにルート図を載せるのがいいのか、悪いのか?今もって決まっていない。

 

 

 

  基本的に当サイトのこのページは、『自己責任』での計画を前提としているし、今や、色んなサイトに岩登りや沢登りや、また、冬期の雪山山行の紹介も沢山観られる中、私達のサイトを見て山行計画を立てる人など稀な筈で・・っと勝手に解釈し、結局は、ルート図を載せることとなるのだろう。全く勝手な思いよがりの強いサイトである・・我ながら思う。【結局、この記録の最後に書いたことを理由として、ルート図を載せることとしました】

 

 

 

 今回は、先週の“堂満岳”の計画が久々の“山歩き(撮影を伴わない・・という意味で)”の実現により、結果的には『千代さんの復活』を記念しての山歩き計画となった。

 

 

 

 

坊村(明王院)〜御殿山〜(西南稜)〜武奈ヶ岳〜コヤマノ岳〜東南尾〜奥の深谷出合い

 

    《山と渓谷社(フルカラー特選ガイド30(p76)》に掲載

 登山口の明王院の手前にある地主神社前にある駐車場には8時前に着いた。車を出ると、猿が神社の奥へと去るところだった。(出だしからの“オジサンギャグ”です。久し振りの『藪日記』ということもあり、ご容赦下さいませ(^_-)-☆

 

 三宝橋を渡ったのは8時過ぎである。明王院では、昨年来の工事が続いているが、現在は本堂の屋根に工事の手が及んでいるようで、シートに覆われている。道端には、巨大な杉が丸太となって積まれていた。二人で感心していると、先ほど通り過ぎた関係者の人が「500年ぐらいはは経っとるやろ」と話しかけてきた。境内に生えていた杉を伐採したようで、辺りが明るく感じる。

 

 さて、直ぐ先の登山口からは、つづら折れの道が植林の中に続いている。この時は、御殿山から武奈ヶ岳の往復だけしか考えに無かったが、5時間後から始まる事件が発生する事など知る由もなく、黙々と高度を稼ぐのみである。

 

明王院の三宝橋 登山口

 

 植林の中にうんざりするほど続くつづら折れの路は、インターネットで知り合うことになった“chikaさん”の呼ぶ『石庭』の場所まで続いている。汗の噴出す夏場だと、この場所の風の爽やかさとその景色に想いを巡らすことになるのだが、冬の到来を待つ今の時期は、木々の佇まいが凛とした空気を醸し出している。今朝、コンビニで買ったオニギリを腹に収めて、再びの出発は9時過ぎである。

  

石庭 急登の道

 

 栗の実  

 再出発後も、しばらくは急登の路が続くが、やがて『口ノ深谷』側から派生する尾根と合わさる主尾根に乗って、葉を落とし、雪の到来を待つ樹々の間を歩くこととなる。この尾根の辺りになると、植林の林から自然林となるのである。その尾根の路も、しばらくで夏道のトラバースの箇所に差し掛かる。雪のある時期には、ここからは尾根どおしの冬路を辿ることとなる箇所でもある。

 

 

 トラバースの路は、枯葉に覆われた路で、“イワウチワ”の葉の茂る小さな尾根を回り込むと『口ノ深谷』の支沢部へと続いている。ここからは、夏の間も水の流れの無い沢部を暫く辿り、右側の小尾根へと路は続いている。“毬栗”がそこ等辺りに落ちている急な登りも少しで終わり、先ほどの冬路と合わさる小さな広場状の箇所に着く。御殿山までは、もうひと踏ん張りである。ここまでは、誰にも会わなかったのだが、相棒の「ちょっと避ける」の声に振り返ると、オジサン三人組みが、汗一杯の脂ぎった顔を紅潮して『ハアハア』と言いながら上がってきていた。ザックを持たないオッサンを含め、その三人組に路を譲って直に御殿山である。

  

主尾根の道から夏道へ 口の深谷の支沢部

夏道との合流場所

 

 先ほどの三人組は、休憩もなしで「武奈」へ向けて降りていったが、我々は御殿山で小休止だ。オッサンの『ヤッホー』の声を聞きながら、今朝作った紅茶を飲み、周囲の山々を観ながらの休憩である。眼の前に拡がる景色は、先週降ったのであろう雪が未だ解けていないままの斜面を、木々の間に、白くまだら模様となっている冬景色である。『口ノ深谷』を挟んで、コヤマノ岳から中峠を越えシャクシコバの頭と連なる尾根は、『奥ノ深谷』へと落ちている。この時は、ただボンヤリと眺めているだけだった。4時間後に起こる出来事を予感させるものは、何一つ無い。

  

武奈ケ岳 ワサビ峠

 

 さて、武奈ヶ岳へと、再出発の路は西南稜を辿る路だ。直ぐの鞍部がワサビ峠だが、標識には『中峠』への案内を記している「あんたはコッチの路からコヤマノ岳を通って、武奈へ行く?」との相棒の言葉は、サイト仲間の“iwahigeさん”の山行記の『奥さんは真っ直ぐに御殿山へ、ご主人はコヤマノ岳経由で御殿山へ下りた』件を引用しているものだった。私は、そんな相棒の声を背中で聞きながらも、足を武奈へと真っ直ぐに踏み出している。稜線の路は、所々で水たまりとなっている。先日降った雪が、ここ数日の陽に融けてぬかるんでいるのだ。

  

先週の雪も融けて 頂上も近い

  

 先週に続いての、久し振りの山行となった今日も、相棒の足取りは確かで「ちょっと痩せなあかんねぇ〜」との呟きは、最近増えた体重のことであり、本人の体調自体は大丈夫に見える。御殿山から一ピッチの行程の武奈の頂には誰も居なかった。「武奈では休憩しないで、コヤマノ岳まで行ってから休む?」の問いかけが、体調の良さを物語っているのだろうか?

  

武奈ケ岳頂上 コヤマノ岳方面

  

 記念撮影を済ませば、立ち去るのみである。武奈から八雲が原へと続く路は、掘割りのようにえぐられた路が小鞍部まで続いている。その鞍部から南側へと落ちている一本の筋が『口ノ深谷』の最源流部へと続くのである。それを右手に眺めながら、ぬかるんだ路を少し辿ると『コヤマノ分岐』がある。路端の残雪には、先ほど、私たちを追い越していった三人組のものと思われる足跡が残されていた。

  

コヤマノ分岐 八雲ケ原への分岐

 

  コヤマノ岳の北斜面には残雪があり、路端の雪の感触が妙に懐かしく靴底から伝わってくる。今期、初めての雪の感触だった。コヤマノ岳での休息場所は、頂上から少し降った『ブナの大木』の立つ場所にある。ここで小休止とした。陽だまりの中、久し振りの充実した山行に想いを巡らす時、中峠からの路から人の声が近づいてきた。その男女二人組みのペアは、挨拶を交わして通り過ぎていった。まもなく、我々も腰を上げて下山の途につく。この時は、中峠からワサビ峠を経て御殿山へと返す、下山ルートの予定である。

  

コヤマノ岳頂上 頂上のブナ 立派なブナ

 

 大ブナ案内板

 しかし何の因果か、下山路に使うはずの“小川新道”の左手に、仰々しくテープが続く路が続いているではないか。「山岳(日本山岳写真協会・関西支部)のKさんの『比良のブナの写真』は、小川新道とは違う場所らしいょ」との、相棒が以前から言っていた言葉が耳に残っていた。

 

 私の足は、自然にそのテープの方向へと向かっていた。明瞭とは言えない尾根筋には、大きなブナの木が次々と現れた。踏み跡は薄いものの、要所には目印の赤テープが巻かれていて、全く不安を感じない。この、暫く振りとなる未知の路を辿る喜びは、私の山行の原点だったのかも知れない。私自身が自覚しない、この種の興奮を目覚めさせた大自然とは何なのだろうか。ひょっとして、相棒がカメラを構えた時の『無意識の興奮』と同様のものなのかも知れない。

 

 ヨキトウゲ谷 

  降りるに従って、次第に森の様相はブナから杉へと変わって来たが、今朝、明王院脇で見かけた“切り出された大杉”とは違って、根元から“ぐにゃっ”と曲がった大杉である。もちろん、ある高さから上はきっちりと天に突き上げている。その高さこそ、雪の深さなのだろう事は容易に想像出来る。そんな路を暫く降りると、沢の音が聞こえて来た。そして、小鞍部に降り立つと立派な案内板があり、“八雲ヶ原”と“金糞峠”へと案内されていたが、右の沢が“ヨキトウゲ谷”の筈なので、中峠への路がある筈・・。

 

 私たちが目指す後者の路へは、踏み跡が判然としないものの、沢の向こうには路が明瞭だった。もっとも、沢を渡る箇所は適当に選ぶしかなかった。「思っていたとおりよ。ここを撮っといて」と相棒が話しかける。その“奥の深谷から中峠〜口ノ深谷〜ワサビ峠へと続く路”を、口ノ深谷側へと暫く降りると、奥の深谷から坊村へ続く路に出合った。相棒の「やっぱり、ここよ」の声が弾んでいた。

  

 中峠方向を示す印 橋を渡る

 

 きのこ

 つい先ほどまで、先週辿った路を再び踏むとは思ってもみなかった。本来なら、中峠からワサビ峠を経て御殿山へと登り返す予定だったので、こういう経緯へと誰が導いてしまったのだろうか。とにかく、先週の休憩場所もやり過ごして、毘沙門岩の脇を通り抜ける。「ここらで休もう」と言ったのは、二つ目の“お地蔵さん”が祭られている分岐だった。大橋小屋と南比良峠との標識のある、お地蔵さんの前で小休止である。『さっきのお地蔵さん(一つ目の)は、私たちと同い年ぐらいよねぇ』との相棒の話を聞きながら、小休止である。

 

  

奥の深谷との分岐  毘沙門岩

三叉路

  

 小休止の後、大橋小屋へと出発である。分岐にある小橋を渡り、直ぐの“スリバチの水(比良の名水)”の看板をやり過すと、川向こうに小屋が見えてきた。橋にはロープが張ってあり、頑丈に造られていた。谷側の一つを加えて三棟あり、古い造りではあるが、何とか夜露は凌げそうだった。

  

橋を渡る スリバチの水

大橋小屋への橋 大橋小屋

 

 小川新道との出合

  路は“奥の深谷”の右岸に続いていて、植林の間にも大きな杉が垣間見える。「わざわざ芦生に行くことはないよね」との相棒の言に頷きながら、私は無言のまま歩を進める。大橋小屋からは少しで“小川新道”の路が合わさった。ここからの路は何年か前に経験済みである。樅の大木が路端に現われ、やがて、谷から少し離れて路は続いているのだが、その路が不明瞭になる箇所で「あっちに路が続いているよ」との声に顔を向けると、右手に派手な印が付けられ“トラロープ”も張られていた。

  

 その印は崖状の場所を上がるように続いている。「こっちは違うはずや〜」との私の言葉に、相棒は「昔の路は崩れて、新しく付けられているんとちゃう。何かで読んだよ」との事である。『今日はこの路を辿ろう』と、当初からの計画だと、ネットで検索もしていただろうが、下山途中で思いついた行程だったので、地図さえ準備していなかった。しかし、ず〜っと続く明瞭な印が真新しかったこともあり、この路を否定する材料は見出せなかった。そして、以降の顛末を読んでもらうことで、このページに載ることとなった理由が明らかとなるのである。

  

台杉

 

  

  

 

 

【地図を別画面で表示】 

13:13 渡渉画像にマウスポインタを置くと説明があります

  

 さて、真新しい印の付いた路だが、新しい割には踏み跡は薄かった。その新しい印は、新しい杭も同様に打たれていたのだ。その理由が解ったのは帰宅後だったのだが、その上にトラロープまでも新品同様のまま付けられていた。もう、沢の音も遥か下になり、高度計は700mあたりを前後している。谷までの高度差は100mを越えているのだろう。『何時になったら谷を渡ることとなるんだろうか?』との疑問を抱きながら前進する路は、ず〜っと斜面をトラバースしていた。

  

  

13:17 腰が引けています 13:26 少し緩くなった

    

13:28 倒木をくぐる

 相棒は、「ロープに頼らず、岩を掴むか木の根を掴んで渡れ!」の私の言葉どおり付いてきていたが、何個目かの涸れ沢部のトラロープの降りの箇所で、相棒の足が滑った。慌てて駆け寄り、相棒の靴を手で支えたのだが、相棒は「ダイジョウブヨ」と自分で体制を立て直すことが出来た。

 

 相棒は昔から高度感のある場所では、斜面に身体を傾けてしまう癖があり、滑りやすくなるのである。この癖は、もう30年も前になる出来事なのだが、“八方尾根”のスキー行の折に、兎平のゲレンデで起こった事を思い出すのだ・・・写真でも判るように、平地とは違って、腰が引けた歩き方となってしまうのだった。腰が引ければ、滑る・・・明白である。《ここの記述は、歩き方教室でもある》

  

 永遠と斜面を横切るように付けられた路(この斜面は、『シャクシコバの頭』の南西面である)は、何本もの枯れ沢を渡り続いていた。滑り落ちたら危険と思われる横断箇所には、必ずロープが張られていた。もちろん、トラロープに身を任せることは出来ない。あくまでもバランスをとる為に掴む程度である。そんなトラロープの助けを借りなければ横切れないような、ガレ場やザレ場に飽き飽きした頃「もう、引き返すのは嫌やなぁ〜」との相棒の言である。

 

 “この路は何処へ続くのか?”と、自問するが答えは返ってこない。しかし、助けは左手下方に峪を刻んでいる奥の深谷を挟んで、“摺鉢山から烏谷山の尾根”や“白滝山”を確認できるし、この二つの山の間を挟んで“白滝谷”が同定できるので、現在位置だけは確認出来ていることだった。

  

13:46 ええ〜ここを下りるの〜! 14:6 核心部(写真はありません!)を越えて

 

 

  暫くのトラバースの後、小休止の場所を見つけて一服である。峪は、はるか下方に望まれる。今、街中の喧騒は“ジングルベル”の音楽がプラスされて、人々の動きさえも忙しない。そんな日常が存在する一方、現在の私たちの四囲は何だろう。この広い山中に、私たち二人だけが存在するかの錯覚さえ起こる。日常を連想させるものは何も無い。相棒の“リウマチ”や写真に関する一切の悩みも、また、私の職場での様々な出来事も、それら全てが埋没してしてしまっっている。今、この瞬が非日常であるとして、この瞬が日常となったら、何がどう変わるのだろう。しかし、休憩時に吸う一服の煙草の火が消えれば、現実が待っていた。

 

14:15 昭和58年保護保安林施設整備事業・滋賀県志賀町 の標識

 それにしても永遠と続くこのトラバースの路は『どういう用途に使われているのだろう』との疑問は、帰宅後に解決するしかないだろうが、杭にある年号は“H17年”とある。その年号も“H18年”と、また新しくなっている箇所が現れている。『この路は何処へ通じているのか?』また『ひょっとして、断崖絶壁で行き止まってしまうのか?』とか、その行方は全く予想出来ない。しかし、前進するしか私たちの採るべき道は無いのだ。さて、気を取り直して再出発である。

 

 斜面に付いている“靴一足分”の路が続く踏み跡は、枯葉に覆い隠されている。そして、枯葉の下の状況が把握出来ないままの歩行が続く。相変わらず、左手の“奥ノ深谷”は100mを雄に越すであろう高度差の、足の下である。前方に何か光る物を見付けた。近付いて確認すると、からっぽの花束だった。つまり、ビニールの花束の中身の無いものだった。この路を辿って初めての、山とは無縁の人工物だった。「誰かここで遭難したんかも」との相棒の言葉に相槌を打つ。そこからは少しで、前方に顕著な尾根が現れた。その尾根を乗っ越す場所に、この路では初めてとなる“標識(案内板)”が建っていた。

 

 

 

アップで 

 その案内板は“牛木場 約20分”とある。今、私たちが辿ってきた路の反対方向に向いている文字はペンキで消されているのだ。【結果的には、後日、1/25,000図に書き加えた赤線の路なのだが・・】この標識では、十字路になっているかのように見える。結局、今辿った路の反対側(つまり、進行方向どおり)の路を偵察に行くが、路は明瞭に続いているにも関わらず、テープも何も無かった。一方、標識の方向(つまり、奥ノ深谷側)は、何とか降りれそうではあるが、踏み跡も何も無い。結局、その確認には20分ほどを要した。

 案内板には、口ノ深谷方面への記載もある。つまり、尾根を越して北に辿り降りれば、口ノ深谷だ。1/25,000図(帰宅後、確認)にはその名は記述されていないものの、比良山系の沢ルートとしては、ネットのサイトでは良く見かけていた。私達が最終的に決断した理由は、ペンキで消されている方向が尾根路だったからだった。

 その路を辿ると、確実に高度を落としていて、降りるに従い南に振っていた。“これが、牛コバへの道だ”との確信を得るのに時間は掛からなかった。暫らく降りると、前方に変な構造物を発見した。それは“熊の捕獲檻”だった。その入り口は閉まっていたのだが、中はもぬけの空だった。また、その傍らには小屋が建っていた。

  

あれが獣道なら、これは国道ね と言いながら下りる 熊捕獲檻 小屋

 

  その尾根を降り立つと、見覚えのある林道だった。ここから、今日の出発点である、坊村の地主神社までの林道歩きの記述は省略する事としよう。50分程の林道歩き(途中での20分のコーヒタイムを入れて)の後、愛車に辿り着いたのは15時35分だった。そして、お決まりのてんくう温泉で湯に浸かり、夕食は、これまた定番となった“唐揚げ定食”を平らげて帰宅である。

  

林道に下りた〜♪ 明王院の名残の紅葉

 

 

 

【地図を別画面で表示】

 【後日談】

 さて、帰宅後、地図を取り出しガイドブックを眺めて判明した事は、今回、我々は『市郡界』の印が記されているルート上を辿ったようである。早速、ネットで検索してみるも、ヒットしない。誰も通らないはずがない。間違って導かれて行く人がいる筈だ。疑問点が起これば、解明するまで調べるのが私の長所(いや短所か?)でもある。

 公私とも忙しい中でのネット検索の一方、最寄の役所への問い合わせも同時に行った。厄介な事に調べている『市郡界』は、先日の“平成の町村大合併”で統合されていた。しかし、親切にも問い合わせに応えてくれたのは『大津市の総務課』だった。

 早速、地図を印刷してFAXにその箇所を記入して送ったのだ。私の問い合わせの要点は『登山道を歩いていて、違ったルートへ導く(それも、一般の中高年登山者が多く歩く昨今である)危険性があるので、管轄を調べている。もし、管轄が判らないなら、私が『この先、危険』などの案内標識を建てても良い』との内容だった。翌日になり、担当者からは『ご親切に、有難うございます。もう雪の季節なので、来春にも、登山道と間違わないよう案内板を設置します。また、設置が終わりましたらお電話を差し上げます』との回答があった。これで、一件落着である。

 

 もう一つ、課題が残されていた。“ネット検索”の結果である。相棒と二人で、それぞれがいろんな言葉で検索した結果、何件かヒットしたのだった。沢登りに使う『口ノ深谷の路』は、帰宅後すぐに判明した。沢登りのサイトにも、『登山道らしい路が横切っている』との記述が見受けられる。しかし、“シャクシコバの南西面”のトラバースの路はなかなかヒットしなかった。そして、やっとヒットしたサイトは下記のアドレスだった。また、関連するであろう記述が載っているサイトも同時に載せましたので、参考にご覧下さい。

 

【参考サイト】

 このサイトでは、今年4月21日の記録として

    ↓

◆奥ノ深谷の右岸にも登山道のあったことをはじめて知りました。

 高度感のある斜面についた幅のない道がずっと続きます。至る所で崩落と倒木 凄まじい道です。ロープだらけです。かってはロープもなく整備されていたのだと思います。

※ ゆっくり山を楽しもうと 沢沿いに遠回りしました。八雲湿原から大橋までは目論見どおり ゆったりした山行でしたのに...牛コバまでは1つのルートしかないとの思い込みで えらい目に会いました。

 10年近く前 牛コバから大橋まで一度だけ使ったルートだったのですが あまりに違いすぎる 荒れすぎてる おかしい おかしいを繰り返してるうちに 結局最後まで通してしまいました。左岸に渡る地点の見落しです。

でも滅多に見る機会のない摺鉢山の下から見上げる眺め 楽しませてもらいました。

との記述があります。

【この人を探しています】との紹介があるサイト

         ↓

 このサイトでは、昨年秋

・11月3日、イン谷口から入山。金クソ峠〜中峠〜小川新道を下り、奥の深谷の大橋小屋で午後1時過ぎに最終目撃されていますが、その後の足取りがわかりません。

・警察等が口の深谷、奥の深谷を捜索しましたが、12月に入って積雪が深まったので捜索打ち切りになりました。

・雪融けを待ってご家族が捜索を再開されていますが、まだ見つかっていません。

・可能性のあるエリアとしては、大橋小屋の南西方面。

・伊藤新道や白滝谷付近にも捜索範囲を広げる方向で考えています。

★何か心当たりがあれば、大津北警察署へ連絡を! 077-573-1234

との記述があります。今回のルートは『大橋小屋の北西方面』(つまり、“奥の深谷”の右岸である)で、記述の『南西方面』は左岸になる。例の“比良山系”の、ここかしこで見る写真の件である。

         ↓

 またこの件に、【関連するプログ】をリンクしました。参考にして下さい。ちなみにこの路は“男道”と呼んでいるそうです。

 

 

「昔の路は崩れて、新しく付けられているんとちゃう。何かで読んだよ」と自分から言い出したんで・・、普通なら文句のひとつも言うところやけんど、言えんわな〜。(*_*; 靴一足分の道でも、固まっていたら何とかなるけど、崩れているわ、腐葉土と落ち葉だけになってるわの所で少し高巻かんといかんかった所では、肝をひやしたんじょ。(@_@;) 山側の足の小指側に体重が乗っているのが判るんやけど・・、恐怖心で真ん中に乗せる事が出来んかった。時間にしたら1時間やったのに、2〜3時間にも感じたんじょ。

 今回感じたんは、誰でもが迷わないような標識って難しいって事だわ・・。それと、何回も行ってる所でも地図は持ってないといけないって事よね、おっちゃん。