2007・・年越し「waiwai隊」の山歩きの記録  
     
   ・12月31日(月)〜1月1日(火) 一の森ヒュッテ泊  
     
    宴席は、それぞれのグループのテーブルを超えて盛り上がっていた。

 私は、酔っていた。この日、一の森ヒュッテに集まった人たちは、実に多彩だった。私たちのように“内田さん”の知り合いに限らず、徳島県山岳連盟(通称:岳連)の重鎮達もいれば、“徳島山と友の会”の会員や“剣山クラブ”の人たち、そして“健生山の会”の人たちというように、徳島の山好きの昔からの『一の森ファン』の人たちもいた。また、私たちと同じテーブルになったカップルは、私たちと同郷の川之江(現在は、四国中央市)在住の二人だった。

 前述の山の重鎮の話は『半世紀前』の、一の森ヒュッテや当時の管理人の話にまで及んで、興味深く耳を傾けていた。酔っていたのは、酒のせいだけなのか?この雰囲気に酔ってしまったのかも知れない。
 
     
  一の森ヒュッテでの宴席  
     
     
     
   ・12月31日(月) 松山〜見の越   見の越〜一の森ヒュッテ   
     
    今回の山行は、内田さんからの誘いで一の森ヒュッテでの『越年登山』となった。しかし、テレビが報じる週間天気予報では、ちょうど31日から冬型の気圧配置となるそうだ。“なんてこったい”今年の正月山行(1月6・7日)と同じ状況となるのか?

 さて、今回は28日に愛媛の我が家へ帰省していた関係で、東温市からのアクセスとなる。我が家を7時出発だ。自宅を出発すると、直ぐに相棒の携帯が鳴った「9時ころには、貞光の駅の道へ来て」との、内田さんからの連絡である。“想定内の時間”なので、十分間に合う。快調に“松山道”を飛ばすが、冬用の愛車は80kmを越えると、唸りを上げてうるさい事この上ない。順調に川之江JCTを徳島道へと入ると、暗雲が立ち塞がっているではないか。それは、“新境目トンネル”を抜けると現実となってしまった。その暗雲は、雪雲だった。

 快調に飛ばしてきた愛車は、前車のノロノロ運転に捕まってしまったのだ。「コンビニとガソリンスタンドに寄るから、休憩は道の駅にしよう」と、相棒に言ったものの、時速40kmを切るノロノロ運転では予定の9時に間に合うのかどうか、と不安が過ぎる。結局、貞光ICで高速を降りてコンビニに寄ってガソリン補給を終え、道の駅に着いたのは、待ち合わせ時間の9時丁度だった。
 
     
 

 先週、内田さんの新宅をお邪魔していたので、一週間ぶりでの再会だった。「もう一組と一緒に行くから、ちょっと待って」とのことで、休業中の道の駅で一服である。見知らぬ“オバサン”が「こんなに雪が降っていたら、いっちゅう(一宇)までよう走らん」と話しかけてきた。今は大阪に住んでいるらしいその“オバサン”は、雪の中の運転を不安がって話しかけてきたのだった。その人は新装なった“つるぎの宿岩戸(旧岩戸荘)”へ予約しているそうだが、「そこまでだったら、大丈夫ヨ」に安心したみたいだった。

 しばらくの待ち合わせで、もう一組が到着して、出発だ。雪は降りしきっているものの今の時間、道路に積もる事はない。
“いっちゅう”の集落を通り抜け、“第一ヘヤピンカーブ”に差し掛かる前に、ギアを4WDへと入れて先行の車に着く。先ほどからすれ違う車には、雪をどっさり被った車もあり、心積りは出来ているのである。
 
     
   やっと除雪車が来た   気持ちの良い雪道が、ヘヤピンカーブを曲がっても曲がっても続いている。先行の車がその度に見えては隠れる曲がりくねった国道である。そのヘヤピンカーブの標識が現れなくなったら、今は閉鎖されているスキー場に着く。先行車が止まっていたのは、前方に除雪車が走っていたからだった。道路脇に掻き出した雪を吹き飛ばしながら進んでいるのだが、歩くぐらいのスピードなので、先行車はその除雪車の脇をすり抜けて、先に進んだ。我々も後を追う。

 今は、休業中の「ラフォーレ剣」脇を通り過ぎれば、見の越は直ぐそこだ。神社前の国道が合わさる手前で先行車が停まった。そのカーブは、R438とR439が合わさるヘヤピンカーブなのだが、雪が吹き溜まっていて前進は不可能だった。そのカーブの先にある駐車場の入り口も同様だった。我々は、除雪車の到着を待つしかなかった。

 除雪車を追い越して、10分ほど走っただけなのにその登場には、小一時間を要した。その間に、除雪待ちの車は5台ほどになったようだ。やっと駐車場まで道が通じたが、除雪車が2台並んでいた。R439からの一台が丁度到着したのだった。さて、駐車場所を確保し終えると、出発の準備である。
 
 
   駐車場への道を除雪  
     
    内田さんが「この雪ではアイゼンは要らんよ、ストックは持っていったほうが良い」と声を掛けている。相棒が「内田さんがアイゼン・ピッケルは要らんと言ってるけどどうする?」との問いかけに、6本爪の軽アイゼンをしのばせてワカン・ストックで行く事にした。  
     
  剣山頂上ヒュッテへ向かう

 さて、「準備が出来たら、神社前へ集合して」との事だが、神社前には沢山の人が集まっていた。どの人たちのグループが“一の森グループ”なのか、皆目判らない。当然、頂上ヒュッテ泊の人たちも混じっているし、“一の森グループ”のメンバーも始めて顔を合わす人たちだった。内田さんの「2名は垢離取から上がってきているんで、15名のグループで出発します」との声に「内田さんですか?」と声を掛けてきたペアが加わった。内田さんの話によると、今日の天候を心配して、連絡していたそうだが、朝から連絡が取れなかったそうで、ここで合流出来て一安心との事だった。

 予定より随分遅れて、合計17名の団体で出発である。先頭は、頑強な体の“Oさん”である。私たちは、“ラッセル泥棒よろしく”後に続く。しかし、この人数だとペースが合わせ難い。いつもの“waiwai隊”だけでの山行時はマイペースで歩けるのだが、今日はそうは行かない。その内に、前の人がバタバタと進む時に少々の間隔が空いても、慌てて付いていかなくていい。マイペースで歩いても、直ぐに追いつける事が判ってきた。
 
     
   刀掛け   今は止まっているリフトの下を潜って、夏道どおりに進む。しかし厄介なことは、我々のグループ以外に同じ頃に出発した“頂上ヒュッテ泊”の5名グループが前後しているのだ。そのグループは、一団となっては歩かないので、我々の間に混じってしまいそうになる事だった。暫くで、“リフト西島駅”直下の“西島神社”脇で小休止である。相棒は、カメラを出して撮りたそうだったが、集団の中での行動を言われているので、それは適わない。  
     
    再出発後は、“リフト西島駅”から右手に取り、正面コースへと辿る。例の“テキサスゲート”がある道である。時々強風が吹く。足場が不安定な“テキサスゲート”を二つ渡れば、快適な雪道が続いている。直ぐ先の合流点(西島駅の左手を回り込んでの道との合流点)で「小屋はどちらですか?」との女性の声である。先ほどの5名グループの一人らしい。少し行くと、そのグループが立ち止まっていた。

 直ぐの“刀掛けの松”で、小休止である。この頃になると、風雪はますます強くなって来たように感じる。前方に次々と現れる風景は、「ここが、青い国四国」のキャッチフレーズと同じ四国なのかと疑いたくなる真っ白の世界が一面に拡がっている。
 
     
  剣山頂上ヒュッテが見えて来た

 正面ルートを辿り、少しで鳥居と頂上ヒュッテの屋根が見えて来た。頂上ヒュッテでは、『新居さん』が迎えてくれた。pm3時である。小屋の中で小休止である。頂上ヒュッテは、例年正月に小屋を開けているが、今年は「自治体が除雪をしない」とのニュースが事前に流れたりした影響(その後、R438は除雪することになった)も出ているかもしれない。また、天候の加減で入山者も上下するのも“山小屋”の宿命なのかもしれない。



 
     
    さて、これからの道が問題である。夏道は使えないので、冬道を辿ることになる。もちろん「冬道」という道は、歩く前には無いのだ。歩いたあとに出来るのが「冬道」である。小屋の左手を廻って、剣山の頂上には見向きもしないで集団で一の森を目指す。“三の森”へと降りる途中で、先頭を歩いていた『Oさん』と後続の女性が夏道の雪が溜まった道に落ち込んでしまった。その二人を脇目に、夏だと笹が生い茂る箇所を辿る。

 その二人は、抜け出すのに四苦八苦だったそうであるが、そんな事には“お構いなし”で、尾根筋を辿りながらの前進である。頂上ヒュッテを出発してからは「スノーシュー部隊が先行して、道を作る」作戦であるが、その後に続いた“壺足”の私は、また大変だった。結局、スノーシューではある程度しか潜らないので、ラッセルするのは同じだったのだ。雪の量が膝上か膝下かの違いだった。また“スノーシュー部隊”は、灌木の間や急坂の箇所で難渋していた。その様子を見て、内田さんが先頭になり、三名での壺足の先行となった。
 
     
    順調に“三の森から二の森”を越え“一の森”へと目指す。“殉難碑”のある鞍部から、「歩き難いから、スノーシュー部隊は尾根道じゃ無く、トラバースの夏道どおりに行って!」との声である。私達は、壺足の“尾根ルート”を辿った。  
     
   一の森ヒュッテに到着   “一の森ヒュッテ”へ着いたのは、pm5時前だった。“垢離取”からの道にも、トレースがあった。小屋へは、トイレ脇から入る。部屋はストーブが点けられていた。

 直ぐに、夕食の準備に掛かるのだが、内田さんから「テレビのフィーダー線の修理して」と、その部品とニッパを渡された。今日は大晦日なのである。修理を終えると、テーブルを決めてもらった。私達の席は、川之江からのご夫婦との合い席となったのだが、ご主人は相棒に握手を求めてきた。相棒はビックリしていたようだった。それぞれのグループでの食事の準備に掛かるが、“waiwai隊”ほど質素な食事のグループは無い。
 
     
    どのグループも、酔いが廻ってきた頃、「皆さん、初めての人達が殆どなので、宜しければ自己紹介などをお願いしても良いでしょうか?」との内田さんの挨拶に、異論など無い。で、18名の自己紹介が始まった。その様子は冒頭のとうりで、結局、除夜の鐘が鳴るまで続くのである。  
     
   歓談   楽しい交流が進む中「来年もこのような形でヒュッテを開けたい」との内田さんの声も、弾んでいる。また、“一の森”にまつわるいろんな懐かしい話にも引き込まれる。そんな中、徳島の岳連の重鎮の話には驚かされた。半世紀も前の一の森の話や、ヒュッテの話には興味深々で聞かせてもらった。また、雪崩で流された遭難者の捜索の話は、以前、TVのドラマで見たような記憶がある。

 そんな話しを聞く機会など、こういう場が無いかぎり我々は聞けないのである。
 
     
    私達と同じテーブルとなった“川之江のご夫婦”とは、同室となった。驚いたことにこのご夫婦は、10月の“一の森行”の際に一緒に宿泊していたそうである。一年程まえから「子供に手が掛からなくなったので、二人で山へ通っている」とのことだが、奥さんの方は、仕事があったりして「月一回ぐらいしか一緒に行けない」とのことだった。今日も“泊まり明け”の状況で来ているそうで、「こんな雪の中なのに来れて・・」と、感激の様子だった。また、相棒の写真を気に入ってもらってるみたいで、相棒もいつになく嬉しそうだった。また、私達のサイトも覗いているそうだ。

 カウントダウンが終われば、それぞれの部屋で寝るだけだ。そして、今日は相棒のカメラを出す時間が無かったので、明日の朝を期待しよう。
 
     
     
     
   ・1月 1日(日) 一の森ヒュッテ〜見の越  見の越〜吹田   
     
    相棒の「さあ〜行くよ」との声で目覚めた。カメラザックと三脚を持ち外へ出た。まだ薄暗い空は、雪雲が覆っていた。また、昨夜のうちに新雪が50cmほど積もっている。ここからは、いつもの撮影と同じく“ああでもない・こうでもない”の呟きでの撮影タイムである。

 何時もは入れない笹の中へも、雪に覆われた今の時期には入れる。しかし、歩くには大変である。結局、朝陽の出る雲の隙間が現れ無いまま、横殴りの雪が強い風とともに混じってきた。そんな中での撮影が終わったのは8時だった。小屋へ入ると「9時に出発します」との内田さんの声がした。我々だけ、今から朝食の準備だ。相棒がカメラの始末を終え部屋へ入って来た頃には、朝食の準備が整っていた。
 
     
  千代の写真  
     
    朝食を終えると出発である。「今日も、トレースが消えているので剣山までは、行動をいっしょにするように・・」の言葉には、相棒の『仕方ないかなぁ〜』の呟きが聞こえてきそうだ。“行きに写せなかった樹氷の写真を撮りたい”と思うのは解るが、この吹雪の中では仕方がない。記念写真を終え、出発は9時前である。昨日は、新雪のラッセルのせいもあって夏道の倍近く掛かったが、今日の雪の中では剣山までは、同様だろうと予想される。  
     
  一の森ヒュッテ前で記念撮影内田さん撮  
     
    「全員、集合して。記念撮影します」の内田さんの言葉なのだが、垢離取組みの二人は新雪の中、もう出発していた。下山は、ヒュッテからトラバースの路を“殉難碑”へと採った。昨日は、スノーシュー隊を前方に配置していたが、あまり効果が無かったということもあって、今日は壺足隊が先行する。昨日のトレースは、跡形も無い。しかし、昨日よりも順調に進むのは教訓が生かされているからだろう。そういう私自身も、昨日の教訓が生かされている。マイペースを決め込む。  
     
  下山 二の森方面一の森方面

 出発後、暫らくで雲が高くなって来たようだ。相棒は、カメラを出したくて“ウズウズ”しているみたいだ。しかし、剣山までは我慢である。私は、昨日よりもカメラを構える余裕があった。と言っても、カメラを構えたのは3〜4回だ。
 
     
    二の森から三の森へと順調に進む。積雪量は半端では無い。うっかりと夏道に踏み込むと胸まで潜る箇所がある。もっとも、私は後方から着いていく“ラッセル泥棒”を今日も決め込む。

 三の森で小休止である。
 
     
   二の森への登り 楽しい (^^ゞ ラッセル
内田さん撮
 
     
    天候は、確実に回復傾向なのだが、まだ雪雲が襲って来る。その内に薄日が射してくるものの、それは一瞬だ。三の森からの最後のつらい登りに、剣山の名物の木道が現れれば頂上ヒュッテは目の前だった。10時45分だった。  
     
  剣山に到着

 「頂上ヒュッテで休憩します。頂上へ行きたい人は行って来て下さい」の内田さんの声だが、私達は頂上ヒュッテで一休みとした。昨日に続いての“新居さん”のお出迎えである。「飴茶でも入れましょう」と、奥さんの声である。暖かい飴茶が腹に沁みる。
 「一心地ついたら、ここで解散としますので各自気をつけて降りて下さい」と、一応の解散となった。私達はここから撮影が待っていた。相棒が「何か注文する?」と話しかけてきた。梅うどんを注文して、取り敢えず腹ごしらえをし、これからの撮影に備えることとした。
 
     
    11時半である。外は、天気予報どおり、回復傾向だった。時々、薄日が射してきていた。ヒュッテの宿泊客は、全員、朝から降りたそうである。また、“一の森グループ”の15名も降りていったので、今は私達二人だけが残されていた。  
     
  剣山の鳥居 霧氷  
     
    降り始めると、相棒は直ぐにカメラを構えた。手持ちの6・7判を首からぶら提げて準備していた。歩く度ごとにカメラを構えて、昨日、カメラを出せなかった鬱憤を晴らしているかのようである。しかし、この時間になっても上がって来る人には出会わない。  
     
  見上げれば

 先ほど頂上ヒュッテを出る際、「この雪なら、アイゼンは要らんじゃろう」の、新居さんの進言なのだが、相棒は良く滑って転ぶが、カメラを雪に突っ込むことは無い。当然私も滑るのだが、転ぶことはまず無いのだった。
 
     
    下山口に着いたのは、pm1時前だった。いつものように、“剣神社”へ手を合わせて無事を報告し、駐車場へ向かった。先に下りた筈の内田さん達の車がまだあり、エンジンがかからない車に四苦八苦しているグループが居た。バッテリーは大丈夫のようなので、あまり深刻な状態ではないみたいだった。神社横の売店で休憩していた内田さんが来て、溝に落ちている車があるので除雪車が途中で停まっているとの話だ。数グループは既に降りているので、道も通行可能みたいなのだが、私は昨年の教訓を行かしてチェーンを装着しての帰路である。内田さんに挨拶して先に出発!

 安全運転での山道の走行は、時速20kmを超えることはないが“つるぎの宿岩戸”に着くまでは追い抜かれることは無かった。洪水に流された後、新装なった“旧岩戸温泉”に浸かったのは先日に続いて二度目である。そして、昼食とも夕食ともつかない食事にありつけたのは、吉野川ハイウェイオアシスだった。そして、東温市の自宅に着く頃は既に日は落ちていた。

 今回も、同行となった皆さんのお陰で、充実した山行となった。今年も良い山行が出来る予感がするヽ(^。^)ノ
 
     
   【後日談】 一の森で、第一報を聞いた例の、槍平での雪崩事故は衝撃だった。3日の友人宅でもその話題がでたものの、ネット環境の無い不便な故郷での生活では、詳細が解らないままだった。しかし、当掲示板にも載せたように、年末始休暇を終えた7日に、私の職場で所長の年初めの挨拶の中で『正月のニュースでご存知だと思いますが、あの北アルプスの雪崩の事故で亡くなった人の中に、私の友人が居ました・・』との言葉に唖然とした。その人は、徳島の“岳連クラブ”と一緒に被害に遭った“三峰クラブ”の内の1人だっだのだ。“世の中、広いようで狭いものだ”こんなところで、接点があったとは・・  
     
     
     
    一方、良い知らせが舞い込んだ。年始のメールでの、先輩の『mt.クック』の登頂の知らせだった。  
     
      
     
     
    思うように撮影出来んかった上に、最初フードがレンズから外れず、やっと外れて着けたのがキッチリなってなかったみたいで・・、出来上がった現像をみたらケラレていてガックリじょ。(-"-) 剣山頂上ヒュッテからの下りながらの撮影も・・、愛媛までの帰りを思うと・・・と、手持ちで撮影したんで肝心の写真はブレとんじょ。後少しの貪欲さが無いのが欠点ね。

一の森ヒュッテでの夕食は、各自でとの事やったけど、愛媛の我が家ででも、長年の留守で料理は出来ないのでねぇ〜。(^^ゞ それでも、うどんと餅、おにぎり、めざし、ナッツ類、内田さんからのおでんの差し入れ等でお腹一杯になったんじょ♪