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 2010年9月15日に教団常議員会に置かれた審判委員会が「免職」を追認する結論を出した。審判委員5名中、賛成3人、反対2名という僅差での裁定だった。この審判委員の決定には幾つかの大きな問題があると言えよう。

常議員会での質問並びに北村氏の上申書の質問に十分に応えていない。

 常議員会において、審判委員会を設置を決定したとき、幾つかの質問及び疑義が表明された。しかし山北議長はそれらの多くは審判委員会で審議されることであるとして、審判委員の選出を強行した。でるから今回の審判決定に際しては、それらの質問及び疑義についてどのように判断したのか、説明する責任が審判委員会にあると考える。加えて北村氏は上申書を持って、処分について疑問を表明し説明を求めていた。しかし審判委員会はこのいずれにも十分に応えていない。これではあまりにも誠意に欠ける。ことは教師生命に関わることであり、たとえ意見の対立を越えられないとしても議論を尽くしたということが大切である。審判委員会は自らに問いかけられた質問等に誠実に応えなければならない。

「戒規申立人」は一体誰なのか? 

 教師委員会は、今回の北村氏への「戒規申立書」の内容を訴えられた北村氏本人にでさえ一切明らかにしなかった。常議員会にても「誰が戒規を申し立てなのか」と問われてたが、明確にされなかった。教師委員会は内規を変更して「申立人」の資格を変更し、いわば誰でも申し立てることができるようにした。このことの正当性にも問題はあるが、しかし「誰」が「どのような理由を根拠」に訴えたのかは、明かにされなければ「戒規」の秩序が崩壊してしまうだろう。訴えるものは利害関係者でなければならず、また訴えの根拠を示す責任があるのは当然のことであろう。
 「申立人」が明らかにしないまま、常議員会は審判委員会の設置を決定した。それではその決定に「申立人」が加わっている可能性を否定できない。また明らかにされない以上、選ばれた審判委員が関係人でない保証はない。山北議長は選出に際し「私を信用してほしい」と述べたが、「申立人」を明らかにする以外にその疑念を払拭する手段はないはずである。
 審判委員会は教師委員会が「申立人」を明らかにしなかったことの是非も審議しなければならないはずであった。しかし審判委員会は教師委員会の手続きを「教憲・教規に基づいて適正である」とし、「申立人」は明らかにしなかった。これでは単なる「噂」を根拠に利害関係もないものが、秘密裏に訴えを起こすことも可能となってしまう。教師委員会および審判委員会はもう一度、戒規申立の基準を示す必要がある。

議論の中身を公開せよ

 今回の審判決定の文書には、審議のプロセスが全く記されていない。例えば聖餐を受ける資格を洗礼を受けた信徒に限ることを、教憲10条と教規135条、136条、および138条は一体であり「明確に信徒規定を定めたもの」として教師委員会の主張を指示している。しかし以前から指摘されているように強権10条、教規135条も信徒の規定であり、教規136条は「陪餐会員」の規定であり、教規138条は「未陪餐会員」の規定と「陪餐会員」となるための規定である。決して聖餐を受ける資格の規定ではない。審判委員会は「未受洗者への配餐を禁止するは明文化されていない」とする北村氏等の主張に対し、以上の条目を根拠に明確にされており、上告の理由と退けている。しかし審判委員会自ずから言っているように明確なのは「信徒規定」であり、未受洗者への配餐の禁止ではない。もしこれらを聖餐を受ける資格の根拠と主張するならば場合、教規制定時の意図、過去の運用例などその理由を明確に示す必要がある。今回の審判委員会の主張は開き直りにさえ聞こえる。加えて審判中、このことに関してどのような議論がなされたのか、そして決定に際し、異論はなかったのか。あったならばどのようなものであったか。公表する義務があるだろう。
 一般の裁判においても、争点となった事柄については裁判官の判断が明記されている。また最高裁においては、判決において異論がある場合はそれが併記されることが常であることを考えれば、神学的にもそして教会法的にも争点の多い今回の事例について、審判委員会は今後の教会形成のためにも、積極的に議論を公開すべきと考える。

戒規は異端裁判ではない

 審判委員会は「未受洗者への配餐は、教規135,16,138条の信徒の規定に違反し、これらの規定は教憲10条と一体だから教憲違反であり、教憲に違反しているので教憲1条違反であり公同教会の秩序を乱した」と三段論法で言っているように聞こえる。これは未受洗者への配餐をどうしても教憲違反としたいという意図を感じてしまう。どうやら一般的な「公同教会」への理解と審判委員会の言う「公同教会」の理解と違うのではないかとさえ思う。「公同教会」とは、過去、現在そして未来をも含む教会の概念であり、カトリック、ギリシャ正教会も含めてイエス・キリストを主と告白する教会の集合体である。それぞれの伝統が違い、教理も信仰告白も違う、互いに認められない教会があるかもしれなくても、主イエス・キリストの教会は一つであるという「概念」であると理解している。言い換えれば、「公同教会」とは何処までを「教会」として受容するかという範囲を規定するのではなく、その中心を「イエスは主なり」に定め、それを認めるものを「教会」としたものであると言える。従って教憲第1条は、合同教会である日本基督教団が「公同教会」として主の宣教と教会形成をすることをその基本とすることを宣言したものである。全体教会としての日本基督教団もそしてそれに属する各教会も「イエス・キリストを主と仰ぐ」ことによって一つとされていると信じる群れである。よって「公同教会の権能」とは教会の秩序維持のための権力ではなく、主の宣教の推進するための力であると解釈するのが妥当と思われる。
 「未受洗者への配餐」がこの「公同教会」への違反だとすれば、それは「異端」であることを意味する。一教会すぎない日本基督教団がそのような判断ができる存在なのだろうか? そして「未受洗者への配餐」が「公同性」を揺るがすほどのキリスト教会にとって重大かつ重要な事柄なのだろうか? 審判委員会は教憲第1条に違反するというならば、「未受洗者への配餐」の行為が、どのように、どれほど教会にとって危険な行為なのかを明確に説明する必要があると強く主張したい。なぜならば未受洗者が聖餐に与ることは多々あることであり、それを妨げていないところも少なくはないはずである。また「未受洗者への配餐」を積極的に位置づけていることろは少ないかも知れないが、しかし受容している教団も増えている。重大な公同教会への離反であるならば、どうしてこのような状況が生まれてきているのか答える義務がある。

僅差での評決でいいのか?
 今回の審判委員会は、5人中3名の賛意で決定された。審判委員会が言うようにこれほど重要な決定がわずか1票差で決定されていいのだろうか?審判委員会設置の常議員会で、決定方法について質問があったが十分な論議もせず、山北議長が「過半数で」と答えて終わってしまった。確かに特別な決定がない以上、常議員会での決議は過半数で決定することになっている。しかし今回のように「免職」という重大な決定を下す可能性がある場合、なるべく多数の合意でなされる必要であろう。全会一致でなくてもせめて3分の2程度の良識が効いてほしかった。
 日本基督教団は合同教会である。対話を閉ざすとはいのちを奪われるくらいだ。そのためにも「過半数」ではパワーゲームになる危険性が生じる。ぜひこのことも再考してほしいものだ。

(文責 瀬戸英治)



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