「最後の喫煙者」

執筆者 鯖雄

(「OUTERBRAIN CRONTERAS」の記事より転載しました。こちら

今となっては、はじめてこの作品を読んだときの「あー筒井さんの真骨頂。このエスカーレーション最高!ドタバタ万歳!」と、能天気にアハアハエヘエヘ笑っていた、ほぼ10年前の自分の不明を恥じるばかりだ。
言い訳するわけではないが、当時は(僕の回りだけではないと思うが)それほど喫煙に対しての風当たりを強く感じることはなかったのだ。
会社ではオフィスの自席で煙草を吸うことができたし、会議も喫煙をしながらだった。
外を歩いていても、道端の所々に灰皿が置いてあったから、携帯用灰皿を持つ必要もなかった。
自宅でも、今ほど家族に疎まれることもなく、部屋の中で伸びやかに吸っていた。
もちろん、喫煙者を蔑視する「ホタル族」などという単語も知らなかった。
調べてみるとこの言葉は、1989年に生まれたらしいのだが、それでも僕は知らなかったと断言できる。
新聞やテレビなどでも喫煙問題については報道していたのだろうが、煙草がコーヒーと同じように、嗜好品として自由に楽しむことができるのは当たり前であると思っていた。
いや、当たり前であるとすら考えていなかった。
つまり僕は喫煙について、何も考えていなかった。
自分の無知を知ることすらない、馬鹿であった。
この作品を読んで後ですら、その馬鹿は治ることはなかった。
アハアハエヘエヘ「面白かったあ」である。
そして今は、ようやく自分が無知で無力な喫煙者であることを多少自覚している。

作家である主人公が、自宅に来た編集者の一人から「私はタバコを好みません」と書かれた名刺を受け取る。
原稿を依頼に来た編集者よりも立場が上であり、筋金入りのヘビースモーカーである主人公は、当然これに激怒し、彼らを追い返してしまう。
しかし運の悪いことに、この名刺を差し出した女性編集者は過激な嫌煙運動家であったため、彼女はあらゆる場面で主人公や喫煙者に対する攻撃的文章を書き散らす。
主人公も筆をもって嫌煙者への攻撃を開始するのだが、すでにこの頃、世論は煙草排除の方向へ進んでいた。
近所の公園に「犬と喫煙者立ち入るべからず」という看板を発見し、上京するために乗った新幹線で酷い扱いを受け、煙草の輸入が禁止され煙草屋が次々と廃業するなど、日常生活にもその影響が及ぶことになり、ついに人非人扱いされるに至って救いを求めた主人公が電話をした人権擁護委員会でさえ、世論においてマイノリティである主人公を守ろうとしない。
喫煙者への攻撃が過酷さを増していくなか、主人公は数少ない同志と戦う決意をするのだが、そこには思いもよらぬエンディングが待っている。

上記は粗筋であるが、エンディングに至るまでの内容については、あまり補足の必要もない。
お偉い国会議員、杉村センセーの「臭い、汚い、格好悪い」発言(僕は結構根にもつタイプである)はもとより、程度の差こそあれ、現在の喫煙を取り巻く状況が、ほぼそのまま当てはまるからである。

さて、国会議事堂の頂きに座り込む主人公とその周囲の描写から始まるこの物語は、「現在」「過去(回想)」「現在(落ち)」という流れで進められている。
最初の「現在」は、正確にいえば「落ち直前」の作者の思考であり、「過去(回想)」に係る時間を経て「現在(落ち)」に到達する。
そして、なぜ「現在」の異様な状況から開始されるのかといえば、当然だがそうしなければ面白くないからである。
ただし、他の小説や伝記物にもよく見られるこのパターンの前提として、次にくる「過去(回想)」が十分に面白くなければならない。
よくあるのが、しょっぱなは華々しく読者を惹きつけるが、次にくる回想シーンがお粗末な上に、せめて落ちだけでもという願いもむなしく、最後まで肩透かしを食い、がっくりと透けてしまった肩を落としつつ本を閉じなければならない、残尿感である。
しかし、この作品にそんな心配はない。
すべて排出でき、十分なカタルシスが得られるだろう。
ただし、喫煙者にとってはその限りにあらず。
昨今の喫煙者差別の顕在化に思いを走らせつつ、現実が虚構に近づきつつある恐怖に怯え、直ちに禁煙を実行するもよし、また、自らが「最後の喫煙者」となるべく、WHO・政府・その他嫌煙団体に対し過激に立ち向かうもよし、そのどちらを選択しようとも、実際にどうしようもなく「禁煙ファシズム」の足音は近づいているのだ。





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