「驚愕の曠野」研究

執筆者 支那チク夫 (佐々木 上)


 微塵も微塵も生まれ変わりたいとは思わないのに輪廻の渦潮の勢いがこれを許さずに海の浅い部分の陽光の貫きが忌まわしき宇宙の巨魁の意志、恐るべき重力によって暗やみの底へ底へと沈められていくように死ぬごとに一段一段、地獄の深い階層へと影二たちは潜っていくのである。光が薄れていって次第に闇ばかりになる、その深海へと下る過程において魚類や藻などの生命が禍々しい姿になっていくように、この曠野では家、四阿などの建築物、雷などの自然現象は元より、四阿の欄間に掛けられた額縁や原子力発電所までが恐るべき魔物に変貌する。生命ある者は万事流転するなどと唱えられた仏教の生易しい地獄ではないのだ。ここでは生命を持たない者すらが時には人を殺したり幻覚をみせて欺いたりしている。この世界にあって済民のため旗を掲げて革命を叫ぶ十八神将に可能なことは何もなく、物事の成り立ちを解析しようと試みている十四尊仏の誰一人としてこの輪廻からは抜け出すことができないだろう。

 「書物」の第332巻から335巻において語られるのは唆界の物語である。唆界の「唆」とは「そそのかす、けしかける」という意味がある漢字であり、この一段階浅い部分の地獄は「死に別れる」という意味を持つ「訣」界、そしてこの一段階深いところの地獄には「ただれる、腐る」意味の「爛」界が待っている世界だ。無惨な死に方をした上に丁重な供養を行われなかった者は成仏することができずに地獄へと落ちるようだが、恐らくは現実世界の遺体を誰かが清めてやらない限りは、この亡霊たちはえんえんと無惨な死に方を繰り返すしかないようである。巨大な家の大広間で、何人もの幼い魂を前にして「これから唆界に行こう」と呼びかけ、そそのかした娘の五英すらが死んで廃屋に放置されて五英猫となり、さらにこれが玉に転生し、そしてついには自然現象の魔物化した存在であるネズシへと姿を変えて批界へと転がり落ちるのだ。・・・・。

 小説『驚愕の曠野』は、1987年の『文藝』冬季号に一挙掲載され、その後河出書房より単行本として刊行された。発表の前年にはチェルノブイリでの原子炉事故があり、ウクライナ共和国を中心として恐るべき面積に渡って放射性物質がまき散らされている。小説の冒頭、おそらくはそもそも原子力発電所であったのだろうと思える建築物の異形化して意志を持つようになった存在に、蒲生が向かっていき殺されるという顛末は、この現実の大惨事がモデルになっているのかもしれない。

 さて、「道聴塗説」(善いことを聞いてもすぐに忘れてしまったり受け売りすること)「歔欷」(むせび泣くこと)「視程」(空気の濁り具合をあらわす尺度の一種)「沖天」(天にのぼること)などといった不吉な熟語の並んでいる四阿の扁額にせよ、もとは教理、訓戒などといった尊い文字列がはめられていたのだろう。先にも書いたとおり、この邪悪な曠野においての輪廻転生から自力で脱出する方法を見つけだすことは絶望的である。唯一できることは自分が何度も死んだことを自覚し、ひとつひとつの死を遡って最初の死を思い出すことだ。そして、現実世界での自分の屍体を誰かに供養してもらえるようひたすらに祈ることだ。そのためには胴体が批界にあって顔だけを唆界に突きだした五英のネズシのように、なるべく地獄の浅い階層にいる間に現実世界の誰かに呼びかけようと努力することだ。それは見る者にとっては幽霊であり怨霊であろう。このように化けて出て成仏を求めることが、彼らが救われるために出来る行動の全てである。だがしかし、それはまるで夢のなかから覚醒の世界に語りかけるように儚くて、しかも極めて忌まわしい作業であるには違いない。

 以下、結びとして。
 これらの世界について語られた「書物」は、第332巻が29文字・282行、第333巻が29文字・284行で書かれている。これから計算して、全部でだいたい700巻程度であろうと思われるこの書物は、たとえば「筒井康隆全集」に換算すれば14巻分の分量をもった物語であると測れる。膨大ではあるが決して読了することの不可能なほど長い物語ではない。だがしかし、読んでいるうちに自分が「つるぎ草」に転生してしまっていることに気付かないという驚愕があるかもしれないが、その曠野から戻ってこられる自信があるのならば、自己責任のもとで「書物」を探し求め、読み進めるのがいいだろう。

(2002.12.27)




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