「当主様(マイ・ロード)」

いつものように机に向かい、書類の束と格闘していたセオドアは、涼やかな呼びかけに顔を上げた。


目の前に立つ、眩い金髪を緩く結んだ男を鋭く見上げる。
彼が自分を敬称で呼ぶときは、ろくなことがない、と経験上セオドアは学んでいた。

大体、自分の家庭教師であり婚約者、という立場上、彼にはセオドアに傅く必要がない。
年齢も遥かに上で、前当主と家督争いをした血筋でもある。
しかし、どうして彼が婚約者であるのか、セオドアにはさっぱり判らなかった。

…自分より姉のブランシェの方が、遥かに相応しく思えるのに。

それは年齢や相性という訳ではなく、主に性別の面で。

最も、実際自分とこの男が結婚するか否かではなく、当主の婚約者という立場が重要なのはセオドアにも理解できる。
一族の中では、純度の高い血を引いていることが何より尊ばれ、その最も貴重な血の主が彼だからだ。
……従属種だが。

「…交渉、上手くいってないんだ?」
セオドアが尋ねると、表情の読めない翡翠の瞳に、僅かな苦笑が浮んだ。
「北と東の当主が反発しています。我々が命運を預けるべきなのは、人間の組織にあらず、と。まだしも、同族である伯爵の方に親交を築くべきではないか、というのが言い分です」
「親交ねぇ…」
セオドアは少年には相応しくない皮肉な笑みを書類の束で隠す。
「それは実際伯爵を見たことのない者の言い分だね。アレはもう、身を低くして追従すればお優しくしてくれるような、そんな理屈の通るものではないよ。全てを喰らい尽くす化け物だ」
「世界結界に不満が出ているのでしょう。身内が狂っていくのを見て、原因を憎まないものはおりますまい」

少年はちらりと、男の首に掛かった十字架を見た。
彼が幼少時、狂った母親に屋敷に閉じ込められ虐待されていたことを思い出したからだ。

「表の紋章は薔薇と十字架。裏の紋章は蝶。君に教えられたわが一族の戒律を忘れはしないよ」
「薔薇と十字架は理性と誇り。蝶は力と狂気。力を理性で制してこそ、この紋章には意味がある…と」
「…きれいごとを言うつもりはない。そうでなければ、生き残れないだけだ。人と共存しうるのが一族存続の道だという姉(ブランシェ)の判断を僕は信じる」

セオドアは立ち上がり、書きあがった書類を積み上げて窓辺に向かう。
「腐っても鯛。お子ちゃまでも西の当主は僕だ。直接行って交渉するしかないかな」
「東の当主にはまだ説得が効きます。ただ、北の姫君は…」
「ああ、北家の傀儡姫か。薬で意識を飛ばされ、親族に操られているという。あれは厄介だね。いざとなれば日和見の南と合わせて3票。強権発動にはギリギリのラインか」
窓に持たれかかり、小さく溜め息を吐く。

「どうしてもダメなら、無理矢理にでも伯爵に対して反感を持ってもらう。当主だけではなく、一族の全員に」

振り返ってにっこり笑った少年に、翡翠の瞳が細められた。
「ココを解任したのはそのためですか」
「まさか。単にココが僕より身長が伸びてしまっただけだよ。流石に上げ底靴にも限度があるからね。ほんと、僕は背が高くならないらしいな」
「…当主となるならば、利用できるものは全て利用し尽す非情さが必要だと、私は貴方に教えてきた筈ですが」
「それに異存はないよ。利用できるなら、自分の想いさえも利用する。命を掛けたいものが、昔よりほんの少し多くなったから、何が僕にとって一番大切かちゃんと見えているつもりだ」

貴方の後に当主になるのはごめんですよ、と男は苦笑する。
そうならないように祈っていて、と少年は微笑んだ。

「皆さんにお別れを言って行かなくていいんですか?」

彼に言われて、セオドアは一瞬机の横の棚に飾られたもの…美しい海の写真や、懐中時計、万年筆、ティーカップなどを見つめた。
「……大丈夫。ちゃんと帰って来るつもりだから」



もう一度顔を上げた時、そこにもう十歳の少年は無く、ただ、当主としてのセオドアの姿があった。







「…ブランシェさま」

電話越しのココの声が、微かに震えを帯びた。


「テディさまに何かあったのではないでしょうか?」
ブランシェットは務めて明るい声を出す。
「どうしたの、いきなり。テディなら大丈夫よ」
「ですが、誓約の薔薇が痛んで…」
あ、とブランシェットは思わず唇を噛む。
誓約の薔薇は、当主の鏡(影武者)となる誓いを交わすとき、胸に刻まれるタトゥー。
それは、当主の危険を知らせ、命をも脅かされるとき、激しい激痛を齎す。
ココがテディの鏡を解任された際、術は解かれていた筈だが、完全ではなかったということか。

「大丈夫よ、ココ。何も心配しないでいいの」
「ブランシェさま…」
「私たちは運命の双子。テディに何かあって私が気付かない筈はないわ」
「はい…」

微妙に納得し切れていない声を宥めながら、ブランシェットは電話を切った。
後でへらへら笑っている金髪の男をキッと睨みつける。
「……一体、あの子に何をしたの、お前は!」
「これは御当主本人の意思ですよ」
「そうじゃなかったら、お前なんか絞め殺してやるわ!!」

ブランシェットは白いベッドの上に横たわる少年を見やる。
顔は僅かに青ざめて、白い腕に深々と針が刺さっている。
片腕は輸血のため。もう片方の手は、彼の血を排出するために。

「北の伯爵家の晩餐に押しかけました」
クスクス笑みを浮かべたまま、金髪の男が囁く。
「テディ一人で?!」
「お一人じゃないと意味がないのでね。そこで、北家の連中に傀儡にされている姫君のことを匂わせた」
「薬で意識を奪われているという噂の?」
「そう、あとは簡単でしょう?飲み物にたっぷりと毒を注ぎ込まれて、テディさまはこのありさまです」
ブランシェットはぎゅっと拳を握る。
「お前、テディにわざと毒を飲ませたのね?!」
「勿論、事前に打ち合わせして何種類もの解毒剤を摂取させましたとも。しかし、一度毒を体内に入れて頂かないと、薬の分析が出来ないんですよ」
タラタラとセオドアの体内から出て行く血液。そこから毒薬をより分けて、傀儡姫を目覚めさせる解毒剤を作成する。
それが、今回の彼らの狙いだった。

「…大丈夫、だから」
うっすらと目を開いて、セオドアが微笑む。
「大丈夫だから、泣かないで、ブランシェ」
「………。泣かないわ」
ブランシェットは今にも零れ落ちそうに震える銀色の瞳を瞬く。
「私は当主の姉だから。だから、泣かない」
「…うん」
美しき姉弟愛ですね、とチャカした男の爪先を、せめてブランシェットは思いっきりヒールの踵で踏みつけてやった。







表面に綺麗な細工を施した、硝子の水差しがセオドアの元に運ばれてきた。

中にたっぷりと満たされているのは、赤い朱い液体。
セオドアの命そのもの。

「これだけの貴種の血があれば、どれだけ従属種が癒されることか。
私でも思わず喉が鳴りますねぇ」
水差しを持ってきた金髪の男が笑いながらそう言う。
「毒入りだけどね〜」
セオドアはさらっと流して、ベッドで半分身を起こし、水差しに細い指を触れさせた。

「では、当主様、お願いしますよ」

男の言葉と共に、中の液体が少しづつ凍り始める。
いや、凍るのではない。凝縮し、小さな結晶が生まれ始める。キラキラと赤い光を帯びながら。
血液を誓約と共に結晶化させるエフェメローズの力。
それを行使しながら、セオドアはポツリと呟いた。

「やっぱり、自分は自分でしかないんだね…」
ん?と言うように男の翡翠色の瞳が細められる。
「…あの学園に入って…同じ年頃の子と机を並べて勉強したり、初めて学食に入ったり、結社のみんなと出かけたりして…普通に誰かを好きになって、普通に笑って、普通にお喋りして、それがとても嬉しくて……僕は別に城での暮らしも、当主になったことも不満はないけれど、本当は、ほんの少し寂しかったのかもしれない、って思った。
当主である僕を必要としてくれる人はいっぱいいても…ただの子供の僕はいらないんじゃないかってずっと思ってたからね。
だから、傍に居るって言ってくれる人がいて、僕を気に入ってくれる人がいて、僕はあそこで幸せだった。とても」

だけど…と、片腕を目の上に被せる。

「忘れてはいけなかったんだ。僕は当主なのだから、自分がしたいと思うことをすればいい訳じゃない。
決断一つが一族の運命を左右する……自分の命だけじゃない。他の人も巻き込む。大切な人を失うことになるかもしれない。そうなった時、責めを受ける覚悟を持って選択しなければいけなかった…」

今の自分はあまりにも未熟だから、子供の自分を満たすよりも、当主として成長しなければ、大事なものも守れない。
強くならなければ、と思う。
同時に、弱い自分も丸ごと受け入れて欲しい、と子供の自分が叫ぶ。
大切な者を守る力が欲しい、と願う。
誰かに愛されたい、と心が悲鳴を上げる。

「……ああ、綺麗なのが出来ましたね」
薄い青の液体の中に、セオドアが結実させた赫い石が煌く。
「残りは毒薬ですか。中々の量が手に入って私は満足ですよ」
男は、薄い手術用の手袋を嵌めて、にやりと笑った。




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