たっぷりと闇を孕んだ月が苦しそうに覗く中庭から、僅かな鉄錆の匂いがする。 甘く、昏く、狂おしい匂い。 狂気を持つ吸血鬼ならば、抗えないような誘惑の香。 それに混じって、同胞の血を啜る浅ましい音が響く。 悲鳴は、それに気づいたからだ。 先ほどまで普通に会話を交わしていた相手が、すでになすすべもなく狂っていたこと。 狂気を隠して笑っていた瞳が、今はただ、朱い。 「助け……っ!」 叫びが途中で途切れる。はぜた石榴のような色。そして、少し遅く響く音。 血族を名乗っていても、全てがその力を有しているわけではない。力がなければ、狂うこともない。 力…など。なくても生きていける世界だ。それが勿論、世界結界前との確固たる違い。 ただ、己の血筋だけを誇り、地位を築いてきた者の断末魔。 「……覗き見は趣味が悪いですわ」 ドレスの裾に倒れ掛かった屍を、鬱陶しげに振り払うと、血を浴びた淑女は振り返って艶然と微笑む。 「そちらが嗾けたのでしょう?せっかく、今までしとやかに振舞って来ましたのに」 たしか、この女性はこのパーティの主催者だった筈だと考えながら、中庭まで降りてきたセオドアは、 純粋な子供らしい笑みを浮かべる。 「だって、あなたが自分の屋敷を汚しても僕は関係ないもの」 「…いくらあの人に似ていても、やはり、あの女の子供ね。気に入らないわ」 敵意は微妙に哀愁を帯びた。 「あんな女に、ほんの子供のような女に盗られるぐらいなら。私が殺しておけば良かった」 「本当に狂ってしまったんだね」 独り言のような呟きにぴくりと反応する。 「ふふ。狂っているのはどちらかしら。 あの人だって狂わない筈が無い。見えざる狂気に犯されつつも、ずっと、ずっと封印されずに来たのですもの。 ねぇ、知っている?」 ワインレッドの袖に施された黒いトーションレースから、白すぎる手が伸びる。 指の先は、鮮やかな血に彩られていて、まるでマネキュアのように美しかった。 「あなたたちは本当は死ぬ筈だったのよ。 あの女は約束したの。生まれてくる赤ん坊がヴァンパイアでなければ、子供の命を差し出すと」 セオドアは、澄んだ瑠璃色の瞳を見開く。それが気に入ったようで、女は更にその手を伸ばしたまま近付いてきた。 「あなたたちが死んでいれば、きっとあの人も私を見てくれたでしょうにね。 ねぇ、今からでも遅くないかしら?私があなたを殺せば、変わるかしら?」 痛みに耐えるように伏せられたセオドアの眼差しの先には、彼女の指先から滴る血の雫が、石畳に小さな染みを作っていた。 ひとつ、ふたつ、みっつ。 次第に自分の足元へと。 小さく、華奢な肩が掴まれる。 食い込んだ爪の、鈍い痛み。 ぽつり、とセオドアが何事かを呟いた。 それを聞き逃すまいと、身を乗り出した女性に、仄かな笑みが映る。 「知ってるよ、ちゃんと」 痛い、とか、苦しい、とかそんな想いは浮かべないまま、少しだけ笑って、それからそれを隠すかのように酷薄な微笑を刷く。 (自分が生きている意味もね) 「スラッシュ…」 強く強く肩を抑えられながらも、僅かに翻したマントの裾が女性のドレスに降りかかった。 ここまで近ければ多分外さない。 「ロンド。」 ドサリ。と重いものが倒れ付す音が響く。 静寂の中に、白い彫像から吹き出す水音だけが残った。 |