蟲の鳴くころ


                                       絵と文  都筑信介

       (本作品はフィクションであり、登場人物、地名、店名等の名称等は全て仮名で、実在しません。)

 章夫さんは、アンナちゃんと2人暮らし(?)です。9月です。まだ、日差しは強いのですが、木陰に入ると、秋のそよ風が、スーと木々の隙間から流れ、ちょっと涼しい感じ。そして、日没とともに、周りの世界を、ゆっくりと闇が包み込むころ、「ギー、ギー、ギー、、、」と、待ってましたとばかりに、鳴きだしたのが、「螽斯(きりぎりす)」、そう、どこかの歌にあるように、「秋の夜長」に演奏される、蟲たちの「オーケストラ」です。

 章夫さんの町の西には山があって、約3年前、この山に、「人間の身勝手さ、煩悩、そして人間そのもの」が嫌になり、俗世間から離れ、仏の考えに寄り添いたいという、ある女の人が、尼寺を開山したそうです。ここは、秋になると、夜、
多くの螽斯(きりぎりす)や蟋蟀(こおろぎ)たちが、美しい音色を奏でることで知られ、それを慕ったその尼僧が、
満月山螽生寺(まんげつざん、しゅうせいじ)という名に命名したそうです。
章夫さんも、若いころから、人間というものの「悪いところ」、「愚かなところ」、そしてその「切なさ」について、ずいぶんと
悩んできた人生でしたから、一度、その「尼さん」と話をしてみたいと思っておりました。
ある秋の日、章夫さんは、アンナに、「アンナ、今日はいいお天気だぞ~。ちょっと、遠いけど、例の尼寺まで、行ってみるか?」と聞くと、アンナは話が理解できたのか?にこっと笑って、「ワン」と。



道中、幾度となく、木陰にすわり、水を呑み、休み休み、螽生寺まで足を運ぶと、連絡はしてあったものの、テレパシーでも通じたのでしょうか?山門には、例の尼さんが出迎えてくれました。アンナも大喜びです。
「初めまして、私、螽生院朧子(しゅうせいいんろうこ)と申します。遠くで大変だったでしょう?さあ、こちらへ、冷たいお茶が用意してございますよ。」
初対面でしたが、尼さんは、たいへんやさしく、人柄の良さがすぐに伝わってくるような比類のない方でした。



アンナは、玄関の中で、涼しい風の入ってくる隅の一角をみつけると、おりこうさんで、「ここで、一服~」と腰をおろしました。章夫さんは、なかの座敷に案内され、みると、きれいな観音さまが、香の匂いでお出迎えです。
「きょうは、お出迎えありがとうございました。中は、ずいぶん涼しいですね。そよ風が香を気持ちよく、運んでくれているようで、とても良いところですね。」
「気に入っていただけて光栄です。また、先日は、ご寄付をいただき、ありがとうございました。」
「来てみてよかった。私も、今は、あのアンナと二人暮らしですが、人生山あり谷あり、鬼にも会いましたし、こういうところで、俗世間から離れて、自然と向き合えるのがうらやましい。夜は、さぞかし、静かなのでしょうね?」
「はい、その名のとおり、ここは螽斯(きりぎりす)のお寺でございますから、夜8時ともなれば、蟲たちが合唱してくれまして、それだけで、私は十分でございます。しかし、この蟲たちも今季のみ、永遠ではございません。蜻蛉(かげろう)の仲間は、羽化して数日の命というものもございます。みな、無常のなかで生きております。」
「平家物語にある、諸行無常が現実なのですね?」
「はい、どんなに強い人でも、どんなに邪悪な心の持ち主でも、いずれは滅び去る運命にあります。どんなことも、過去のようにはなりません。」

「きょうは、あるお願いがあってまいりました。かつて、一度だけですが、愛犬のアンナが人となって私の前に現れたことがあります。もう一度、それが、かなわないかな?と思いまして」
「現世は、お話したように無常の時間の流れのなかにあります。その中では夢はかなわないと思いますが、もし、時間を止めることができれば、異次元の世界のものと語れるやもしれません。
それができるのは、ここにおられる観音菩薩さまだけということです。」
「わかりました。慈悲深い観音菩薩さまに、手を合わせてゆきますね。」
章夫さんは、そのあと、いろんな人生の出来事を、朧子さんと語りました。朧子さんは、今までに会ったことがないような比類なき、大きな器の持ち主で、なぜ、若くしてこの仏門に身を寄せることにしたのか、それにはこの世には「無常」があり、自分もその周りのものも、すべて刻々と変化してゆくという、ことをお話になり、そのお話に満足した章夫さんは、深く観音菩薩に手を合わせた後、螽生寺をあとにしました。




その日、章夫さんとアンナは、夕暮れ時から、縁側にでて、風の音、鳥の声に耳を傾けていると、日没とともに、紫色の夕闇にまわりは包まれ、あたりは、静かに暗くなってゆきました。そして、草が夜風になびくころ、「ぎー、ぎー」と、
螽斯(きりぎりす)の第一声が聞こえたと思うと、第二奏者、第三奏者が次々に後を追って、演奏開始です。
そして、満月が草むらの向こうの地平線から、ひょっこり、満月が顔をだし、演奏している蟲たちにスポットライトを当てるように、登場です。静かです、ただ聞こえるのは、蟲たちの協奏曲だけ。
「朧子さんが、言われるように、この蟲たちの声も、この時限りか?はかないものよのう」
そんなことを、考えながら、夜風に浸っていると、急に蟲の声が聞こえなくなりました。それどころか、風の流れや、草のざわめく動きもぴったり、止まってしまいました。そのときです。急に月の光が明るくなったと思ったら、目の前に、かつて章夫さんが見た光景が現れました。



章夫さんの耳に、ある声が聞こえました。「おとうさん、わかる?わたしよ、アンナ。」、「おお、、、」
「満月の夜、しばらく時間が止まるから、その間、人の姿になって現世に出てよい、という観音菩薩さまのお許しが出たの。」
「おとうさん、いつも、ありがとう。とても、感謝しています。ほんのわずかだけど、こうやって、お話できること、とても幸せです。」
そういう、アンナの姿を見とれていた次の瞬間、章夫さんの眼前から、すべてはさっと消え失せ、また、ときが流れる風の音が、聞こえてきました。そして、何もなかったように、蟲たちの鳴く声が、章夫さんのまわりで、協奏曲のようにながれているのでした。そうです、「諸行無常」です。


 いかがでしたか?そろそろ、夜になると、毎日、蟲たちが、演奏会を開催しますよね。その声、1つ、1つが、「二度ときくことない声」であると思って、静かに耳を傾けるのもよいと思います、なぜなら、朧子さんがおっしゃるように、蟲の声も「無常」ですから。


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