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善光寺山門の額
3畳の大きさ
飛鳥時時代709年頃善光寺が出来た
大化の改新後の頃
「一光三尊」
いっこうさんぞん
善光寺前立本尊
本堂正面に祭られ
ている本田善光と
ご子息と奥方
 善光寺の発祥(是非 読んで下さい、善光寺が分かります)
@天竺(インド)の大金持ち月蓋長者(がっかいちょうじゃ)の娘如是姫(にょぜひめ)
 が大病になり、お釈迦様にお願いた処阿弥陀様を拝みなさいと言われ南無阿弥
 陀仏を唱えた処みるみる治りました。
A
その後阿弥陀如来様を一生懸命供養した功徳により、月蓋長者は百済の聖明王に
 生まれ変わり、その後9代が過ぎ阿弥陀如来様は百済では十分人々を救った、
 今度は倭国(日本)で人々を救いたいと言われ、
B聖明王は日本の欽明天皇に阿弥陀如来様を送りました(西暦552年)
 (聖徳太子が摂政になったのは西暦593年、それより40年前)
C
天皇の命により大臣の蘇我氏が欽明天皇に代わり祭り上げましたが悪い事に病気
 がはやってしまいました、反対するする大臣物部氏が反対して大阪「難波の池」に
 捨ててしまいました。
D何年かして信濃の国の本田善光(ほんだよしみつ)がその池を通りかかると、お前は
 インドで月蓋長者、百済で聖明王、日本では善光に生まれ変わったのだ、私を祭って
 おくれと背中に飛び乗って来ました、故郷に戻り信州飯田市の元善光寺に祭りました
E
その後に長野で人々を助けたいと申され現在の長野市に移り現在の善光寺が出来た
 (西暦645年)。
 (天台宗のお寺:大勧進と浄土宗のお寺:大本願が守っています)
 (宗派にとらわれず老若男女を受入れたので親しまれています)
F上に有る「前立本尊」は今流に言うとレプリカですが鎌倉時代から祭られている
 
「重要文化財」です、本当の本尊は「秘仏」で現在生きている人は誰も見た事が
 有りません、年末のすす払いの時、本尊の入っている厨子を訓練で住職が背負い
 ますが、中がゴトゴトし十分な重さが有るとだけ分かっています。
 (私の知人の大勧進のお坊さん)
G御開帳の時は本尊ではなく「前立本尊」の手からつながれた紐が回向柱
 (えこうばしら)まで繋がれていて触ると御利益御利益有るそうです。
御開帳スタート
善光寺本堂
飛鳥時代に建立
仁王門と本堂の間に有る山門来年は7年に1度の御開帳
(その年を1年目と数えるから現実には6年に1度開催)

この山門の二階には大変素晴らしい「文殊菩薩騎獅像」「四天王」
大きな仏像が有る、写真不可の為 資料引用したが、ボケていて
見えないのが残念、是非本物を見て欲しい。 
 
 
仁王門      高村光雲とその一門作の仁王像  仁王門は仁王さん
だけじゃない 
仁王門裏側の三面大黒
高村光雲と一門 作(高村光太郎の父)
素晴らしいがよく見えないのが残念だ
(最もよく見えるのがこの写真です)
仁王門裏側の三宝荒神像さんぽうこうじん
高村光雲と一門作
同様に素晴らしいがよく見えなく残念   
(最もよく見えるのがこの写真です)
 善光寺資料館に安置された鎌倉時代
1200年頃 快慶一門の作 阿弥陀如来像
(新聞が良く見えない、又探します)
2008年(H20)の北京オリンピックの時、中国のチベット仏教弾圧に反対して、善光寺からの聖火スタートを辞退した事にダライ・ラマが感動し寄進された釈迦如来坐像  
真田家の供養塔六文錢が見える(善光寺裏) 豊臣秀吉も善光寺本尊を持って行ったが帰し、
武田信玄も持って行ったが最後に帰したと言う御本尊です、さすが善光寺様ですね
   
 
 徳川家 大奥供養塔(善光寺裏)
春日局(かすがのつぼね)大奥の供養塔さす
が頼朝も来れば、お局様も来る善光寺
御開帳回向柱  御開帳の先導白馬 
(前回の写真)
 前回の御開帳での屋台巡行の舞姫、    今年は屋台巡行が無いらしい7月の祇園の
         時に出るとか?
 
今年の御開帳は 
平成27年4月5日
5月31日まで
でした
 
過去の回向柱
9回分×6年=
54年間分立てて
ある60年で
朽ちてしまう様だ
ダライ・ラマが開眼
法要を行ったお寺
西方寺は善光寺
より少し下(南)に
有る 
もうひとつの御開帳
回向柱「涅槃像」
が有るお寺小さめ
だが必見だ 
  年前は御開帳に開催されたが今年は
御開帳とは別の7月の祇園祭りに
沢山の各町の山車(だし)が出され
舞姫が踊りを披露した
本堂左脇にある
三重の塔資料館
ダライラマ寄贈仏様
や高村光雲の
仁王様・三面大黒
の原型等有り 
 鎌倉時代、親鸞
聖人も来たらしい。
善光寺を守っている
天台宗大勧進の
宝物館にはなんと
空海の直筆の
御経も有るのだ
こんなに素晴らしい善光寺、頑張って
早く
世界遺産にして下さい、善光寺さま