設定:暗黒神が滅ぼされた後、ひっそりと、孤独に過ごすマルチェロの元に、ある知らせが訪れた。
忘却とは
忘れ去ることなり。
私は、ただ忘れ去ろうとしていた。
客観的にも不幸と評しても良い生まれも、
そんな育ちも、
自らが為した悪逆の行為も。
かつての私ならば、たとえ永遠の地獄の業火に焼かれようとも、自らの為した行為から目を逸らそうとはしなかったろう。
そのようにして、自らの悪から逃れようとする人間を、心から侮蔑しただろう。
ああ、かつての私は強かった。
おそらく“無知”であったが故に。
幼稚な意固地とも言える、倣岸さがあったが故に。
だが、私は弱くなった。
自らの過去を、背負えると思いも出来ないほど、弱くなった。
だから私は、
自らの過去からも、
自らの罪からも、
ただ目を逸らして、漫然たる日々を送り、漫然とした死を迎えたかった。
ただ、私は全てを忘れ去りたかった。
私は、小さな体躯で、めいっぱい上を向き、私をその青い瞳で見つめる少年を前にし、しばし沈黙した後、傍らの娘に問うた。
「本当に、これがククールなのか?」
「あたしよりあんたの方が、ククールの小さい時はよく知ってるはずでしょ?」
娘は、その豊かな赤毛を絶望的にふり、そして続けた。
「あんた、無駄に記憶力はいいんだから、覚えてるはずでしょッ!?」
いっそ、ヒストリックと評しても良いような叫び。
私が、脳内の記憶を検索するその一瞬の間も許さず、銀髪の小さな少年は、目一杯に主張した。
「ぼくはククールだよ、お兄ちゃん!!」
私は、その声にも、その必死の形相にも、見覚えがあった。
私は嘆息し、かつての自分からは信じられないことだが、赤毛の娘を縋る様に見上げた。
娘から返って来たのは、ただ、こんな一言だった。
「あんたのせいよ、マルチェロ!!!!」
私が為した罪は、反逆。
聖堂騎士たる身でありながら、その仕うべき主たる女神に背いた私は、立派な罪びとだ。
だが私は、自らのその罪からも目を背けた。
いや、人の身たる法王庁が下そうとする“罰”からは、身を守らんと諸策を講じた。
だが、女神の下さんとする“罰”からは、ただ目を背けていただけだった。
何故なら私は、自らの罪を悔い改めるべく、自らの罪と向かい合うだけの強さを、もう持ちえてはいなかったからだ。
ククールは、その天性の悟りの速さで以って、女神の“罰”が、無防備な私に下されんとしたことを悟った。
そして、彼は望んだ。
「兄貴への罰を、オレに引き受けさせて下さい。」
赤毛の娘は、叫んでしまった後で、独り言のように呟いた。
「どんどん縮んでるの。いいえ、どんどん子どもに…ううん、赤ん坊に近づいていっているの。記憶もだんだん怪しくなってきてるわ。もう、あたしが誰かも、ちゃんとは覚えてないみたいなの。」
「そんなことないよ、ぼく、ちゃんと知ってるよ、ゼシカ。」
口を挟むククールの頭を、ゼシカは悲しく撫で摩った。
「…なんでこんなバカな事願ったのよ…」
撫でながら、娘は言う。
「自分でした事なんだから、自分で責任とらせりゃいいじゃない。」
娘は、私を見はしない。
だがその言葉が、私に対する非難でなくて何だというのだろう。
「あんたがこいつに、何をしてもらったって言うのよ!!」
怒気を交えた言葉に、私は返す言葉を知らない。
かつての私なら、いくらでも反論する気力を持っただろうし、いや、それどころか黙って冷笑し、その場に立ち続けることすらしただろう。
今の私は、逃げるしか、術を持たない。
背を向ける。
自らの罪からも、自らの罪が生んだ現実からも。
その背に、私は言葉を受けた。
「だってぼく、お兄ちゃんが好きなんだもん!!」
これほど崇高な自己犠牲の言葉に、私は向かい合う気力などなかった。
見たくない。
考えたくない。
私は全てを忘れ去りたかった。
私の罪を代わりに背負った弟が、日々刻々と赤ん坊に返っていることを。
ああ、全ての思考を止めんと切望する私とて、それが何を意味するか、嫌でも悟らずを得ない。
人は生まれ、育ち、いずれ老いて、死ぬ。
それを逆に回したら?
人は、生まれる前の状態に戻るのだ。
私は、赤毛の娘の抱く赤ん坊を、絶望的な眼差しで見つめた。
ふくふくと健康そうな銀髪の赤ん坊は、その青い目で、それでも私を見つめる。
「抱いてあげなさいよ。」
赤毛の娘は言う。
私は、ゆっくりと首を横に振って、半歩、後ずさる。
「抱いてあげなさいよ!!あんたが起こした結果なんでしょ!?受け取りなさいよ!!」
それでも後ずさろうとする私に、赤毛の娘は強引に、赤ん坊を…ククールを抱き取らせた。
小さな体に似合わず、ククールは重かった。
それは、私の罪の重さであったのか。
ああ
私はかつて望んだではないか!!
「お前など生まれてこなければ良かったのだ!!」
私は、そうと口にさえしたではないか!!
女神が私に下そうとした罰は“忘却”という罰。
私という、
マルチェロという男がこの世に存在したことすら、抹消せんとした罰だったのだ。
弟は、ククールはその罪を甘んじて受け入れ、今、死のうと…いや、“消え去ろうと”している。
私が望んだ通りに、“生まれてこなかったことになろうと”しているのだ。
「いやよっ!!忘れたくないっ!!」
赤毛の娘は、叫んだ。
「あたし、ククールのこと、愛してるんだもの!!ククールと過ごした日々を宝物にしてるんだものっ!!忘れたくない!!忘れたくない!!いやよ、いやよいやよ、忘れるなんていやよぉっ!!」
私は、もはや自らの腕の中のものを見る勇気すらなかった。
ただ、腕の中の重みが、ただただ減じていくのを感じていただけだった。
私のせいだ。
ククールが、私の弟が忘れ去られようとしているのは、他でもない、私のせいなのだ。
かつての私は、自らの剣で弟を葬り去ろうとした。
我が剣で、その命を絶っていたならば、その後、私が至尊の法王の身となり、一身に得た権力でいかに高圧的に命じようとも、弟に関する記憶を奪い去ることなど出来はしなかっただろう。
だが、女神の身はそれを可能とするのだ。
旅を共にした仲間の脳裏からも。
心から愛を捧げる娘の心からも。
そして、弟を心から憎んだ私の心からも。
腕の重さが、限りなく無に近づいた時、私は叫んだ。
「嫌だっ!!忘れたくない!!」
蹲った私が、腕の中についに何も抱えなくなった時、私の頭上から、不思議そうな声が聞こえた。
「あんた、なんでここにいるの?マルチェロ。」
見上げると、赤毛の娘が、心から不思議そうな顔をして、私を見下ろしていた。
「しかも、そんな地べたに座り込んで…気分でも悪いの?まあ何でもいいけど、ウチだって結構人の出入り多いんだから、法王庁に追われるあんたがあんまり長居しないほうがいいわよ。」
私は、縋りつくように問う。
「覚えて、いないのか?」
娘は答える。
「何を?」
それだけで充分だった。
だから私は、赤毛の娘の家を、這うように去った。
汝の望み、叶えて遣わしましたよ、マルチェロ。
私の脳裏に、声が響いた。
もう、それでたくさんだった。
私への罰は、それでもう充分だった。
私はもはや、自らがかつて憎んだ者の記憶すら、誰と共有することも叶わないのだ。
忘却とは 忘れ去る事なり。
忘れ得ずして忘却を誓う、心の悲しさよ。
終
「さばえなす」のべにいもカルカン様から、32000ヒットのキリリクで戴きました。
ゼシカやマルチェロに黒こげにされながらも基本的にピンピンしてる、生命力に溢れたククールを、「シリアスに死なせてください」という、無謀極まりないお願いを聞いていただきました。
だって、せっかくのキリリクなので、無理にお願いしない限り、絶対に読めないだろうお話を書いてほしかったんですもん……。
ですが、本当に読みたかったのは、「ククールの死」そのものではなく、「その時のマルチェロの反応」だということを見抜いていただき、期待通りの作品に仕上げてくださいました。
べにいも様、その節は無理を言って申し訳ありませんでした。
更に、戴いてくるのが遅くなって申し訳ありません。
本当に、ありがとうございました。